Episodi 5 笛と声

 生ぬるい風が吹き抜けて、頬にできた掠り傷を妄りがわしい手つきで撫でていく。ヘロは少しだけ冷えた傷口をそっと手で撫でた。がむしゃらに走っていたせいだろうか。恐らくは、小さな木の枝先や葉っぱで傷ついてしまった柔らかな肌。

 ふと半ば呆然としたままに視線を伏せると、膝を崩して肩で息をつき、蹲っているジゼルが見えた。耳の辺りに小さな赤い線があかぎれのように模様をつけている。――悪いことをしたな、と思った。

 ヘロは昔から痛みに鈍感だった。痛いと思っていたら、朝を迎えることなんてできなかった。何度も何度も心の中で泣いて、鼻の奥がつんとするのをこらえて、膝を抱えるように眠りについて、また香ってくる朝の匂いに――美味しそうな匂いにきゅうと胸を締め付けられて、たったそれだけのことで、赦してしまう。

 何を赦したいのか、何に悲しんでいたのかさえ、もう、よくはわからないのだけれど。

 赤茶色の、さらさらと風に削れる土の上で、鈍く生暖かい掠られた痛みにあてられて、ヘロはもう、眼下に広がる赤煉瓦の町並みに間を縫うように立ち尽くしこちらを見つめる墓標のような人々の影を、どこかぼんやりと見つめていた。やがて人々は、何の合図もなく思い思いに歩みを再開した。張り詰めた空気が緩んで混じり合う。日常が帰ってくる。

「ジゼル、で合ってるっけ」

 ヘロはぼそり、と呟いた。ジゼルは汗を滲ませた額を手の甲で拭うと、は、と小さな息をついてヘロを見上げた。苦しげに掴もうとした土が、その小さくて華奢な手の先を――爪を茶に彩っている。

「うん……」

 ヘロは目を細めた。ぼんやりとしてよく見えない。彼女の瞳が、深い青紫の――葡萄のような色をしているのだけはわかった。

「ヘルメスの杖に、選ばれたんだよな?」

「うん……」

 ヘロは、いつの間にかジゼルから奪い取って右の手に抱えていた杖を掲げ見た。

 ついさっきまで、これはジャクリーヌのものだった。否、最初からジャクリーヌのものでさえなかった。大人たちが、そう言うから。そう言ったから。

 だから、ジャクリーヌのものだったのだ。

(あとで、ジャクリーヌの様子を見に行かないと)

 ヘロはしゃがんで、ジゼルに杖を渡す。まるで赤ん坊を抱えるようにジゼルはおそるおそるそれを手に取った。

(おかしい)

 ヘロは眉根を寄せる。

 あんなにも悪意を向けられていたのに。

 あんなにも、怯えていたくせに。

 もう、こんなにもけろっとしている。

 それがなんだか、幼い子供のような外見にそぐわなくて、違和感があった。

「なあ、」

「え?」

 ジゼルは少しびくりとしたように肩を跳ねさせる。

「お前……もしかして、ああいうの、慣れてるの」

「え?」

 ジゼルは困ったように眉尻を下げる。

「ああいうの、って……」

「だから、あんな――」

 ヘロは、喉の奥から競りあがってくる何かを飲み込むように喉を鳴らした。

「あんな、嫌な目、だよ」

「あ……」

 みるみるうちに、ジゼルの顔が赤くなっていく。ジゼルは俯いた。

「そ、んなことないよ」

 へにゃりと笑う。

「何それ。傷ついたりしないわけ。嫌だと思わないわけ? 何へらへらしてんの」

 ヘロはかすかに苛立ちを感じた。語気がつい荒くなる。

 ヘロにしてみれば、随分と珍しいことだった。あまり怒らないようにしてきた。憤りなんか感じないようにしてきたのだ。そんな風に思ったって、どうしようもないことだってあるのだから。

「迷惑だったわけ?」

 ヘロは目を逸らした。どうしてこういう気持ちになるのかわからない。シクルが耳元で、ため息をつくように馬鹿め、と言った。

「迷惑……な、んのこと?」

 ジゼルは恐る恐ると言ったようにか細い声でヘロを見上げた。

「だから、俺があんたをここまで引っ張ってきたことだよ」

「迷惑だなんて……」

「じゃあ、なんでそんなにけろっとしてんの。なんでもないみたいにさ。あれが嫌じゃなかったわけ。怖いと思ってなかったの? 俺の勘違い? 早とちり?」

『拗ねているのか? わかりづらいやつだ』

「拗ねてねえ!」

 ヘロは舌打ちした。

 ふとジゼルを見ると、彼女はなんとも形容しがたい、どこか怯えたような顔をしていた。彼女の目は足元の蟻を追っている。虫が嫌いなんだろうか。

「……蟻が嫌いなわけ?」

「えっ? ちが……」

 ジゼルは笑いたいのか泣きたいのかへの字にしたいのかよくわからない形に口を引き結んだ。

「い、つもの、こと、だから」

 ジゼルは引きつった笑みを浮かべる。まるで、本当は言いたくなんてなかったのに、とその視線で責められているような気がした。

 この表情をよく知っている。

 毎朝鏡で嫌と言うほど眺めているのだから。ヘロは目を見開かないではいられなかった。

 拒むような目。これ以上入ってこないでと、そこはあなたの踏み入れる領域じゃないと言われているようで。

 ヘロは思わずジゼルに手を伸ばしていた。歯が口の中でかち、と音を立てる。檸檬色の真っ直ぐな前髪をぎゅっと掴んで、かすかに引っ張っていた。

「ヘロ……?」

 ジゼルは目をわずかに見張るだけで抵抗すらしない。ヘロは胸を自分の抑えていた。息が苦しい。息が荒い。息が細い。

 俺はいつも、こんな顔をしているのか。自分にですら、鏡に映る自分にさえか、鍵を閉ざして。

「なんで、ふりはわねえんだよ。馬鹿なの?」

「え……」

 ジゼルは泣きそうな困ったような表情を浮かべる。

「さ、触りたいのかなって……」

「触られそうだったら触らせるわけ? 悪意を向けられたら笑うわけ! 重かったら落とさないように抱えるだけなわけ!?」

 語気が荒くなる。ジゼルが少しだけ後ずさったのがわかった。どうしてこんなに苛々するのかわからない。はっ、と息を強く吐いて、ヘロはジゼルから顔を背けた。靴の裏で土を殴るように踏み鳴らして立ち上がる。

「お前、家はどこ」

「え……ゲルダ=フェルフォーネの……」

「だから、それがどこだっつってんだよ!」

 ジゼルは泣きそうな顔になった。

「東の…丘を越えて、向日葵畑を越えたところに……麦色の、家が……」

「送っていく」

「え……」

 ジゼルは恐る恐る立ち上がって、服の裾についた土をはらいながら戸惑うようにヘロを見た。

「い、いいよ……一人で帰れる――」

 ヘロがきっと睨み付けると、ジゼルはびくりと肩を跳ねさせて杖をぎゅっと握り締めた。

 ――あの中を一人で帰る? 正気なわけ? 慣れてるって? 馬鹿じゃないの!

 ヘロは舌打ちすると、今度はジゼルの手には触れずに、袖の裾を抓んで引き寄せた。

 ざり、ざり、と土が擦れる音がする。

 ジゼルは戸惑うように、時々よろめきながらもヘロの後についてきた。



     *


 ひそひそと声が聞こえる。

 あの子が、例の――。ああ、かわいそうに。嫌な子。どんな手を使ったのかしら。儀式もうまくできなかったらしいのに。水をぼたぼたと零していたって。なんてはしたない。

「やあヘロ。君がこのアポロから初めて生まれた勇者なんだね、鼻が高いよ」

 話しかけてくる人は全て、取り繕ったような笑みを浮かべる。ヘロは、立ち止まった。

「魔道士だって初めてだろ。こんなど田舎から二人も巡礼者が出たんだぜ。喜べよ」

 目を細めて彼らを見ると、彼らはどこか、小さな子供に向けるような目で――生暖かい眼差しでヘロを見下ろしていた。

「どうした? ヘロ。疲れたか? 今日はゆっくり休めよ? 明日にはアポロに訪問なさっている皇太子に謁見して、もう出発だろう?」

 ヘロはぎり、と歯を軋ませて、振り返らずに歩いた。ジゼルが転びそうになる。その手首をまた握り締めると、ヘロはジゼルの足の遅さなんか気にも留められずに脚をひたすら動かした。

「ヘロ……痛い……」

 ジゼルがようやく、その言葉を漏らす。ヘロはぴたりと立ち止まると、振り返ってジゼルを睨み付けた。

「遅い」

「な、何が……?」

「俺にもわかんねえよ!」

 叫んで、自分のせいで赤くなったジゼルの細い手首を見つめる。

『やれやれ、八つ当たりか?』

 シクルがぼそぼそと呟くのをきっと睨みつける。

「気が変わった」

「え?」

「今日は俺の家に泊める」

「えっ!?」

「それとも何? 今日家に帰らなきゃいけない用事でもあんの。どうせ端から選ばれないだろうってたいした旅の準備もしてねえんだろ。じゃあ大差ねえだろ」

「そ、そんな、急すぎるよ!」

 ジゼルがか細く叫んだ。

「な、なんで……」

 不信感を孕んだ眼差しを向けてくる。ヘロはなんだか幼い子供のころに帰ったみたいに、泣きたいような気持ちになった。

「俺だってわかんねえんだよ! でも……」

『やれやれ、この娘とお前は違うぞ。何を自己投影している。大きな世話と言うやつだ。何をそんなに取り乱している。保護者気取りか? 兄気取りか。そなたと大して歳も変わらぬのだろう? この娘は』

 シクルがどこか非難するような声で言う。

『そんなに不安か? 娘はそれを深く気に病んでいるわけでもあるまいに、そなたがただ、餓鬼のような独占欲で、この娘に悪意を向けられることが嫌だなどと駄々をこねているだけだろう? 娘の都合も考えてやれ』

 シクルは嘆息する。

 ――独占欲、だって?

 そうなのかもしれない。ヘロは、ジゼルを睨むように見つめた。ジゼルは何度も懲りずにまた肩を跳ねさせる。

 ジャクリーヌが選ばれなかったことは残念だ。けれど、どこかであの子が選ばれなくてよかったとかすかな安堵さえ覚えている。選ばれなければ、彼女は体に鞭を打つ必要がもう無いと言う事だ。今までの努力は報われないかもしれないけれど、少なくとも、幸せな人生は送れるだろう。結婚して、子供を生んで、歳をとって、穏やかな生を送れるだろう。

 けれど、それはそれとして、自分は選ばれてしまったのだ。そして、この、目の前にいる、ずれた所でばかり怯えるような変わった子供だって、ヘロと一緒に選ばれた巡礼者だ。自分にとっての片割れと同じだった。そんな気持ちが芽生えてしまうのも、もしかしたら二人を選んだ神器の絆がそうさせているのかもしれない。けれどそんなことさえどうだってよかった。ヘロはただ、自分にも向けられる温かい眼差しを、選ばれてよかったなと向けられる賞賛を、この少女にも差別なく与えて欲しかったのだ。俺は恵まれてなんかいない。ジゼルだって恵まれてないんじゃない。同じなんだ。同じ場所に立てる、唯一の同志のはずだ。

 ジゼルが選ばれたかったかどうかはわからない。選ばれたくなかったかさえ本当のところはヘロにはわからない。ヘロの正直な気持ちは、選ばれたくなんてなかったと思っていた。不思議なほどに、今は素直にそう認めることができていた。あんなにも、両親のために選ばれなければと思っていたのに。

「俺は、失望させたかったんだ。きっと……父さんを、母さんを……これだけ俺にさせておいて、でもそんな努力も愛情も無駄だったんだぜって、本当は見せ付けたくて、でも、できなくて。やっぱり、喜ばせてしまうのだし、それを見てきっと俺は、素直に顔には出せないくせに、嬉しいとか思ってしまうんだ」

「ヘロ?」

 ジゼルは、気遣うような眼差しをヘロに向けてくる。

「そうやって、ようやくあの二人を喜ばせてあげられるのに、なんで、なんで、魔道士はこんなやつでかわいそうだね、だなんて、そんな目で見られなきゃいけねえんだよ! もうちょっとしっかりしろよ! 堂々としてろよ! 俺だって何で選ばれたのかさっぱりわかんねえんだよ! なんであんたが選ばれたかもわかんねえよ。だったらわからない同志でなんとなく分かり合えそうな気もするじゃんか! もうちょっと同じ場所に立とうとする努力をしてくれよ! あんたに向けられるあんな目は絶対に……絶対に、当たり前でもないし赦していいことでもねえぞ!」

 ヘロは叫んだ。ジゼルは中てられたように目を見張っていた。ヘロは今度はジゼルの手を握って、ひっぱった。

「え、あの、私の家は、こっち……」

「信用できない」

「え?」

「実の親でさえ、俺が本当に信じられないでいるのに、お前の養母なんて、悪いけど、信用できない。明日この星を発つ前には寄るから、我慢して」

「ええ?」

『自己を重ねたところで、無駄なことだぞ、ヘロ』

 シクルが、どこか哀れむようにそう呟いたのを、ヘロは聞こえなかったふりをした。



     *



 この世界の親と言う生き物は、異常なのではないかとヘロは思っている。

 他の世界がどうかは知らない。これが、この田舎のアポロだけのことなのか、他の星だって同じなのかだってわからない。この八つ星以外に世界があって、親があって、子供がいるのか……そんな世界が他にある可能性だって知りはしない。

 けれど少なくとも、ヘロはこの数年になって、自分は異常な子供なのではないかとぼんやり考えるようになった。

 俺が異常なの? それとも、俺の親が異常なの?

 ヘロの両親は、トゥーレの両親となんら変わりはしない。ほかのどの家族とも大差ない。唯一差異があるとすれば、ヘロが他の子供に比べれば少しだけ勘がよくて、飲み込みが早いほうだったと言うだけのことだ。その分、は些か過激なものになった。けれどそれだって、ヘロ自身が知らないだけでよその家庭も似たり寄ったりだったのかもしれない。

 重要なのは、それを、ヘロが好きになれなかったということだ。

 他の子供たちが、それぞれに、それなりに折り合いをつけて、受け入れたことを、ヘロはことでしか消化できなかった。

 シクルのことを恨んではいない。でももしかしたら、もう少しだけでもシクルが言葉をかけてくれるのが遅かったら、ヘロはシクルの言葉を拒絶してしまったかもしれない。その時の危うい心の針金が、いつ切れてしまうかわからない恐怖が、未だにヘロを怯えさせている。怯えていない振りをしている。怖いものなんてない振りをした。けれどヘロはいつだって、自分の内面を見つめることが怖い。

 一度だけ、シクルに言った事がある。心が荒んでいた時のことだ。「あなたに選ばれたのが、僕の一番の不幸だ」。

 あの時のシクルの声を忘れることができない。どこか無機質な声で、優しい声で、「すまない」とだけ言った。思い出すだけで、頭を抱えて何もわからなくなりそうになる。取り消したい。あんなことを言ってしまった過去の自分を殺してしまいたいくらい、それはヘロにとって汚点だった。シクルはそれからもずっとヘロの心を支えてくれた。シクルがいなければ、きっとヘロはまともになんかなれなかった。まともに成長なんてできなかった。今でも、その時のことを考えることも、話すことも避けている。シクルを傷つけてしまったことが怖い。あのプルートの鏡につけられた傷に怒りを覚えられるような立場じゃないのだ。それなのに、ヘロはあの時どうしようもない怒りと灰色の気持ちに苛まれたのだ。

 同じようなことをしたのに。未だにし続けているのに。あの時のことを、まだ謝ることさえできないでいるのだから。


 ヘロは、吟遊詩人になりたかった。

 それは、幼い頃に抱いた小さな夢だった。ヘロは音楽が好きだった。楽器を奏でることが好きだった。誰も教えてはくれなかった。なぜならそれは、赦されないことだったからだ。シクルに愛された子供に、人が一生懸命に作り出した楽器に触れる資格なんてない。シクルに愛されると言うだけで、その子供は至上の幸福を手に入れているのだから――。幼い頃はそれさえもわからなかった。【まじゅつしのさなぎ】と呼ばれる子供達が、絵の描き方や楽器の奏で方を学んでいるのをいつだって羨ましく眺めていた。口笛さえ吹くことを赦されなかった。歌うことはもっと赦されなかった。ヘロは歌いたくてたまらなかった。音楽が好きだった。心が洗われるような心地だった。どうして僕は、シクルだなんてよくわからない板切れを持っていると言うだけで、好きなことをさせてもらえないんだろう。ぶたれるのだろう。

 こっそりと、魔術師の教室に忍び込んで、楽器を奏でる練習をした。先生にもついていないのに、随分と上手だったと思うのは自画自賛だろうか。「ひかりのすあし」という曲があった。それはとても素敵な音で、泣きたくなるような詩だった。ヘロは隠れてオカリナで練習した。見よう見まねで、木を削って同じ笛を作った。そうしてようやく形になったとき、ヘロは母親に聞いてもらいたくて、嬉しくて、母さん!とはしゃいでオカリナを吹いたのだ。

 一音、二音。

 それだけで、ヘロは叩かれた。ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい、と何度言ってもその手は止まなかった。痛みに震えて、褒めてすらもらえなかったことに悲しんで、床に蹲っていたら父親が帰ってきた。母親は――母さんは、それをとても恐ろしい顔で父さんに報告した。まるで、子供が悪意を持って先生に言いつけるように。自分は正しい、あの子は異端だと薄ら笑いを浮かべるような――それと同じような錯覚を、その時ヘロは覚えたのだ。

 あとは父親が、もうヘロが声すら出せなくなるほどに殴り、蹴り、壁にヘロの体を打ちつけた。体に覚えこませなければいけないと言って。世界の禁忌は、体に染み込ませなければならないのだ、と。父さんだって同じことをされてきた、すまない、だがこれがお前のためなんだ。そう言って泣きながらヘロをた。

 歌わなかったのは正解だったかもしれない。

 指が何本か折れてしまって、しばらくはまともに筆すら握れなかった。もしも歌なんか歌っていたら、もう二度と声が出せないように毒を飲まされていたかもしれない。毒を子供に飲ませるのなんて、日常茶飯事だったのだから。それは当たり前の躾だった。いつか勇者になる子供。勇者になるために必要なこと。毒を飲ませ、苦しませ、体を丈夫にさせる。痛みを覚えさせ、生命の危険に対応できるようにする。殺されると言う恐怖があれば、子供はがむしゃらで剣を振るうのだ。殺されるくらいなら殺してしまわなければならない。幼い子供だとしても鶏の首を絞め、鼠の尾を引き千切り、豚の腹を掻っ捌く。勇者の仕事は、例え何があっても魔術師を守ることだ。その為に何でもできるようにならなければならない。祈りを捧げる魔術師が、無事に星を巡る事ができるように。その為の。そして、期待。

 ヘロは不幸なことに――大抵の子供から見れば、幸運なことにも、勇者としての才能には優れていた。だから両親のは際限なく花弁を重ねていった。火傷、傷、脱色、骨折、熱、下痢、嘔吐。全ての痛みに子供はそうして鈍感になっていく。

 けれど、それは【勇者の蛹】である子供達が多かれ少なかれ誰でも抱える人生の試練だった。トゥーレの背中や四肢にだって、数え切れないほどの火傷の跡がある。けれどトゥーレはそれを隠そうとはしない。おそらくは殆どの子供はそれを隠したりはしない。だって、皆同じなのだから。当たり前なのだから。時々、女の子の【勇者の蛹】は傷跡を気にすることもあった。けれど、それを嫌がる男もいない。その傷は、彼女がという証なのだから。彼女の心がそれに耐えたという、強さの証だから。

 けれどヘロは自分の体中にある傷跡を晒すことに耐えられなかった。幸い、腕や首の見える部分には目立つ傷はない。だからヘロは、特に長い髪が好きなわけでもないけれど、左の耳の前にある火傷の跡を隠すために髪を伸ばしたし、右の額の裂傷と火傷を隠すために前髪を長く伸ばした。ジャクリーヌにだって露にしたくなかった。ジャクリーヌに触れようとしなかったのは、何もトゥーレのためだけではなかった。そんなのは言い訳だった。その優しい手で触れられたくなかったのだ。もしも触れられたら、今度こそ何かの糸が切れてしまう気がした。

 一度、トゥーレが「お前の傷、おれより多いなあ。すげえなあ、がんばってんだな」と、本当に素直な声でそう言った事がある。ああ、そうか、僕の傷は他より多いのか。他の子供よりも期待をかけられて、躾が厳しいのだと、涙さえ忘れた。だからヘロは傷を見せるのは嫌いだ。自分がどれだけのか知られてしまうのが怖かった。どうして怖いのかはわからない。もしかしたら、未だにヘロがそれを好きになれないからなのかもしれない。

 いつしか、飲まされ続けた毒薬のせいで、薄紅色だった髪に金色の脱色した髪の毛が混ざるようになった。やがてそれは、隠せないほどに束になって、ヘロの髪は斑になった。それを人々は綺麗だと言った。ジャクリーヌでさえ、その髪が好きだと言った。それはどこか嬉しくて、そしてどこか苦しかった。僕の髪は本当はこんな色じゃなかったんだよ。どうして誰も気づいてくれないの? どうして、誰も、

 ――辛かったね、と言ってくれないの?


 ああそうだ、とヘロは想いを馳せる。俺は辛かったのかもしれない。そんなことしか思えない自分が後ろめたかったのかもしれない。他の子供は誰もそんな弱音を吐かないのに。子供達の本当の気持ちなんてわかるはずもない。それぞれに苦しんでいるのかもしれない。けれどいつかは同じ大人になって、同じような親になってしまう。だとしたらそれは、彼らにとってはただのほほえましい思い出に過ぎないのだろう。結果的には。

 ヘロは、自分の後を戸惑うようについてくるジゼルを眺めた。妹がいたらこんな感じなのかな、とふと考える。小さくて、儚くて、今にも泣きそうで、心細そうで、けれど子供だから、ことの重大さをよくわかりもしない。

 彼女がヘルメスの杖を抱えて、引きつった笑みを浮かべていたとき、「ああ、この子は選ばれるとは思いもしていなかったんだ」と思った。選ばれたことを、嬉しいだなんてすら思っていないのだと。この子はきっと俺と似ているんだって。

 だとしたら、【魔道士】だなんて名誉ある地位に選ばれたこの子を、自分と同じように誰かに祝福してもらいたかった。けれど、誰も彼女に声をかけてはくれない。誰も、ヘロの気持ちを察してくれない。

『そなた、これでもまだあの両親に期待をしているのか? あれだけ失望させられたではないか。なのにどうしてまた縋ろうとする。そなたはよくやった。あれらの期待通り、願い通り、確かに【勇者】になって見せたではないか。そなたは十分に親孝行と言うものを果たしている。ならば今度はそなたが親を捨てる番ではないのか。もう、捨てたところで誰もそなたを責めはしないのだよ』

 シクルが、哀しげな声でそう言った。

 そう、そうだ。きっと、俺は。

 あの人たちに、このジゼルを【魔道士】として認めてやって欲しいのかもしれない。恐らくはあの人たちにとって、【勇者】になった息子はもう息子ではない。畏怖すべき存在だ。俺が紹介をすれば、あの人たちは、例え本心では確執が合ったとしても、あの二人だけは、ジゼルに悪意を向けることができない。だって、ジゼルは紛れもなく杖に愛され、だった【勇者様】の守るべき人パートナーなのだから。

 ヘロは乾いた笑みを漏らした。

 そうまでしてなお、愛されたいか――。

 シクルの声が、記憶を撫ぜていった。


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