ウラノスの地図

星町憩

第一章 惑星アポロ

Episodi 1 玻璃と朝

 空はとても不思議だ。

 ある一瞬を境に、暗闇が光へと変わっていく。

 夜の闇は、壊れてしまった時計のように決して動かないのに、その一瞬という点をひとたび過ぎれば空は途端に色を取り戻していく。時間を取り戻して止まらなくなる。

 そもそも、誰が時計なんてものを作ったのだろう、とヘロはぼんやり考える。はた迷惑な話だ。時計があるせいで、寝坊だの夜更かしだの小言を言われなければならない。登校下校も管理される。この長閑な家畜の鳴き声の響く町で、唯一時計とその周りの時間だけが異様に浮いている。

「ん、あー……今何時だ?」

 ヘロは、枕元に置いていた五角形の小さな板を見つめる。水晶を薄くして磨いたような、水色に透き通るそれは、【シクル】と呼ばれる玻璃の構造物だ。おいで、とでも合図するかのように指をくいくい、と動かせば、それはわずかに光り、ふわふわと浮きあがる。やがてシクルはヘロの手のひらにぼとりと落ちて収まった。ヘロはシクルの表面を、人差し指で円を描くようにくるくると撫でた。鈍い灰青の光が出て、表面に時計の短針が現れる。五時十三分――いつもの習慣で、早く起きすぎたらしかった。隣では親友のトゥーレがよだれを垂らして気持ちよさそうに眠っている。布団はぐしゃぐしゃだった。ヘロは嘆息して、かけ布団をきれいにはたき、トゥーレにかけてやった。

 昨日はトゥーレと夜更けまでパーカトゲームをやりこんでしまった。先に寝てしまったのはヘロだが、おそらくはトゥーレもその後寝落ちしたのだろうと思う。ヘロが寝たのが確か二時過ぎのことだった……要は実質ほとんど寝ていないことになるわけで。

 ヘロは大きな欠伸をして、目をゆるゆると擦った。気怠い眠気が体中にまとわりついている。ヘロはシクルを再び指で撫でて、パーカトゲームの画面を起動した。シクルから放射状に光の線が伸び、空中に画面を映し出す。ヘロのデデラアバターはあおむけになって、画面の中央に浮いていた――寝落ちのせいで死んでしまったらしい。ヘロはむすっとして、溜息を小さくこぼした。

 シクルは、【羅針盤】と言う意味の古語から、その名をつけられている。その原石は、ヘルメスの星の泉の底からしか取れない――と言われている。古代ヘルメスで、泉に潜った少女が珊瑚を石で割ると、その中から姿を現したのだそうだ。その不思議な材質を、人々は玻璃と呼んだ。玻璃からは様々なものが作られたが、薄く加工することは非常に難しく、ようやくできたそれは浮き上がって、意思を持ち、人々の暮らしに溶け込んだ。そう、数ある他の玻璃加工物と異なる【シクル】だけの特徴――それはシクルがことだ。

 シクルは持ち主を選ぶ。子供が生まれたら、この連合星に住まう人々は須らくシクルを与える。それは一種の儀式だ。シクルは、まるで虫のように、蝶のようにふわふわと持ち主の周りを飛び回り、子供が大人になるまでずっと彼らの友であり続ける。子供がシクルに選ばれるか否かは、その子供自身の資質に関わっている。シクルに選ばれたものだけがシクルを扱える――人々はシクルに選ばれた子供を【勇者の蛹】と呼んだ。とは言っても、本当に【勇者】になれるのはその中から七十一年毎にたった一人きりである。なぜ七十一年だなんて中途半端な数字なのか、誰も理由を知らないし、知っていたとして教えてくれる者もいない。ただ、そう。世界に勇者は二人も要らないから、勇者になれない子供たちはやがて、玻璃鍛冶師や研究員、あるいは帝都の警備隊として生きるようになる。勇者の権利を手放す時が、子供たちとシクルのお別れの時でもあるのだった。

 一方で、シクルに選ばれなかった子供は、魔術を学び、魔術師になる。

 魔法は、シクルに選ばれなかった人間が、シクルと同等の技術を身につけるために見出した術だった。それを知るのはシクルに選ばれなかった人間だけ。逆に言えば、たとえどんなに魔法に興味があっても、物心もつく前にシクルに選ばれてしまっていたら、その子供は生涯魔術に触れることができない。それが暗黙の掟だった。持たざる者と全てを持つ者。そんな存在を捨て置くことを世界は認めなかった。「誰でも何かの恩恵を受け、何かを諦めている」――こんな言葉が、子供たちの学ぶ最初の道徳である。

 魔術師は吟遊詩人と魔道士の二つに分かれている。音や声を奏でることで呪文を描く吟遊詩人と、文字や絵を描くことで呪文を描く魔道士。どちらも結局は蛹であって、最終的に【吟遊詩人】、【魔導士】になれるのは【勇者】と同じ、七十一年に一人ずつ、神器に選ばれた者だけだ。彼ら蛹たちが、大人になったらどういう職業に就くのかを、ヘロはよく知らない。もしかしたら何者にもなれないのかもしれない。ヘロの住むこのアポロの星に大人たちはたくさんいるけれど、家畜を飼い、農業を営む者がほとんどだ。ヘロが知っているのは、自分の父親がかつて【勇者の蛹】だったということだけである。

 そして、ヘロとトゥーレもまた、【勇者の蛹】だった。けれどヘロには、親友のトゥーレにも言えないでいる秘密があった。両親にでさえ、話したことはない。おそらくは、どの【勇者の蛹】も知らない秘密を、この星でヘロだけが抱えている。

「おはよう」

 ヘロは小声で囁いた。ヘロのシクルもまた、ほふわふわとヘロの頬に寄り添うと、微かな吐息で『おはよう』と応えた。

 【シクル】はのだ。けれどヘロは、この星で、自分の持つシクル以外のシクルが持ち主と会話をしたという話を聞いたことがなかった。ヘロのシクルに言わせれば、それはこういう理由である。【シクルは誇りが高い故、滅多に人間と話したいとは思わない。シクルのほうが気高いと言うのに、シクルたちを使役している気でいる愚かな人間とわかりあいたいなど思うシクルなど居はしない】――

 ならばなぜヘロには話しかけてくれたのか……それを聞いても、シクルは大抵黙ってしまう。一度だけ零したのは、【ヘロの心が泣いていたから、居た堪れなかった】という言葉だった。それはもう随分と昔の話で、ヘロでさえ記憶が曖昧だ。五歳くらいだったはずだ。その頃からヘロは――いや、もっと前からだったのかもしれない、とにかく、ヘロは物心がつき始める程度のうんと幼い頃から、両親の期待を一心に受けた。自分が水をぱんぱんに注がれた風船で、割れてしまうよと泣く声は父さんにも母さんにも届かない。当時のヘロはずっとそんな心地でいた。けれど風船が割れてしまう前にシクルが話しかけてくれたから、ヘロは孤独でなくなった。ヘロはそれ以来、両親には本心を零さなくなった。シクルがヘロの心を受け止めてくれた。ヘロはずっとでいられている。

 シクルと心が通っているために、ヘロは誰よりもシクルとの共鳴力シンクロニティが高い。だからヘロは【勇者の蛹】の秀才だなんて呼ばれる。このアポロの星で、シクルを翼に変えて空を飛ぶことができる子供はヘロだけだった。ヘロは自分が幸せだとも、不幸せだとも思わないけれど、ヘロのシクルはヘロがこの星に生まれたことは不幸だという。帝都のあるプルートの星なら、空を飛ぶくらい当たり前のようにできる天才達が群雄割拠で、ヘロの才能なんて埋もれてしまったに違いない。なのにヘロは、連合星の辺境、田舎と言われるこの端の星、アポロに生まれてしまったから、その程度の秀才でも両親、学校、星中の民から期待を受けてしまうようなそんな存在になってしまった。


 ヘロはごろんと体を倒して、天井を見つめる。格子状に組み立てられた木の柱。天井を彩るのは緑色の星空を模した天井画だ。その中で一際目立って描かれているのは、白い八つの星で、これは連合星を象っているのだった。真っ暗で空気すらない、限りなく広がる宇宙という名のいろ無き空虚うつろに、この八つの連合星が浮いている。端からアポロ、アフロディテ、プルート、ガイア、ウラノス、サタン、マルス、ヘルメスと呼ばれる星たち。それらは【蛇の道】と呼ばれる白い線路で繋がれているのだそうだが、ヘロはまだ他の星に足を踏み入れたことすらない。

 宇宙の話を、先生や大人はしたがらない。だから、宇宙に関して、子供達は殆どのことを知ることもないままに、同じ大人になっていく。ヘロは一度、学校の先生にこう尋ねたことがある。「他にも星があるなら、俺達と同じように人のいる星があるってこと?」――教師は、奇異なものを見つめるような目でヘロを見下ろした。同じ質問を両親にしても、同じことだった。あの時感じた空恐ろしさを、ヘロは今でも忘れることができない。

 けれど少し大きくなった今なら、あの大人たちはその答えを持たなかったし、恐らく疑問にすらもう思えないのだろうとわかる。それがきっと、大人になる、ということで。

 大人になるにつれ、人はシクルを扱えなくなるし、魔法だって単純なものしか使えなくなる。それでも大人は子供達に魔法を学ばせることをやめない。それは夢だからだ。誰もが描く夢を子供に託す。【巡礼者】――勇者、魔導士、吟遊詩人に選ばれるという栄誉を。

 神器、と言うものがある。その昔、人間は神の支配から逃れるために戦争を起こした。八人の救世主は、この八つの星を神の支配から切り離し、独立を勝ち取った。その救世主たちが用いたとされる宝具が、神器である。

 アポロの縄、アフロディテの竪琴、プルートの鏡、ガイアの筆、ウラノスの地図、サタンの天秤、マルスの水瓶、ヘルメスの杖。この世界の安寧を保つための、尊き道具だ。

 そして神器は七十一年に一度、一人の勇者と一人の吟遊詩人、そして一人の魔道士を選ぶ。七十一年に一度、八つの星に住まう十五歳から二十歳までの少年少女だけが、【試験】を受けることを許されて、神器の安置された空間で自分の持てる全てを披露する。子供たちの能力を見定めた神器が選んだ【巡礼者】は、連合星を端から端まで、【蛇の道】を渡り巡礼をする。巡礼を終えて戻れば、彼らは英雄として生涯称えられることになる。

 実際には、この巡礼者は勇者と魔導士の二人であることが多い。【吟遊詩人の蛹】となるような、玻璃と共鳴する歌声を持つ子供が数少ないだけでなく、これを選ぶアフロディテの竪琴が非常に気難しいのである。ここ数百年ほど吟遊詩人の巡礼者は誕生すらしていないのだ。そのため、実質的には、この【試験】は勇者と魔道士をそれぞれプルートの鏡とヘルメスの杖が選ぶという儀式だった。鏡と杖は【試験】が始まればアポロの星から始まり最後の星ヘルメスまで帝都の研究機関によって移動され、子供たちに期待と絶望を与えていく。【試験】が終わった瞬間、選ばれなかった全ての子供たちは、【勇者】や【魔道士】というシェーネに就くという夢を打ち砕かれ、魔術を学ぶだけの、ただの人に変わる。


 窓のルーデルカーテンの隙間から漏れる朝の光の筋を見つめながら、ヘロは嘆息した。ヘロもトゥーレも、そしてヘロの恋人であるジャクリーヌも、今年開かれる七十一年ぶりの【試験】を受けることになっている。だからこそ、ヘロと同年代の子供たちが親から受ける期待は、それぞれの子供たちにとっての重い枷だった。家でのになってしまうほど。

 ジャクリーヌは、天才魔道士の蛹と言われている。彼女は元々、考古の星ガイアで生まれ育った。アポロに移り住んできたのは彼女と、そしてヘロが十二歳の時だった。生来、彼女は体が弱く、その病気に効くような薬草がアポロに特異的に群生していたらしい。

 彼女は連合星において天才と呼ばれる子供たちの中でも特別で、所謂【歴史にいずれ名を残すであろう】子供だ。その才能は、幼い頃から特例でヘルメスの杖を使うことを許されているほどである。学校の授業、自主的な鍛錬においても、彼女は当たり前のように、惜しげもなくヘルメスの杖を使用する。神器が【名を認める】のは七十一年に一度しかないから、杖はまだ彼女をその【声】で認めたわけではない。けれど、その杖を使えているのが何よりの証拠だと言って、連合星中の誰もが彼女こそ未来の【魔道士】であろうと疑っていなかったし、またジャクリーヌ自身もそのつもりで日々努力を重ねていた。彼女は決して驕らない。どこまでもひたむきに――体に無理をさせてまで、学び続けている。

 正直なところ、ヘロは【試験】に対して乗り気ではなかった。自身が受けることに対しても少し抵抗がある。両親がヘロが生まれ落ちた瞬間から、それだけを夢見続けていると知ってはいても。けれど気乗りしない理由はそれだけではないのだった。ヘロは、体の弱いジャクリーヌが【魔道士】に選ばれてしまうことが怖い。その想いは試験の日が近づくごとにヘロを苛んでいくのだった。自分がもしも【勇者】に選ばれたなら、彼女を守ることができるだろうか?――けれど、それ程の能力も才能も、自分にはないとヘロ自身が良く理解している。それに、その覚悟すらまだ持てずに居る。なぜ、覚悟ができないでいるのか、自分でもよくわからなかった。ジャクリーヌを想う心に偽りなんかないのに。

 自分はジャクリーヌのような稀代の天才でもない。【勇者】に選ばれるのは恐らく自分ではない。そんなことはどうでもいいから、ジャクリーヌのことをどうか杖が選ばないでくれたらと、願わずには居られない。――例えそれが、ジャクリーヌ自身をも裏切るような願いだとしても。

『そなたは実に変わっている』

 何度考えたかわからない、そんなことを悶々と眠い頭で考えていたら、シクルが溜息をこぼした――シクルにはヘロの心が読めるのである。

「そうかなあ」

 ヘロも呟いた。

『そなたは勘違いをしているよ。神器はそもそも能力で彼らを選ぶのではない。神器もまた、全て玻璃でできている。なればシクルと同じ信を有しているということ。あれらが選ぶのはその魂であり、心だよ』

「そんなこと言ってもさあ」

 ヘロは嘆息した。

「その論理で行くと、あなたと話せている俺は魂が清らかって話になるけどさ、俺そんなにできた人間でもねえしな」

『ふ……お前の魂が清らかだなんて馬鹿な話があるものか。片腹が痛い』

「ひっど」

『とにかく、ぐちぐちと心の中で自問自答したところで、そなたが【試験】を受けることは決定事項だろうに。そなたの親が、そなたの棄権を許すはずもなかろう?』

「わかってるよ。……自分でもわかんねえんだよ。なんでこんなにやる気が出ないのかさ」

『それは――』

 シクルは口ごもった。

『……そなたにもそのうち、わかる日が来るだろうさ』

 雨の雫が木の葉に落ちるようなささやかさ。シクルの声に聞き入りながら、ヘロは深く息を吐く。そっと目を閉じると、思っていた以上に深い眠りが、ヘロを呑み込んでいった。



     *



「うわ、やべ……絶対寝過ごした」

『安心しろ。あれからせいぜい一時間ほどしか眠ってはいないよ。まだ朝も早い』

 ヘロのかすれ声に、シクルが楽しげに笑ったような吐息で囁く。

 しぱしぱと沁みる目を細めながら、ヘロは体を起こして隣を見た。トゥーレは仰向けに寝そべって、口をぽかんと開けている。起きる気配がない。その足が自分の目の前にあったので、ヘロは顔をしかめてぺしっ、と払いのけた。

 階下からはこんこん、と母さんが包丁で何かを切っている音が聞こえてくる。その音を聞いていたら、朝食の匂いが部屋の中にも香ぐわって来たような錯覚が心地がした。シクルを撫でて時計の針を見ると、まだ六時。

 ――ここで俺が先に起きていったら、トゥーレが何か思われるだろうな。

 ヘロはもう一度仰向けになって、布団に横たわった。大人たちは笑顔の裏にいろいろなことを考えているわけで。なぜそういう風に捉えるのだろう、とヘロにはまだよく分からないのだった。いつか自分もああなるのかなあ、それでいいんだろうか、とヘロは時々考える。考えても仕方のないことを考える。それでも、大事な親友に自分の親が悪い印象を持つという事態を避けたいという気持ちがむくむくとわいた。ヘロは嘆息して今一度瞼を閉じる。二人して寝坊すればごまかせると思った。大人からすると大問題なんだろうけれど。



     *



 意外と三度寝でもぐっすり寝れるもんだな、とヘロは今日新たな発見をした。ちょうど目が覚めたのがぎりぎりの線だ。ヘロはシクルを撫で、再び時計の針を確認してトゥーレを起こしにかかる。いい加減起きなければ、朝飯抜きで学校へ行く羽目になる。

「おい、トゥーレ。起きろ。もう充分寝ただろ」

「ううーん……」

「ほら、飯食いそびれるってば」

「ううー……それは……やだ、なあ……むにゃ」

「早く」

「へいー……」

 そう言いながら、トゥーレは気持ちよさそうに息を鼻から吐いて寝返りを打つ。

 トゥーレはこれでも、厳しい家の子供だ。ヘロも何度か家に泊まらせてもらったが、家の中ではトゥーレは非常に規則正しい生活をしているのだった。なのにヘロの家に泊まるときはいつもこうで、寝汚いし、寝起きも悪い。ヘロからすると普通逆だろ、と思う。他人の家でこそ気を使うべき、いや、気を張るべきなのだ。こんな風にトゥーレが気を抜いているのは、ヘロの母親がいつも「気にしなくていいのよ」と笑うからで。けれど、母親がその笑顔の裏で何を考えているか、ヘロはちゃんと知っている。ふとした時にそれは姿を見せるのだ。「いやだわ、ヘロったら。トゥーレじゃないんだからちゃんとできるでしょ?」――たとえばそんな言い種で。そういう面は、ヘロが苦手とする親の一面である。人前でヘロのことを謙遜し、貶す。それでいてヘロの前では「あの子と一緒にされたら困るわよねえ」なんて薄く笑う。その時の自分の顔がどんなに浅ましいか、母さんはきっとわかっちゃいない。鏡を見たって気づかないだろうな。鏡の前で人は顔を作るというから。

 ヘロは両親のことを嫌いなわけじゃなくて、今までされたきたのことも、当たり前のことだと割り切っている。そう、当たり前のことなのだ。誰でもどの家庭でもこの世界では施されていることで、たまたま、両親が教育に熱心すぎただけ。父さんが自分の夢をどうしても俺に託したかっただけ。どうしても、一番にしたかっただけ。【勇者】に誰よりも近い存在に、押し上げたかっただけ。

 ヘロは自分の髪をくしゃり、と引っ張った。苺色ストロベリーブロンド金色ブロンドの混じりあった斑色の髪は、の一貫で飲まされた薬品のせいで手に入れた。元は苺色の髪の毛だった。「勇者になるなら、どんな毒にも耐性を持たないと」――そう優しく笑ってヘロにそれを飲ませた両親の顔を、ヘロはよく思い出せない。あまりにも小さい頃だったから。両親と自分以外の誰も、ヘロが元は苺色だけの髪の毛だったとは知らないだろう。父親譲りの金髪と、母親譲りの赤毛が綺麗だねと言われるから、きっとこれは綺麗な髪色なんだろう。ヘロはこの斑色の髪を嫌いなわけではなくて、けれど好きでもなかった。自分の姿を鏡で見れば、いつでも胃の中のものがせりあがってくるような気持ちの悪さがこみあがる。

 ジャクリーヌはヘロのこの髪の毛が好きだと言う。そもそも彼女から、ヘロの容姿に一目惚れしてくれたわけで。自分の顔容など大したものでもないと思うが、ジャクリーヌが好きだと言ってくれるのなら、まあそれでいいとヘロは思うし、少しだけ嬉しい。あえて貶そうとは思わない。ジャクリーヌに好きになってもらえて、それから少しだけ、ヘロは自分の姿も前ほど嫌いではなくなった。

 むにゃむにゃとぐずるトゥーレを引きずり倒して階下へ降りて行くと、母さんの後ろ姿が逆光して見えた。足音で気づいたのか、母さんが振り返る。困ったような呆れたような微笑みを浮かべている。

「まったく、二人してお寝坊さんね? 早く食べないと遅刻するわよ」

「うん、わかってる。ごめん、母さん」

「そこは謝らなくていいのよ」

「うん。いただきます。おい、ほらトゥーレ。いい加減しゃきっとしろ。飯だ飯」

「うーん」

 トゥーレは寝ぐせがぴんぴんと跳ねた頭を掻きながら、椅子に腰かけた。もそもそと野菜を口に入れていく。

 母さんは苦笑しつつトゥーレの目の前に温かな蜜湯を置いた。

「温かいものを飲むと目が覚めるわよ、さあ召し上がれ」

「はひひゃほうおわいわふ」

「せめて飲み込め」

 ヘロはぴしゃり、と言い放ち、手早く口の中に食器の上のすべてを放り込んだ。自分にも寝ぐせは付いているわけだから、出かける前にちゃんと時間をかけて直していかなければいけないのである。いつも完璧なジャクリーヌに、彼氏として恥をかかせるわけにはいかない。

「ごちそうさまー」

 食器を流しに放り込み、ヘロは急いで手洗い場に引っ込んだ。トゥーレはまだ食べている。もう知らん。そのみっともない頭で歩く気か、全く。ヘロは嘆息した。どうせ展開は読めている。頭から水をかぶるのだ。そして濡れ鼠みたいにびしょぬれで、びしょびしょの靴をかぽかぽ鳴らしながら地面を踏んで登校するのだろう。大あくびをかましながら。トゥーレはそういうやつで、そういう雑さがヘロは好きでもあるのだけれど。うちの床を水浸しにされるくらいなら、寝ぐせのことは黙っておこうと思った。……母さんが指摘すれば別だけど、たぶんあの人はそんなことはしない。



     *



「いてえなあ……さっきからなんだよ、オレの髪さわりやがって。いてえよ。そして気色悪ぃよ、なんだよ」

「うるせえ。寝ぐせを少しでも直そうとしてやってるだけだよ」

 家から離れてずいぶんたったころ、ようやくヘロはその一言を口にした。トゥーレの顔が面白いくらいにさっと青ざめた。

「……どんくらい?」

「鳥の巣、いや、ウサギの巣くらい?」

「はぁ? なんだよそれ、家出る前に言えよ! おれこの頭で麦屋のお姉さんに挨拶しちゃったじゃん!」

「まあ、あの角度じゃ後頭部見えてないから大丈夫だろ。いっそ結べば?」

「はあぁ? 髪にカタがつくじゃん!」

「いや、寝ぐせぴんぴんよりはましだと思うけど?」

「くそうっぜ……紐とかねえのかよ」

「ねえよ」

「じゃあお前のその髪留め一本貸せよ」

「いやだ。これ外したら、俺が黒板見えづらくなる」

「じゃあ前髪切れよ!!」

「やだ」

 ふん、とヘロは鼻で笑う。前髪は切りたくない。前髪が短くなると目立ってしまう傷が額の右にあるのだ。ジャクリーヌは気にしないというけれど、やっぱりいやだし、見せたくない。だからいつも、ヘロは前髪の左半分だけ、撫子色ピンクレルピン二本で留める。そのいつもの髪留めを見ながら、トゥーレが恨みがましくヘロを睨むけれど、ヘロにはこれを貸してやる気はなかったから目をそらした。

「おはよ、ヘロ、トゥーレ」

 ヘロが溜息を零したちょうどいい頃合いで、後ろからジャクリーヌの声がかかった。ヘロは小さく口笛を吹いた。空気を読むという意味でもつくづくよくできた彼女である。本人に自覚はないだろうけれど。

 ジャクリーヌは花咲くようににこり、と笑った。翡翠のような鮮やかな翠の瞳が控えめに、星のように瞬いて見える。ジャクリーヌの笑顔は今日も完璧だ。同性からも好かれる向日葵のような笑顔だった。トゥーレは自分の寝ぐせを押さえながらぎこちなく笑う。ヘロは「よ」とジャクリーヌに返した。

「お前、なんか髪をしばる紐か何かもってねえ?」

「え? うん、あるけど……どうかしたの?」

「こいつの髪をさあ、そろそろ縛らないと、先生に怒鳴られるんじゃないかって話してたの」

 顎で指し示すと、ジャクリーヌは首をかしげてトゥーレを覗き込んだ。艶やかな長い黒髪がさらり、と流れて肩から零れ落ちた。

「そう……ねえ……確かにマルテア先生は、男子の長髪はお好きじゃないものね」

 ジャクリーヌは肩をすくめる。

「私個人の意見を言わせてもらえば、似合っているからいいと思うんだけど……下ろしたままで」

「まあ、いろいろ事情がね」

 ヘロも肩をすくめる。トゥーレは顔を真っ赤にしたまま何も言わない。ジャクリーヌはごそごそと自分の鞄の底をまさぐった。

「ええと……黒と茶色と緑と水色があるけど、どれがいいかな?」

 ジャクリーヌは色違いのネロアリボンを取り出して、トゥーレの髪に合わせてみた。そうしてにっこりと笑うと、水色を差し出す。

「うん、これだと可愛いと思うわ。どうぞ。あ、結びましょうか?」

「い、いえ、自分でやれます」

 トゥーレの水色の目がゆらゆら揺れる。声はか細かった。ヘロはぶっと吹き出した。

「何で敬語なんだよ」

「え? は、ははははは……」

「じゃあ私は先に行くわね、お二人さん。急がないと遅刻するわよ?」

 ヘロは首を傾け、からかうような笑みを浮かべてみる。

「彼氏と一緒に行こうとは思わないわけね」

「何言ってるのよ。男同士の友情を邪魔するほど無粋な彼女じゃありません。じゃあね」

 ジャクリーヌは小さく舌を出すと、小走りに駆けて行った。髪がふわりふわりと揺れて舞う。

「お、お、お、お前なあこんちくしょう!」

 その姿が見えなくなったころ、ようやくトゥーレが怒鳴った。

「なんだよなんだよ何してくれとんじゃボケ!」

「あ? いいじゃん、愛しのジャクリーヌから貸してもらえたネロアリボンだぞ」

「なんでそれこそ、憧れの女子のネロアリボンなんか借りる女々しい男に成り下がらなきゃなんねえんだっての!」

「いいじゃん、こんな体験そうそうないぜ、俺の親友でよかったな、お前」

「……ほんっとお前ムカつくわ……」

 恨みがましい目でトゥーレは軽くヘロを睨み、小さく嘆息した。

「……ったく……使えるわけねえじゃん……」

「大丈夫だ、問題ない」

「問題大ありだ!」

「だから大丈夫だって。ちゃんと洗濯して返せば問題ねえだろ?」

「もちろん洗って返すがおれの頭はそこまで汚くねえぞ!」

「んなことまで誰が言ったよ」

「ああもう……こんな水色の可愛すぎるネロアリボンなんてつけられるかよ」

「は? 文句あんなら最初からあいつに言えばいいだろーよ」

「言えるか! か、可愛い、って、似合う、って言って選んでくれたものなのに嬉しすぎて言えるか!」

「似合うとまでは言ってねえよ、捏造すんな……」

「おんなじだよ! ああもう……もったいなくてつけらんねえよくっそ…………つけてやるよ!」

「どっちだよ」

「つけねえわけないでしょうが!?」

「あーもうはいはい、複雑な乙女心ってやつデスネ」

「誰が乙女じゃ!」

 真っ赤な膨れ面で、トゥーレは髪を後ろで縛った。

 その横顔を見ながらヘロもやわらかく微笑む。

 トゥーレは騒がしい性格が仇になっているが、彫が深くて黙っていればとても綺麗な顔立ちだ。ヘロとは違い、真っ直ぐなさらさらとした苔色の髪と水色の瞳は、どことなく爽やかさを醸し出す。性格も、後腐れないし、情に熱いし、なぜ彼はあまりもてないのかヘロにはよく分からない。身内褒めだが、自分なんかよりもずっとトゥーレの方がいい男だと思っている。

 けれどその親友が好きな子は自分の彼女で、その子は自分のことをずっと前から好きだったと言う。そしていつの間にか、付き合っているうちにヘロもジャクリーヌのことが好きになった。だから、トゥーレに彼女を譲ってやろうとは思えない。かと言って、それはとても微妙な線引きで、なんとなくジャクリーヌがどうしただとか何を話しただとか、全てではないにしろトゥーレには細かく話してしまうし、トゥーレも「はいはい惚気ですかお熱いことですね」と憎まれ口を叩くけれど、本心から嫌がっている様子でないことがヘロにはわかるのだった。気が置けないその関係が、ヘロには心地いい。だから、ヘロはトゥーレに話せない線を越えることができない。越えたいと思ったことは何度もあるけれど、理性で踏みとどまってしまうのだ。だから、ジャクリーヌには本当は寂しい思いをさせているんだろう。それでもジャクリーヌはヘロの気持ちを尊重してくれる。そんな優しい二人に囲まれて、ヘロは今日もぬるま湯につかったような日々を過ごす。ジャクリーヌとのあいまいな恋人関係を、続ける。

 ジャクリーヌといると、この子は自分の彼女なんだ、と嬉しくなるし、トゥーレといると、親友の恋路を見守っているような妙な心地になる。ジャクリーヌを入れた三人の関係は、どこか不安定で、それでも変えられないでいるのはやっぱりヘロが強くないからだ。もしもどちらかしか選べないのなら、まだトゥーレを自分は選べるだろうな、選んでしまうんだろうな、とヘロは思う。でも、自分とジャクリーヌの仲がもしもこじれたらきっとトゥーレとジャクリーヌの仲もこじれる。それが嫌で、もう一歩を踏み出せないでいる。

 ジャクリーヌを見るたび、綺麗だなあと見惚れる。一度目を向けると目がそらせない。胸が少しずつ熱くなって、鼓動が速くなる。好きなのだ。

 ちゃんと、本当に、好きなのだ。なのに、それでも。

 結局、きちんと考えないでいるのも、幼いころからの癖で、生きていくために、自分が耐えるために自分一人の力で身につけた防御だった。それがなければ、今のヘロはいない。

 失うのはやっぱり怖い、何もしないで失うのと、何かをしてしまって失うのは、前者のほうが、怖くない。

『今日も美人な娘だの』

 ヘロの頬の傍で漂うシクルが、小さな声で歌うように言った。ヘロは、少しだけ鼻の頭を赤くして、目を伏せた。

 ヘロは臆病だった。それを本当に知っているのは、きっとシクルだけだ。そう思っていた。ヘロの弱さを見抜いている人なんて、きっと他にいないと、思っていた。


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