LAMBASTER

「それで、二人は遊びに来たのか? 私って情報工学に携わってきた割にはゲームやらないから、此処にはトランプくらいしかないけどさ」

 ソファーに収まった僕等二人は、当然そんな理由で来た訳がない。然し、否定の言葉も一拍遅れる始末である。

「……そ、そうではありあせん。先週末の合コンの件含めて、璃々亜さんに確認したいことがありまして」

「あ、そうなの? にしても、あの女……超ムカついたな。庵も遠慮しないで怒ってやれよ。アトウイオリが馬鹿にされているんだぞ。何でも批判することで自分のステータスを高めるクソ女の顔面を蹴っても罪にはならないはずだし」

 野蛮と辛辣が混淆した言論を吐く璃々亜さんの瞳は、黒く濁っていた。D’改め大東さんはあの時、璃々亜さんが退場してから顔や衣服に付着したつまを涙目で取り払っていた。僕が審査員から痛烈な批判をいただいたように、彼女もまたあの一件がトラウマにならなければいいのだが。

「暴力での解決は望ましくありません。僕……アトウイオリはいくらだって貶されてもいいですから……それよりも僕と純玲ちゃんが懸念しているのは、璃々亜さんの精神状態なんです」

「はあ? 私の精神状態? 心身共に良好な私の何処が不安なんだよ」

「やっぱり貴女、自覚してないのね……いいわ、現実を教えてあげましょうか」

 噛み合わない話を矯正するべく、純玲ちゃんが鼎談ていだんの主導権を握った。

「貴女のプログラムで庵さんの小説を改変した作品には、必ずヒロイン枠の登場人物がいるわ。最初は『続・三位一体なる冥園』の方にいたIを基にして、アイカとアイリーンというライトノベルにありがちなヒロインを描いたみたいね」

「そうね。ND言語と<駆動者>である私の脳波との融合で構築して書いているし」

 それがどうしたと云わんばかりに璃々亜さんは眉を顰めたが、純玲ちゃんの話は続く。

「着目すべき点はそれ以降の被転写体ですの。ライブ会場で突然<不安>になった相川……異世界で主人公と<元気>に旅するリターニャ……そして、未来の秋葉原で<憤怒>に身を任せて暴れるS……どれも、聡明な淑女だった璃々亜さんが転じた先の性格になぞられているわ」

「……ハッ」

 短い笑い声を発した璃々亜さんの脚が組み直される。その動作は余裕の現れなのか、それとも核心をつかれたことを誤魔化しているのか。僕の眼には両者の虚像が相重なっている。

 純玲ちゃんは僕と同じ見識に達した。

 木津さんとの打ち合わせ時、急に<SCTE>に対する自信を無くした増井璃々亜。

 元気良く純玲ちゃんの前に現れては合コンでも社交的な振る舞いを見せた増井璃々亜。

 アトウイオリへの悪罵に激怒してから現在に至るまで、性格を継続している増井璃々亜。

 その変化の根柢が、<SCTE>のオートリライトで創造せられた物語にあったのだ。

「更に問題を追及するならば……璃々亜さん、貴女が多重人格の如く情緒を変えている原因……と云うよりは動因に於いて、<SCTE>の駆動方途が関与しているかどうかだわ。ねえ、庵さん――」

 対話と目線のベクトルを僕の方へずらし、彼女は語調を重くした。

「わたくし、初めて璃々亜さんの研究所を見させてもらいましたけど、璃々亜さんの首にかかっているのが脳波を測定する機器なのですね」

「うん」

「そうだぜ」

 僕の頷きに多少遅れて、璃々亜さんも肯定した。

「脳波のデータをどう感知しているのか……科学には無知なわたくしは想像がつきかねますが、あれが多重人格の起因に鳴っている可能性は……」

「純玲ちゃんも思うことは同じか……」

 カチューシャのような形をしている脳波測定器は、ヘッドホンをかけるような感じで璃々亜さんの首にあり、機器の両端より伸びている複数のコードが矩形の機械乃至デスクトップ型のパソコンに接続されていた。

 人工知能を補填する人類の脳波で<SCTE>がシンギュラリティに到達しようとしている……そんなイメージを僕は現実に近い処で幻視している。ヒトと機械が繋がっていることのイレギュラーとして、璃々亜さんの身に何かが起こっているのではとの懐疑が警報を鳴らしているのだ。

「きみの精神分裂症は、<SCTE>の副作用なのですか? それとも他に意図があるのですか?」

「……庵の言っていること、チンプンカンプンだな」

 頑なに何かを認めようとしていないのかもしれなく、啻に現人格……秘密警察のヒロインSの血筋を引き継いだ彼女は凡てを理解していないまま自我を手に入れたのかもしれない。

「璃々亜さん、貴女恍けているの? 癲狂の振りをした佯狂なの?」

「純玲もどうしちゃったんだよ。私の何処を疑っているんだし」

「頼むから理智的な研究者に戻って頂戴。今の璃々亜さんは違う璃々亜さんだわ」

「あーうるせえなあ!」

「――!」

 リノリウムの床に足をつけた璃々亜さんは、座っていた椅子を片手でブン投げた。狙いは……純玲ちゃんに!

 純玲ちゃんに蔽い被さって庇おうとした僕の焦った叫びと、璃々亜ちゃんの甲高い悲鳴と、手前にあったテーブルに衝突した椅子の三音が入り乱れた。黙っていたのは璃々亜さんだけだったが、無声でも彼女の怒りは表情で充分現れていた。

「落ち着いてください。僕は璃々亜さんと喧嘩をしに来たのではありません。<SCTE>を駆動される際に必要な脳波測定が、性格に影響を及ぼしているかどうかを――」

「グダグダ言ってんなし! 庵は自分の得意分野である純文学小説を黙って書いてりゃいいんだよ! ってか、さっさと続きを書けよ! 折角オートリライトの<指標>が良好になってんだから、私に研究をさせろ!」

 その場にいたら、璃々亜さんの手許にある物を次々に投げつけられてしまう危機を覚えてしまった為、泣く泣く僕等二人は駆け足で部屋を出て行った。

「またなー。あ、それと予定が合えば近日中、あの編集者にもう一度会わせてくんねえかな。庵と編集者でそろそろ方向性を搾ってくれねえと出版に間に合わないんじゃねえの」

 ドア越しでそう催促されたが、この璃々亜さんは絶対に木津さんと会わせられない。下手したら木津さんが殴られてしまう。

「悪夢だわ。凶暴過ぎて、埒が明かないの……」

 憔悴する純玲ちゃんの顔は見事に蒼褪めている。僕も精神的に疲労が蓄積していた。回廊の角にいた松菜さんには手の施しようがない結果を伝えた。

「説得は挫折しました。ちなみに璃々亜さんがあんな感じになったのって、先週金曜日の夜からですよね?」

「……え、ええ。夜遅く迄外出していた娘を怒ろうとしたら、凄い剣幕で言い返されまして……可也きつい反抗期ですね……」

「あと、それまでは逆に璃々亜さん、元気過ぎていませんでしたか?」

「そういえば……不思議と明るかったですね。最近、大人しいかと思えば今や不良少女でありまして、親の私でも訳が分からずとてもショックです」

 松菜さんでも見当のつかない事態であるが故に、<SCTE>の悪影響が確定に近づく。でも、凶暴ヒロインSに被投せられた璃々亜さんから論理的な確証を期待するのは無理があった。


 研究所を出て、幾許か暖かくなった陽射しを浴び乍らも、彼女の異変を肌で感受した者同士の胸裡は極寒の銀世界で吹雪いていた。

「あのSって登場人物になりきっているのは危険だわ。話の通じる相手ではないし……」

「まさか、純玲ちゃんにも暴力を行使するとはね。キレやすい若者の範疇を超えている」

「あんな璃々亜さん、嫌だわ。まだ燥いでいた方がマシだったわね」

「だね。……」

 互いの足音だけが聞こえる時を暫く挟んで、僕等二人は示し合わせたように頓悟した。

「それか」「それだわ」

 畢竟、僕は彼女の要望に応え、僕らしさを伴うライトノベルの出版を目指す本来の目的に沿うのが最善策だった。

「庵さんが『続・三位一体なる冥園』の続きをまた書いてくれれば、璃々亜さんは<SCTE>を駆動させるわ」

「すると、オートリライト作品の登場人物に成り代わり、秘密警察Sの人格は上書きされる、か」

 仔細的なメカニズムはともかく、<SCTE>と駆動者で適用されているルールに準ずれば、彼女はまた精神を分裂させる。

「勝手なお願いですけど、わたくしと璃々亜さんは明後日の必修講義で顔を合わせるわ。それまでに……なんとかして話の続き……書いていただけるかしら」

 璃々亜さんに提出して以降、執筆の進捗は今一つだった。と云うより、原稿用紙一枚分しか書いていなかった。これまでと同様に五千字程度……最低でもオートリライト可能な文字数である四千字以上の……纏まった『続・三位一体なる冥園』の一部分を至急作成するとなると、講義を欠席してまでキーボードを打たなければならない。

「でも、学業を疎かにしては駄目よ」

「こりゃ手厳しいね。垂水先生には隙が無いさ」

 弱音は吐くも、純玲ちゃんとあの璃々亜さんを何度も接触させるのは非常にまずい。僕の睡眠時間を削ることと、変わり果てた友人に責められて絶望する純玲ちゃんの辛苦……二者択一の決断は雨が降ったら傘を差すくらいに当たり前のことだった。

 

 純玲ちゃんの言附けを守り、二時限目以降の講義に出席した僕は帰宅し、晩餐を済ませてから自室に籠った。

 『続・三位一体なる冥園』は原稿用紙百枚分の短編で想定しており、第四話を書き終わった段階で三分の二を消化したことになる。残りは第五話と第六話であったが、物語が終わりへ近づくにつれて執筆は減速していく。行き詰まった場合は大抵、劈頭から読み直す。更に前作……空虚なる栄光を勝ち取った『三位一体なる冥園』にも目を通し、混沌たる言語世界で僕が何を望んでいたのかを追懐する……はずであった。

「僕は迷っているのか」

 言表して自認を促すことには、あまり意味は無い。その、迷っている理由を喪失しているのだから。 

 具体的な名前すら与えられない三人の登場人物……SとR、そしてI。偶然にも純玲ちゃんと璃々亜さん、そして僕のイニシャルと符合していたが、それで運命の二文字を語るのは間違っているのだと僕は思う。登場人物に限定せられず、総合的に一切の合理性を賦与させなかったのは誰でもない僕だ。

 

 ――自家撞着。すべての混迷はこの四文字で解消されます。

 

 『三位一体なる冥園』の終盤で自らの存在性を悟ったRが放った台詞は、現実の僕にも寄与している。

 結果的にアトウイオリが企図したシュルレアリスムは、粗末な自己分裂に至ったのかもしれない。

 でも、が小説で叶えたかったことは、そんな地平では有り得ない。現存在と他存在の区劃を打ち壊し、新たな表現技法を実現したかったはずなのだ。

 デスクライトを消し、瞑目した。瞼の裏にぼんやりと浮かぶオレンジ色の斑点を背景に、『三位一体なる冥園』及び『続・三位一体なる冥園』の映像化を試みた。

 啻に、映し出されたSとRとIは完全に僕等三人であった。虚像でなく、経験的記憶が引き出されていた。

 僕の空想的作意は現実で塗抹とまつされていた。それを好転と捉えるか悪化と見做すかは、僕の自由。

「入口と出口の無い迷路に招かれたのは僕であり、招いたのも僕である」

 実体験で産み落とされた言語を創作に活かすやり方は、僕にとって稀であった。現実と架空がこれほどまでにリンクしたのは初めてであり、ずっと夢を見ているような気分だった。

 瞼を開けて、文字を走らせた。デスクライトを消したままであったのは痴呆ではなく意図的であり、多少のくらがりに僕は浸かりたかった。普段は録音して聴いている深夜ラジオがリアルタイムで流れていた頃、10KB程の添付ファイルと共に璃々亜さんへメールが送られた。

「あ……<指標>って確か……」

 強まる睡魔に降伏する前に、璃々亜さんが言っていた評価値のことを気にかけた。『パーリーピーポー・イン・アキハバラ・マスト・ダイ』の頭に記載されてあったタグを……再確認する。


<SCTE-ND:42.8>

<Remake Transcription-Ⅰ>


 <指標>が初めてマイナスからプラスになっていた。これが一応良好な結果を示すらしいが、具体的なパラメータの内実は全く明かされていない。

「原作側の展開変化……或いは璃々亜さん側の調整で、被転写体の質が向上したと推察すればいいのだろうか」

 <SCTE>には蔽い隠された謎が根強く残っている。その怪しいブラックボックスを解明するためには、窮地に追い込まれたアトウイオリの価値観を先ず再考することが大事なように思えてきた。

 但し、言葉で決意表明するのは簡単だが、実行迄には至らない。

 結句、僕は小説を書いたのではなく、誰でも無い誰かに書かされたのだ。


            ■    ■    ■


 (仮題) 続・三位一体なる冥園 第五話


 仄かに温かい春雪が僕の頬を掠り、赧い夕空の彼方に拡がる流星群にSは見惚れていた。

「此処は君の家の露台か。手摺に凭れかかっているこの僕は、初めての僕ではないな」

「ご名答ね。そうやって<MEI-EN>は終わらない街から始まりの街へと移行していくのよ」

 外套を脱ぎ捨て、ホルスターに収められていた拳銃を地上に抛り落とした。

「また僕は<園民>になりきっていた、という訳か。どう仕様もないな」

「Iが刑事であることをずっと看過している私達もどう仕様もないわよ」

 私達と複数形で彼女は言ったが、肝腎のRは不在だった。三人の誰かが必ず欠落する物語らしい。

(中略)Sの自宅の和室には、大量の<MEI-EN>儀が散乱したままだった。自転軸と弓型のフレームが附属された模型は、一つ一つ違う地図が貼り附けられている。この光景にも、繰り返し僕は対面している。

「此処が一つの終着点だったはずだ」

「ええ。再度<園民>に頽落したあなたに私が殺されかけて、<MEI-EN>は再帰する。そんな手筈よ」

 朝起きたら顔を洗うくらいの単純なルーティンを語るように、Sは平然としている。慣れは時に人を極端に麻痺させるのだ。

「では、Rを探す旅路へと再び赴くのか」

「それでも構わないし、厭き厭きしていると思えば変えてもいいわ」

「然し、僕は臆病者だ。女性として設定されていたIの性別を元に戻してしまったのは、僕がパニックになっているからだ。幽霊屋敷に一生閉じ込められるよりも熱沙ねっさで永遠漂うよりも、ずっと大きな恐怖を今、感じているんだよ」

 股間から生温い小便を漏らし、下着からズボンにかけて醜く濡らした僕は恥辱を覚悟して、顔面にある凡ての穴より様々な体液を垂れ流しにした。

「私も昔、そんな時期はあったわ。虞の時代と呼称すべきかしら」

 同情を引こうとしている僕は卑怯者であり、現実で幸せになった僕達を妬んでいる。

「私達にとって本当に必要なのはそういう感情なの。虚ろな非現実で浮動する私達の裡に我慾が宿っているのは、彼岸の超越を企図しているからよ」

 一瞬、僕は悵然ちょうぜんとして膝から崩れ落ちた。それだのに、Sの喉から発せられる空気の振動が牧歌的に感じてしまい、眼路の限り把持されている春雪抄を安心して脳裡に灼き附けた。


            ■    ■    ■


 僕と彼女は、近似した存在者。現実と架空との共存を無意識下で望んでいるのだ。

「――現実逃避」

 二人の願いを安易な言葉で片付けてしまうのであれば、その四文字で事足りる。しかのみならず、自家撞着も合わせて八文字いただけるなら、悩みは霧散される。

 けだし、具象を単純に考えないのが僕達のやり方で、人生の大半を損している素晴らしい思索である、と僕は心の中で泰然と主張しつつ、臥所で夢を見ないことをこいねがった。


 翌日……二十四時は既に跨いでいたので本日、経営学の講義が終わった後、小田と再会した。後期も半分を折り返しているが、彼が出席していたのは知識の埒外にあった。

「ずっとサボっていたからな。そろそろレポート提出を言い渡される時期だろ。だから来てやったのさ」

 堂々と言いのけることではない。一回生からそんなモチベーションだと留年するぞ、と立ち話で忠告する老婆心も無くはないが、彼に対する負い目に背中を向けてはならない気持ちが僕の頭を下げさせた。

「この前は本当に申し訳なかった。小田達には迷惑をかけたな」

「ああ、お前が呼んでくれた増井さんのことか。別にいいさ。何も元々悪いのは大東さんなんだし」

 短い雑草のように生えている自分の頭を搔き乍ら、小田はおおらかな笑いを見せてくれた。

「でも、楽しかった雰囲気をブチ壊しちゃったし、璃々亜さんのことをあまり理解していなかった僕も責任がある」

「いや、あれで良かったんだよ。アトウイオリの悪口を言うやつは、あれくらいしょっぴかれる方がさ。俺達男性陣はすっかり委縮しちゃったんだけど、後日になってあれはあれで良い経験と面白い話のネタになるかなって……意外と満足しているんだぜ。ま、大東さん含め女の子の方は増井さんを嫌ったのかもしれんがな」

 あくまで僕と璃々亜さんの味方をしてくれている知人の優しさが、嬉しかった。淫猥な男女の集いに釣られた男に対する純玲ちゃんの遠慮なき呵責も、それでチャラになった。

「小田って何でそんなに良い奴なのに、彼女がいないんだろうな」

「顔面だろ、どうせ」

 端的且つ正確な自己評価に依り、二人の笑い声が廊下に鳴り渡った。

「菅野も一度小田をやってみろよ。意外と見てくれ的なハンディキャップが大きいんだって」

「小田をやるってどういうことだよ」

「そしたら、俺は菅野をやるからさ」

「少し前に流行った入れ替わりか? 男女ならまだしも、男同士のを誰が観るんだ?」

 対話だけを切り取って活字にしたら非常につまらない内容であるかもしれない。

 されど、友人とのコミュニケートは陰影を取り除く太陽に類似した光明を伴っていた。

「映画を想定したら、そりゃ増井さんや垂水さんくらいの美人が必要となるが、俺は二人とは入れ替われないな。俺になった二人が可哀そうだから」

「悲しいこと、言うなよ……」

「フィクションを現実に置き換えたら、そんなもんさ……ああ、増井さんはあれから機嫌は直ったか?」

「ずっと癇癪を起こしているようだ。確かに今の璃々亜さんは、誰とも中身を交換してはならない存在だな……」

 だとしても、漫画やアニメで一つのジャンルを確立している<入れ替わり>で璃々亜さんの情緒不安定を説明出来たら、まだ楽だったのかな……いや、彼女の交換先は架空世界だから、よりややこしいことになるのか? 抑々、<SCTE>で取り込む脳波はアウトプットとしての機能であって、<駆動者>の人格に影響を及ぼすインプットの効能は確かではない。結局、現象の言い方を変えているだけで、<入れ替わり>も<なりきり>も、科学的なメカニズムを詮じ詰めれば同じ原理に行き着くのか?

「どうしたんだ、菅野。思いつめたような顔をして、小説のアイデアを練っているのか? 流石はプロだな。日常の一場面も創作に取り入れるなんてさ」

「あ、いや……」

 架空ではなく現実的問題であって……だけどその現実的問題もフィクション・ノベルの執筆が関与していて……複雑に絡み合った蔦を解く手順を見いだせず、空虚の抽斗より取り出した鋏で蔦を裁断する僕自身は慧敏とは程遠い。

「ま、増井さんと次に会った時、合コンに誘って悪かったと代わりに謝っておいてくれい」

 彼女がへそを曲げたと単純に思っている小田は、社交的なお願いを口にした。彼には……説明する労力も考慮点だが、<SCTE>と彼女の性格に連関する憶測を打ち明けても、僕が頭をぶつけて狂ったと勘違いされてしまう危険もあるから、黙って首を縦に振る以外の余計な言動は避けた。

「じゃあな菅野」

「待てよ。昼休みだし食堂に行こうよ」

「や、俺はいいわ」

 金が無いのか、と問おうとする前に小田は背を向け、駆け足に近い歩きで階段へ行った。

 彼が僕から早急に離れた理由は、数秒後に自然と判明した。

「よっ、庵。ダチと話してたのか?」

 相撲の張り手を喰らったような衝撃が肩に走り、何事かと振り向くと、にんまりと笑う璃々亜さんが立っていた。まだ、Sモードらしい。そのSにはサディストの頭文字も含蓄されているかのように。

「り、璃々亜さんか……相撲部に叩かれたと錯覚してしまいましたよ」

「そんな訳あるか。私はか弱い乙女だぜ」

 か弱い乙女が、だぜって語尾を採用するはずが無いのですが、と苦言を呈すると恒例なる怒りの雷霆が僕に打ち下ろされてしまうので勿論言わなかった。

「上の階から降りて来たら丁度階段から庵が見えたからな。あのダチって、この前の合コンに居たやつか、そういや」

 どうやら、小田は璃々亜さんとの対面に恐怖心を覚えているらしい。逃げてしまった友人のことはさて置き、例の執筆について話しておきたかった。

「昨晩、『続・三位一体なる冥園』の第五話をお送りしました」

「おう、今朝見たぜ。ありがとな。まだ<SCTE>のオートリライトは試していなんだけどな」

 そうだと思った。

「でさ、今回は脳波融合の点で未試行的な手順を踏みたいんだよ」

「未試行的?」

「ああ。だから庵、

 瞬視、僕は思惟機構を凍結させた。解らなかった。

「……何かの冗談ですか?」

 直ぐに解った。

「ふざけてなんかいねェよ。ライトノベルって、こういう唐突な展開で主人公をラブコメに誘うんだろ? <駆動者>の脳味噌にもある程度のラノベ知識と経験をインプットしようと思ったまでだ」


 その後、璃々亜さんから詳細の実験方途を教えられた。拒否権は与えられていないし行使するつもりもない僕は先の流れを把握し、補講まで消化した後の夜、帰路にあったコンビニに入り純玲ちゃんへ電話報告した。

 研究者様の企図を要約させていただく。<SCTE>の自動文体更新転写もといオートリライトの内容はND言語と<駆動者>の脳波に依存する。従来は<SCTE>の基盤内でそれらのインプットに於けるパラメータ等の調整を行ってきたが、脳波其物にもライトノベルへの文体更新を的確にするべく実体験な知識を植え附けようとするのが、僕と璃々亜さんのデートに至らせたらしい。恋愛要素を除外する合理実験デートと僕は勝手に称した。

「……大丈夫、庵さん? 璃々亜さんと二人きりで喧嘩にならないかしら」

 一連の事情を伝えると、純玲ちゃんから配慮の念を第一に頂戴した。

「かもしれないが、回避の可能性もある。その日……と云っても直近で……明日の夕方だけど、それまで一度は『続・三位一体なる冥園』の第五話をオートリライトするんだって」

「彼女の性格が更に悪化したら、最悪病院に連れて行くことね」

 あまり考えたくないことだが、科学的な因果では無かった場合、つまりは純然に彼女の精神が頽廃していた場合、心の病には匙を投げるしかない。母親の松菜さんですら把握しかねるメンタルの問題に僕等は無力だ。

「純玲ちゃんも来る?」

「それは無粋ね。だって、庵さんと璃々亜さんのデート、というでしょ」

「其処はカップルという設定だから、厳守しなくてもいいんじゃないかな」

 スピーカーからは沈黙と沈黙を繋ぐ呼吸音が響く。微妙な間を取り繕うようであった。

「粋ではないわ。貴方だからこそ可能な役割に、わたくしも参入してしまったら邪魔になってしまうの」

「そっか」

 純玲ちゃんの理智を尊重したいが為に、電話はそれで終わらせた。

 彼女が合理実験デートの立ち合いを断ったのは、研究室で自分を威嚇した怖い璃々亜さんとあまり関わりたくない、と推し量るのが妥当であろう。

 であるにしても、彼女の言表ではなくに僕は期待していた。コンビニの入口附近にあるディスプレイに目をやったのが原因だった。

 派手に装飾せられているモミの木に、煌びやかな包装紙でラッピングされたプレゼントボックス。とある偉人の招来を予感させる長靴を含め、赤と緑で定型的にカテゴライズされた彩色のアイテムは、鈴の音が強調されたBGMに馴染み、声望高い一つのイベントを知らしめていた。

 今日は十二月十七日。翌週には世間を賑わせるクリスマスが待っていた。そうした時期で、研究の一環あっても情事に感謝すべきなのであるが、魅力を覚えていた璃々亜さんと恋人ムードが漂う街中を一緒に闊歩することを喜べないでいる僕は非常にややこしい瀬戸際に立たされていた。

 そして、両者が納得していないと云えど、将来的な婚約が迫られている間柄で、僕が別の女の子と(合理実験)デートに出掛けることを純玲ちゃんはどう思うのだろう。訊けるのであれば訊いてしまいたいが、それこそ粋ではない。

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