COMPA

 計画が頓挫しても、僕自身の執筆は継続していた。言うを俟たず、従来の作風を厳守して。キーボード附属型のタブレットを持ち歩き、登録した講義のない時間帯で『続・三位一体なる冥園』の創作に取り組む。次時限でマクロ経済学の講義を控える大講堂が空いていると、前もって席も確保できるし一石二鳥である。

 純玲ちゃんとは違う学部であるので決まって大学構内では昼食を除き、一人ぼっちでの行動が常であるが、時折知人と遭遇することもある。

「よう、アトウ先生」

 そう、このように。閑散とした大講堂に入ってきた高校からの友人が馴れ馴れしく近づいてきた。

「普通に菅野って呼べよ。アトウ先生は二年以上蒸発しているんだぞ」

「でも書いてんじゃん。どうせ二作目、出すんだろ。頑張ってくれよ。俺は菅野の友人であり、アトウ先生のファンだからさ」

小田おだは物好きだな」

 軽口を叩いてヘラヘラとしている小田は、ブタ鼻がトレードマークのリュックを僕の隣席に置いて着座した。ファッションと小物には年頃なりに気遣っているようだが、引退後の野球部員が無造作に伸ばしたような短髪に、高校生と自称しても通用する純朴な顔立ちには芋臭さがあった。それでも、人懐っこい愛嬌と裏表ないさっぱりとした小田の内面には男としての強みがあり、偶然的にしか顔を合わせないような関係でも友達としての絆を復活してくれる彼には好感が持てた。

「で、小田はどうして早く来たんだ? 三時限目が始まるまで三十分もあるけど」

「資格勉強さ」

「嘘だね」

「よく判ったな。本当は小説家を目指して、菅野と同じく執筆しに来た」

「もっと嘘だね」

 彼の為人ひととなりや扱い方は、会わない空白の期間が生まれても自然と思い出せる。柴犬のような笑みを浮かべた小田は、自分の側頭部をコミカルに叩いた。

「バレたか。本当の本当はただ昼寝しに来ただけだが、丁度菅野と遭遇したから良かったわ」

「丁度? 僕に用があったのか」

「ああ。見てくれの素晴らしい小説家様を合コンに誘うという重大な用件があってな」

「冗談は顔だけにしてくれよ」

「はっはっはっ。この顔面は冗談かもしれんが、合コンはマジで金曜日に開催するぜ」

 辛辣な罵詈ばりで軽く流そうとしたが、彼の話には真実も些(いささ)か含まれていたらしい。

「小田が合コン、か。珍しいな」

「俺もそう自覚しているさ。でもな、折角大学生になったのだから積極的なアクションは起こすべきだろ? 彼女いない歴イコール年齢の冴えない男は、猶更自分から動かねばならぬのだ」

 演者のような仰山な身振りで喋られると、より滑稽化しているように見受けられたが、異性との附き会いに於いては無縁であった彼の不遇を鑑みるとさほど不思議ではない性向だった。

「努力家だな。頑張れよ」と、僕は本心から小田を応援できたのだが……。

「菅野も頑張るんだよ。合コン、来いよ」

 僕自身は特段、男女の出逢いを求めてはいない。熱烈な口調で懇願されても、気が進まないのだ。

「僕以外にも適当な相手いるだろ」

「それがさ、男だけでなく女も一人ドタキャンされて欠員しているんだよ」

「だったら、殊更大丈夫じゃあないか。男女の人数は一致ずるままだから」

「ダメだ。当日の人数変更だとキャンセル料が発生するぜ」

 小田の言い分には肯ける。ただ、そういう背景で僕を誘ったということは……。

「まさか、僕は参加するだけでなく女の子も一人呼んで来いって話じゃあないだろうな」

「勘が鋭いな。そのまさかだ。お前なら女の子の知り合い、いるだろうと思ってさ。ほら、たとえば垂水さんなんてどうだ?」

 あろうことか小田は、薄っぺらい男女が愚かにも蒐集しゅうしゅうせらるる俗慾的な食事会に最も相応しくないであろう人物の名前を挙げてしまった。なお、合コンを示すこの形容は純玲ちゃんが以前に吐き捨てた台詞であった。

「品行方正な純玲ちゃんが来る訳ないだろ。絶対にアルコールを拒否するよ」

「そこを何とか頼むよ。会費は俺が二人のを半分負担したっていい。人数合わせでいいんだ。抜群に綺麗な垂水さんなら一杯目からソフトドリンクを黙って飲んでいても、男共の士気が上がるからさ」

 どうやら、最後の言葉が小田達参加者にとって一番重要な点だったらしい。その気持ちは解らなくはないが、厳しいものがある。

「でもなあ……僕はともかく、純玲ちゃんは絶対に来ないよ」

「そうよ。ってか、庵さんも絶対に行っちゃ駄目よ」

「――うおっ!?」

 僕と小田は同時に吃驚びっくりした。気が附かぬ間に純玲ちゃんが正面に立っていたのだ!

「す、純玲ちゃん。どうして此処に?」

「時間割を間違えたのよ。本当は三号館の講堂で次の講義を待つつもりだったけど……貴方達二人がわたくしの名前を含む怪しい会話をされていたから盗聴させてもらったわ」

 大きめのショルダーバッグを脇に挟む彼女は、面を食らっている小田に追い打ちをかけるようにねめつけた。

「悪いけど小田さん、私は行かないわ。何処の誰だか知らない殿方と向かい合わせになって、しょうもない歓談をするなんて嫌だもの」

 小田は冷や汗を垂らし、ぐうの音も出なかった。歯に衣着せぬ彼女の物言いに対し、完全に怖気づいてしまっている。これが大学デビューを試みる男の限界だった。

「それと庵さん」

「判ってる。僕も合コンは断るさ」

「それもあるけど、疑懼ぎぐを覚えた出来事が昨日にありましたの」

 勿体ぶった言い方に、彼女の瞳の最奥に潜んでいた敵意の火焔が燻っているような虚像を察知した。

「態々僕に言うということは、僕に連関する内容かな」

「勿論。璃々亜さんのことよ。彼女、様子がおかしいの」

「やっぱりか。僕もこの前編集者と三人で打ち合わせした時も璃々亜さん、元気がなくってしょげていたからね」

 そういう懸念かと察したが、純玲ちゃんの返事は否定から入った。

「違うわよ。自由闊達過ぎて不自然なのよ」

「……何だって?」

 意外な事実に、腕を組んで沈黙を守る以外の反応が見当たらなかった。

「昨日の必修講義で璃々亜さんと顔を会わせたんだけど……彼女ったら矢鱈大声でどうでもいいことを話すし、今度の休みに新宿へ一緒に遊びに行こうって五月蝿くって……そんなキャラだったかしらん。でも今思えばその前日……一昨日のメールから璃々亜さん、そんな感じに性格が変わっていったような気がするわ」

 一昨日は、木津さんとの打ち合わせ日の二日後に該当する。<SCTE>の成果に不安を懐きマイナス思考を働かせていた璃々亜さんが立ち直ったと解釈しても妥当かもしれないが、純玲ちゃんが今の彼女を不自然と評しているということは、異変は消え去っていないと思える。

「空元気、みたいな?」

「それとも言い難いかしら。うーん……。どうしてかは全く解らないけど、あなたも璃々亜さんと会う時はちょっと注意して気遣ってあげて頂戴な」

 後、繰り返しますけど御自分の火遊びは制しなさい……わたくしが許さないから、と純玲ちゃんは刺々しく言い残して去った。純玲ちゃんの足音が完全に遠のいた後も暫く静止していた小田の肩を叩いた。

「無理なの、よーく解っただろ。本人が降臨すれば白黒は明白だ」

「……ああ」

 残念そうに溜息をつく小田は、情けを乞う眼を僕に向けた。

「それじゃ、垂水さん以外の女の子で頼むわ」

「強気な姿勢だな」

「本当に申し訳ございません。アトウ先生が俺にとっての最後の希望なんです。大学になっても童貞で燻っている俺達三代目ブサイクブラザーズの為にお力添えをお願いします!」

 鄭重に頼まれたのなら仕方ないな、とはならないが……ネットやマスメディアから粗雑に借りてきたようなへりくだっった造語で笑いを取ろうと試みた愚かな男に憐憫を掛ける思いにて、取り敢えずは僕の参加を了承することになってしまった。

 それと、別の女の子一人、か。少し前迄の僕ならば早々に白旗を揚げていたこと間違いないが、今の僕には唯一の誘い相手がいる。彼女の状態を確認する意味を込めて、最初から九割九分諦めている心持ちでメールを送ってみた。

『件名:突然の御願いですみません 本文:講義中でしたら恐縮でありますが、<SCTE>以外の用件で連絡しました。璃々亜さん、今週の金曜日って御都合は如何でしょうか。嫌だったら断ってくれて構いませんが、知人の合コンに出席していただけますでしょうか。参加費は安く済むそうです』

 我ながら、何をやっているんだろうと自嘲した。情報科学研究者として優秀且つクールな増井璃々亜が二時間飲み放題の居酒屋に来る事象など、夢の中でさえも再現しかねる。彼女が未成年だという法律的な問題を抜きにしても、想像がつかない。

 ――然し、僕の知っている璃々亜さんだったら、の仮定だ。ところが現在、純玲ちゃんの証言を契機に未来の様相が転変せられている……。

 時間にして、小田がまだまだ項垂れている時乃至メール送信してから五分後のこと。僕の携帯に見慣れない番号の着信があった。それだけでは何の確信も懐かないはずが、バイブレーションを胸ポケットで感受していた時点で既に不穏なる空気を察知していた僕は、自らの未来視を現実と重ね合わせた。

「もしもーし。イオリさーん」

 須臾、誰ですかと発声したくなるような違和感に襲われた。

「私ですよ、私。璃々亜ですー。垂水ちゃんからイオリさんの電場番号を教えてもらいましたわ。ほら、メールを打つよりも直接電話したい人じゃあないですかあ」

 僕の呼び名は菅野くんから訂正してくれたが、彼女は一人称を名前で呼ぶタイプの人間へと変貌してしまった。

「……ど、どうされたのですか? 璃々亜さん、様子がおかしいですよ」

「別にいつも通りですわよ。あ、そうそう。メール見たけど、勿論参加させていただくわ。合コンってとっても楽しそうじゃない。璃々亜はいくら払えばいいの? どうせ男女で会費が違うんでしょ? お酒はそんなに弱くはないから、璃々亜に対してそんなに遠慮する必要は無いからねえ。なーんて冗談よ。未成年の飲酒は認めないわあ。ついでの連絡なんだけど、<SCTE>またイオリさん原作を送って頂戴ね」

 今の僕は屹度、戸惑った純玲ちゃんと同じ表情をしているであろう。兎角、彼女の精神状態を強く懸念せねばならないが早口で会話の主導権を握る自由闊達な研究者様相手では、小田に耳打ちされた当日の待ち合わせ場所と時間を伝えることが僕の精一杯だった。


 小田が企画した男女の集いは、大学から徒歩圏内にあるチェーン店で行われた。如何にも合コンという場のイメージがフォーマット化されている個室のレイアウトに従って、五対五で向かい合った。新入生歓迎会で多用されるような安っぽい店内の雰囲気であるが、何処のサークルにも所属していない僕の憶測であるので偏見に過ぎない。

 こういう空間に投げ込まれたのだから、十九歳の僕は法律を破ることも覚悟していた。が、此処でも彼女に助けられ、吃驚したのだ。

「未成年の人はソフトドリンクだけだわ。健全に楽しましょー!」

 他九人のファーストオーダーを率先して尋ねるのは誰でもなく、性格が変わった璃々亜さんだった。直接対面してみて、改めてその異様さに僕は困惑している。されども、太陽のような笑顔を振りまく挙措が素だと普通に見做しているその他の参加者は、彼女の弾んだ愛嬌に好感を懐き、二浪していた一人の男を除いてはウーロン茶の乾杯に快諾した。

「おい菅野……垂水さんの代打、凄く可愛いじゃあねえかよ。何処で知り合ったんだよ」

 隣に座る小田がテーブルの端にいる僕と璃々亜さんに目配せをし乍ら、ぼそりと呟いた。声と共に漏れた彼の吐息は熱く、突然の僥倖に興奮しているらしい。

「執筆の仕事仲間だけど、僕がアトウイオリだってことを周りにひけらかすなよ」

「わかった、わかった」

 機嫌良く頷いた小田は、浮足立った様子で周囲の会話に入っていく。彼には空回りしないことだけを祈ってあげて、店員にオーダーを入れて席に戻って来た璃々亜さんにも同様の忠告を小声で伝えた。加えて、何が何でも純玲ちゃんには本件を知らせないように、と。

「垂水ちゃんには言わないわよう。どーせイオリさんが彼女に黙って女の子遊びに興じているからでしょ。でも、イオリさんの職業は別に隠すこと無いわよう。僕が空前絶後の超絶怒涛の小説家アトウイオリだって叫ぶ一発芸で盛り上げてよー」

 ケラケラと笑う彼女は……純玲ちゃんの言葉を借りるならば……人が変わっている。

「芸人でない素人では勝算が全く見込めないギャグですね。絶対にやりませんし、頼みますから僕の素性は隠してください」

「しょうがないわねえ。了解でーす」

「木津さんと会った時から立ち直ったようですけど、振り切り過ぎではありませんか」

「普通よ普通。余談だけど、今日もらった『続・三位一体なる冥園』の第四話、オートリライト結果の被転写体は今晩か明日にでも送るわ。良好なストーリーラインを構築したから期待することよう」

 余談でなくそれこそ僕らにとっての本題なのですが、と僕が指摘する前に密談は璃々亜さんの起立で遮られ、彼女の元気な一声で互いのグラスを甲高く鳴らした。

「企画者が挨拶しなくていいのか?」

 と、乾杯後に小田に訊いたが、彼からは苦笑いしか返って来なかった。外交的な異性に惹かれる一方で尻込みする彼自身に内在する矛盾を瞬時に現した。同情の余地はある。僕も彼女に依って迷誤の森で彷徨っているのだから。

 ついては、僕が此処の存在地点を選んだ理由としては突然変異を引き起こした璃々亜さんの観察にあるのだ。合コン本来の目的は不躾乍ら、ないがしろにさせていただく為、来歴を知らない他七名への興味は最小限に抑える。出身地や趣味など無難な話題を適当に対処し、一番遠い席の男から順番にA、B、Cと名附け、同様に女子の方もA’、B’、C’、D’へと割り振った。言うまでもなく、めいめいに賦与した記号は僕個人の規範にだけ通用する等号で成り立っており、口にはしない。

 最年長のA以外は素面ということもあり、和やかなムードが続いている。初対面同士で口数が少なくなる危惧は想定していたが、璃々亜さんが上手く話を広げてくれているおかけで良好なコミュニケートが浸透されている、と云うのが一歩退いて場を観察していた僕の見識だった。璃々亜さんのそつのない立ち振る舞いをダイジェストで御送りすると、主観的卑見を交えて好きな男のタイプを延々と語るA’には適切な間隔で相槌を打って、小田の友人で口数の少ないCにはドリンクの追加注文を尋ね、脱色した巻き髪を弄り乍ら不倫の境界線を皆に質問するB’には笑い声を提供しつつ持論も与えた。

「璃々亜は手を繋いでデートをするだけで浮気になると思うよう。イオリさんはどう?」

 突然に話材をパスされてしまった為、自分がどう返したのかよく覚えていなかった。AやC’辺りが感心したように首を縦に振っていたから、強ち的外れな見解ではないと思う。ただでさえ不慣れな合コンであるのに、性格を変えてしまった彼女の真意を探し倦む僕は平常心を失っているのだ。

 それでも時は進み、一時間程経過すると談笑がより盛り上がる。話は璃々亜さんの隣にいるD’から転じて切り出され、外でもない僕にスポットが当てられてしまった。

「菅野君って大人っぽいよねえ。本当に私と同じ年?」

「あ、ああ……。でも、それを云うなら大東だいとうさんの方が大人っぽいよ」

 記号分配後に知ったことであるが、偶然にもD’は彼女のイニシャルに適合していた。加えて余談であるが、D’に於いては、Dが小田という名前で判明している為不在であるのに、態々右上にプライムを打たなくても良かったんだった。まあ、爾後D’に大東を代入するから別に忘れていい瑣末な内容である。

「ホントに? やったよ増井さん、菅野君に褒められちゃったよー」

「良かったわねえ。よしよしー」

 公園の砂場で公演される園児の御飯事ままごとみたく、璃々亜さんは大東さんの金髪を優しく撫で回した。短時間で二人は和気あいあいとしている。対蹠的に小田は依然と緊張が解れず、卓上に並べられた大根のサラダや唐揚げに目を向けて箸を動かした。

「えー、菅野君を狙っている感じ、バレバレじゃん」

 と揶揄したのはC’で、大東さんは笑って否定した。

「止めてよー! わたし、肉食じゃあないじゃん」

「気を附けてよ、増井さん。菅野君の友達なんでしょ。こいつ嫉妬深いから夜道で背後から殴られるかもよ」

 C’の冗談に一同が噴き出した。むず痒さを我慢している僕であったが、僕自身が絡む恋愛話に璃々亜さんはどんな感情を示すのか……途端に興味が湧いたのだ。

「とっても怖いですわあ。ストーカーと同じくらい警戒しなきゃねえ」

「だから大丈夫だって……それより、増井さんは菅野君のことどう思うの?」

「――!」

 僕のみならず他四人の男も、聞く耳を立てる雰囲気を醸し出した。全員、少なからず璃々亜さんの挙動には気にかけているらしい。

「友達でーす」

 あっけらかんと答える璃々亜さんに、男子一同はホッとした。自らと結ばれる可能性を残したことに喜ぶA、B、C、及び小田とは違い、僕は心の奥底で刺を踏んだような痛みを覚えたのだ。

 ――何を残念がっている? 僕には婚約者候補の純玲ちゃんがいるじゃあないか。と云うか、僕と璃々亜さんはビジネスライクの関係だ。僕は許容しないライトノベルの執筆支援をしてもらい、璃々亜さんは情報科学の先鋭的な実験を進めることを目的している以外には、二人を結ぶ要因は無かったはずだ。

「増井さんはサバサバしているよねー。文学部で利口そうだし」

「全然ですわよー」

 今になって、純玲ちゃんの抑止を振り払って合コンに来てしまったことへの罪悪感が膨らんだ。

「私も、もっと勉強しなきゃなー。最近本読んでいなし……あ、ちょっと前の話になるんだけどねえ」

 自分のことばかりに気を取られ、D’もとい大東さんの声をすっかり後逸していた……。


「二年前だっけな……現役高校生で小説家デビューしたアトウイオリの本、あったじゃん?」

 ……はずだったが、急転して僕の覚知はもう一人の自分に引き寄せられた。

 瞬間、存在をアルファベットで代理されている者の表情が硬くなった。

「随分話題にはなったけどさ、あの人の作品ったら滅茶苦茶だったのよ。気が狂ったような世界観と文字が並んで……これが純文学? って、疑っちゃうくらいにねえ。若いから注目されていただけで、絶対堅物で頭のおかしい人間だよ、きっと」

 卑下したように哄笑する大東さんに、アトウイオリの存在を少しでも知っていた側の数人は宥め乍らも同意した。

「大東ったら辛辣だねえ」

「マジで辛口コメンテーター。パネエっす」

 への非難を間接にも直接でも、こうして拝聴することは稀ではなかった。散々たる評価は知り得ているはずなのに、僕の拳は鉱物よりも堅強になって握られていた。

「……わ、悪いな菅野」

 か細い声で小田がこっそりと囁いてくれた。お前が謝ることではない、と言い返そうとした……その時だった。


 ――場は、ことごとく荒れた。


「ふざけるなっ! クソつまらねえ素人がプロの作家にイチャモンつけてんじゃあねえぞ!」

 不図の怒声に、戦慄が走った。水を打ったように静まり返る個室に幽閉せられた一同の目線は僕でもなく……最も意外性に満ちた人物……。

「アトウイオリの誹謗中傷は、このが許さねえからな! テメエ等……生きて帰れるとは思うなよ、ボケがっ!」


 そして、現存在として存在している僕――時刻をはっきりさせるならば、参加者全員を震駭させた合コンが解散されたから数時間後――就寝前、璃々亜さんから第四話のオートリライト結果がメールで届いた時のこと。

「……嘘だ。こんなこと、在ってはならないのに……」

 愕然とした僕は、アルコールを摂取してもいないのに飛び飛びになった記憶を更に傷附けたく願ったのだ。矛盾している世界は、主体を担う僕だけで充分だった。

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