行き止まりの交差点

@hirosui

0章

「なんか、揺れてない?」

そう正平に話しかけた千夏は、通りかかった人ならば誰でもよかった。とにかく、揺れていることが自分の錯覚ではないことを確かめたかったのと、異様な雰囲気のある揺れへの恐怖を誰かと共有したかっただけだったけど、これから起きる想像を絶するような出来事がまるで見えていたかのように、涙目になっていた。


 別に独身主義というわけでもないけれど結婚できないままに40歳が近づいて、やたらと周りにとやかく言われる中で、なんともならないものはなんともならないというある種の悟りのような境地にある正平は、何事もなく仕事をこなせば毎月決まった給料を貰えて、多少の不満はあるけど別に居心地が悪いわけではない日常を、少しでもいい方向に変えていこうという気持ちすらどこかに忘れたままの単調な日々を繰り返す中で、いつもの外回りの仕事が思いのほか早めに終わって会社に戻れたので、15時の美味しいコーヒーをもらうために経理課に立ち寄っただけだったのに、確か3~4年前に大卒で入社したはずだから20代半ばだったと記憶している千夏に、急に涙目で見上げられながら話しかけられて妙にドキッとした、その瞬間だった。


 立っていた正平にも明らかにわかるぐらいに、なにもかもが大きく、そして激しく揺れた。体全体はもちろんのこと、壁際に設置されたスチール書庫の書類やその上に積まれた書類を入れた段ボール、コーヒーメーカーに残って煮詰まった総務課の不味いコーヒーやその隣にあるウォーターサーバーの水、壁にかけてある社訓の入った額縁、総務課と経理課と通路の仕切りを兼ねている低いキャビネットの上に置いてある電話機のコード、喫煙所に置いてあるスタンド式の灰皿、積みっぱなしのためか崩れかけた誰かの机の書類の山など、目に見える物すべてが揺れていて、正平は思わず近くの壁に手をついた。千夏は、「えーっ!」「うそっ⁈」「やだっ⁈」「なにっ⁈」「怖いっ!」という単語をランダムに発しながら、両手を頭の上にかざして、スチール書庫の上に積まれていた書類が入った段ボールの落下を警戒していた。どうして、そんなところにそんな危険な物が置いてあるのかという根本的な疑問については、誰になにを言われても自分流を貫く総務課のお局様の仕業なのだが、おそらく今後も改善されることはないであろうことは、こんな状況にも関わらず正平にも千夏にも容易に想像できてしまった。そんな、どうでもいいことを想像してしまうぐらいに今回の地震の揺れは大きく、そして長かった。その長さのせいか、数週間前に起きた海外での地震とビルの倒壊のニュース映像が、正平の記憶の箱の中から飛び出してきた。長周期地震動……ビル倒壊の映像……わが社の老朽化した社屋……そこから想定される耐震性の問題……このまま1階に居て本当に大丈夫なのか……建物が潰れて下敷きになるのではないか……という恐怖心が渦を巻いて脳内で水位を増していき、それが決壊した瞬間に正平は衝動的に外に向かって走り出していた。理屈では急いで外へ出るのは危険なことだとは分かってはいたけれども、理屈で制御できるような衝動ではなかった。


 これが阪神淡路大震災以降によく耳にする首都直下型地震なのだろうか? あるいは昔から近いうちに来ると言われ続けている東海地震なのだろうか? 震源地はどこ? どれだけの被害? 外に出た正平は、周囲の様子や会話から、具体的な状況を把握しようとしたけれども、誰もが戸惑いと混乱の中にいるらしく、みんなも自分と同じようなものなのだとわかって少しだけ安心した。安心した瞬間から右の耳の裏側に小さい点だけど非常に強い圧迫感を感じ始めた。それは地震の揺れが落ち着いてくるとともに強烈な痛みとして感じるようになってきて、その痛みは心の揺れが落ち着いてくるのに反比例して広がりながら増してきた。地震のほかにも、自分になにかが起きている。少し不気味でなんとなく恐怖を感じている、そんな事変をできれば無視してやり過ごしたかったけど、そんなわけにもいかないほどの強烈な痛みを感じていたので、圧力が来る方向に恐る恐る視線を向けてみた。千夏だった。そのまま正平を刺し殺してしまうかのような殺意のこもった千夏の視線。それは少しだけ時間を巻き戻してみたら、思い当たることはあったし当然のことだったのかもしれない。あれだけ、怖い怖いと言っていた千夏に声をかけることもなく、ただ逃げたいという衝動に駆られて自分だけが逃げ出した罪は決して小さくはない気がする。正平が、そのことに気がついた瞬間、また街路樹と老朽化した社屋が大きく揺れた。「許してください! もう、しませんから!」とアスファルトに両手両膝と額をつけながら叫んでいるスーツ姿の男性には少し笑ってしまったけど、なにがどうなったのか? これからどうなって行くのか? なに一つとして整理をつけられないままに、現状と未来への不安感と千夏への恐怖感と罪悪感の狭間に落ちた正平は、別の意味で地震の時に慌てて外へ出るのは危険だということを痛いほどに味わうことになってしまった。


「倉庫が大変なことになっているらしいから、片づけを手伝ってきてくれ」

という別の部署の上司の一言で、正平の思考は少しだけ正常に近い状態を取り戻した感じにはなった。あれだけ大きく長く揺れたのだから余震も相当の大きさになることは容易に想定できるし、しっかりとした安全管理をしないと思わぬ二次被害が生じるだけだし、それよりなにより今の状況で倉庫の細かいものを片づけても、すぐに元通りの惨状になるだけなのではないかと思いながらも、上には逆らわないのが会社員の鉄則と諦めて、とりあえず倉庫に向かった。その上司の命令で、正平と千夏は一緒に行くことになってしまったけど、二人は会話ができる心境ではなかった。でも、離れて歩くのも危険であることは二人ともなんとなく察知しはていたので、近過ぎず遠過ぎずの絶妙な距離感を保ちながら、二人は心理的には長すぎる徒歩2分ぐらいにある倉庫に向かった。


 案の定、倉庫では商品も人も仕事も混乱していた。商品課の課長は、急いで商品棚を修復することだけを気にしているようで、誰がどこでなにをしているかを全く把握していないままに闇雲に指示を出していた。その課長から、正平と千夏は2階の筆記用具を中心とした文房具類の片付けを、到着と同時に怒鳴られ気味に言いつけられた。しかし作業場所の状況を確認した正平は、大きめの余震で元の木阿弥になりそうなところを現状で片付ける緊急性も必要性も感じなかったし、管理する人も誰もいないし他から見えにくい場所だったので階段付近で仕事をしている振りだけして揺れたら即座に外へ逃げる作戦でいこうと決め、それを千夏に伝えようと彼女の姿を探したら、上からの指示に従順なタイプなのか、奥から整理をして行きたい几帳面なタイプなのか、それとも単に正平から遠ざかりたいだけなのか、千夏は通路に散乱した文房具を起用に避けながら倉庫の奥へと突き進んでいた。そのままにしておくべきか呼び止めるべきか迷った、その瞬間に千夏は急に振り返って正平めがけて猛ダッシュして来た。「なんだっ?」と思うのと同時にまた体全体に大きな揺れを感じた。下手をすると転びかねない大きな揺れの中で、床に散乱する商品を避けながら、そんなに広くはない倉庫の通路で正平の脇をすり抜けた千夏の、野球でいえば走塁技術、サッカーでいえばドリブル技術はあまりにも見事だったけど、ゆっくりと感心している場合でもなかった。かろうじてバランスを保っていた商品が崩れ落ちる音を背中で聴きながら、正平も千夏の後を追うように猛ダッシュで階段を駆け下りて1階の駐車場という比較的安全な場所を目指した。


 いつもなら、営業車が出払っていてガランとしているはずの駐車場には、思いのほか多くの人がいた。よく見れば何人かは、広めの駐車場の方が安心だと判断した通りすがりや近所の人みたいだったけど、倉庫の管理者が混乱しているから誰が誰やらわからない状況で、その人たちもなにがなにやら訳がわからない状況で、なにがどうした? これからどうなる? という不安に満ちた心境でいたところに、商品課の課長が、

「もう揺れてないから、持ち場に戻って片付けろ!」

と、興奮気味に指示を出した。すると、間髪を入れずに、

「状況を考えてみろ! 今、倉庫に戻るなんて危険すぎるだろ!」

という怒鳴り気味の返答を誰かがした。正平は声の主が会社の人間ではないことはわかったけど、そのあまりの正論につい心の中で拍手してしまった。ただ商品課の課長には部外者の声だとはわからなかったみたいで、ほかの部署の上司の可能性も気になったのか急に態度を反転させて、

「とりあえず、上と善後策を検討してきますから、しばらくお待ちください」

と、やたらと丁寧な雰囲気を醸し出しながら言って倉庫の事務所へと消えていった。よくプレハブみたいな倉庫に入れるなぁ……携帯でここから連絡すれば安全で安心のような気もするけど変わった人なんだなぁと正平は思いながらも、黙っている方が得なことが多いのも会社員ということで無表情な沈黙を保ちながら、本当の自分自身から目を逸らすかのようにあらぬ方向に視線を移した。


 その視線の先に千夏がいた。彼女は視線を空中の一点に漂わせながら、とてつもなく大きな不安に包まれたまま時間が止まってしまったような感じで、じっと佇んでいた。やがて、スマホのニュース速報を見ていたらしい人から震源地が東北地方らしいということと太平洋沿岸に大津波警報が出ているとの声が聞こえ、しばらくしたら携帯のワンセグ放送を見ていたらしい人から津波が堤防を越えてきているとの声が聞こえたとき、千夏はいたるところが剥げかけている駐車場のアスファルトの一点に視点を移していた。泣いているようでもあったし、泣かないように我慢しているようでもあった。そんな千夏に、一人で逃げたことを謝るべきか……でも、それは今ではない気もするし……じゃあ、優しい言葉で慰めるべきか……でも、どうやって? ……そんな循環型停止思考に陥った正平が千夏にかける言葉をなに一つとして思いつかないままに時間だけは経過していき、やがて全員に退社命令が出た。駐車場にいた人々も、各々の家路へと向かおうとしていたけど、ほとんどの公共交通機関が止まっていたから動けずに、そこら中にできた人だまりは混乱と喧騒を吸収しながら膨らんでいき、その中にふっと千夏の姿が消えていった。それが、正平が千夏を見た最後だった。今にも刺し殺しそうなぐらいの殺気に満ちた正平への怒りと、漠然とした不安が現実のものとなりつつあることへの深い哀しみ、それらが交じり合いながら高まっていき感情の限界を超えて喜怒哀楽を失ってしまったような、そんな千夏の後ろ姿だけが正平の心に深く残った。


 あの日から、千夏は出社することなく退職した。車通勤で同じ方向に帰る同僚の車で帰ったらしいこと……大渋滞で動けない車の中で瞬きもしないでカーナビのテレビを見ていたらしいこと……実家が東北地方で、甚大な被害を受けたらしいこと……その実家の諸々の都合で退職したらしいこと……それらを、東京では日常を取り戻しつつあった桜が散る頃に、社内の噂で正平は知った。もう一度会って、いろいろなことを話してみたかった。おそらく言い訳ばかりを一方的に言うことになったのだろうし、その結果として、さらに関係が悪化したのかもしれなかったけど、それでも一度は話をしておきたかった。あのまま、千夏と会うことができなくなってしまった正平は、失恋とは少し違うような、でも失恋が一番近いような、なんとも言えない喪失感に包まれていた。

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