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雪は、胸の奥から響く、心地のよい誰かの声に揺り起こされた。目を開けると、白い天井が見え、おいしそうな匂いにつられて視線を投げると、部屋の中央のテーブルには、湯気の上がる鍋が置かれている。


「な」


空腹で腹が鳴る。誰が用意したのか、起き上がって、しばらくぼんやりと自分のためらしき食事を眺める。食べるべきか、何かを、誰かを待つべきか。頭をかき回して、えいやっと眠気を追い払う。すばやくテーブル前の座卓にもぐりこみ、箸を取る。


「いただきます」


木製のフタを開けると、『鍋焼きうどん』だった。それもまだ、生に近い卵が二つも割りいれられている。色鮮やかな麩や蒲鉾がダイレクトに胃を刺激して、口の中につばがあふれた。雪はしばらく幸福に満ち足りて、椀に添えた左手をテーブルに置いた。



『こうして食べるということは』


一つの言葉が、雪の口から出掛かった。


『悲しいことに自分は』


まだ箸を伸ばせないでいる。


『生きていることを選択している。でもそれが』


鍋の傍には、お玉も置かれている。卵を掬うにはこのほうがいい。


『いったい何のための生かなんてこと。価値があるか、なんていうことは』


まったく関係が無い。


飢えて死ぬか、満ち足りて生きるか瞬間の『選択』など存在しない。ただ、生かされるか、殺されるか、すべてが自身で決定できないものだと知っている。


雪は箸を持ち上げ、うどんを器用につかんで椀に取り分ける。


気が付くと、自分を先ほどから見下ろすように立っている黒服の男のために、もう一つの椀にも同じだけの具を取り分けると、雪はようやく視線を上げて、まっすぐ男に差し出した。


「どうぞ」


男はのどを鳴らし、その椀を取った。


神の中立に関わるようになってからというもの、男は人と同じような空腹を感じるようになっていた。味覚も年を追うごとに鋭敏に深化しているようなのだ。


「貰おう」


四角いテーブルの一辺を占めるように男が席に着くと、圧迫感があると同時に、妙な近さを感じて、雪は一瞬戸惑う。もし家族だとか、親戚だとかそういう間柄ならば、こういう感じなのだろうか。ふと沸いた疑問が、そのまま視線の中に浮かび、男の目とかちあう。


「なんだ」


ひどく優しい響きだった。のどがコクッと鳴る。言葉にしがたい何かが頭の中を急速に占めて、雪はしばらく食べることに集中しようと、鍋からうどんを掬う。


卵を掬いかけ、自分が食べてよかったのかと、男の皿をちらっと見ると、あまり食が進んでいないようだ。雪はためらいつつも、食べたいだけ皿に盛り、食べては掬い、として、すっかり一人で食べてしまった。


膨れた腹をさすりつつ、雪は口を拭う。男はどうしたのかとみると、食事を終えた後の満足げな雰囲気はないものの、最初に雪が取り分けた分は、きれいに平らげている。雪は気になって訊いてみる。


「その、この食事はあなたが用意したものですよね」


男は関心の薄い瞳で雪を見やると、少しだけ口の橋を持ち上げて笑った。雪はそれを肯定と取った。


「すみません、何も言わずに食べてしまって。美味しかったです」


下を向きつつ礼を口にする。『美味しかった』。この言葉がこんなにも重く感じたことなどなかった。誰も雪の言うことなど聞かないのだから。放つ言葉はすべて、自分だけが聞くためのもののような気がしていたのに、なんという違いだろう。


「いいや、あんたが何か、ごちゃごちゃ言っているのを聞けたし、俺はそれほど食べる必要もないからな」


ごちゃごちゃって…雪は頭を掻いて、どうしようかと胡坐をかいて座りなおす。どうやらこの男は自分の心が読めるらしいと考えて、それではうそをつく意味もないなと考える。雪は男に言った。


「あなたは僕に信仰を捨てろといったけれど、それはあなたにとって、いったいどれだけの価値があるんですか」


純粋な疑問符。


雪が、その問いを投げること自体に対して、未だに態度を決めかねているからこその純粋さ。男はため息をつくと、カーペットに寝転がり、天井を見上げた。


「もしかして、神の中立には信仰がないのか。だが、信仰に価値がないわけではない。信仰を持たないからといいって、瀆神行為を冒しているわけではないしな」


独り言のような男の言葉を拾って、雪は考える。


「信仰は誰かから奪えば、自分のものになるんですか?あなたは、信じているんですか。神様、とかいうのを」


雪は口の周りを舐めて、男の表情を伺う。しかし、男が答えないので、雪も首をひねりつつ、同じように遠い目をしてみる。そうしていると、なんとなく男の考えが分かるのではないかと思ったのである。


「お前は、自分の運命をどう思う? 死にかけた自覚はあるのか。もしくは死のうとしたわけを、何かに求めたりはしないのか」




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