後段-6-


最初は、上がらない瞼の理由に気づいた。 赤い靄のかかった視界には、涙と目ヤニがしみていた。


ひどく重い足を動かした時の、じわりと腰までしびれる悪寒と纏わりつく生臭さに、鋭い頭痛が走ってはじめて、雪は、自分がまだ生きていることを知った。


カビ臭さの種類と、背中に当る硬さのせいで分かる。ここは自分の部屋の、ベッドの上だ。


途端に恐怖が襲う。 

はっきりと耳で聞いたのは、死にたいという自身の望みであったが、そんなことよりもむしろ、今生きていることの自覚に、何のおぞましさも感じない事実のほうが恐ろしい。


至極当然のように自分は息をしている。


自分が持って生まれたのは、自分を生かすための装置。筋肉、脂肪、それらが構成する臓器、骨組織、神経諸々。には何の罪もない。


自分の使い方のせいで、ひどく疲弊しているし、肺が攣れるように痛んで、息もひどくし辛いが、はあくまで彼らのままである。死ぬことが出来ない。なぜなら、自分は罪もない命を、殺すことが出来ないからだ。


自分を殺せない人間は、他人を殺すことが出来ない。これが、正しい公式のように雪には思えた。



「よぉ、起きたかい? 先生」


左前方から声が降ってくる。驚くよりも、その声が含んだ温かい響きに、どうしようもなく胸が高鳴る。大人の男の声で、知らない人間が自分を『』と呼ぶ。



「(だれ?)」


ほとんど音になっていなかった。しかし答えは返って来た。


「先生の『親戚』ってことになっている命の恩人さ。 雨の中、ここまで運んできて、ずっと傍で寝ずの看病をしていたのは俺だよ」


看病というには、身体のあちこちに不快感が残っている。視界がそもそも閉ざされたままで、男の顔も見えない。


「タオルか何か?」


勇気を出して手をのばすと、温かいものに触れた。男の顔だろうかと思ったが、すぐさまじっとりとした、より熱い掌に握りこむようにされた。

どこかで、一度でもこうして手を握られたことがあっただろうか、と自問する。


「少し待ってな」


離れた手の熱が、自分の手のひらを再認識させるようだった。雪は、まるで自分が赤ん坊に戻ったような気持ちで男の帰りをまった。


待っていた濡れたタオルは、雪の目をしっとりと冷やした。随分と心地いい。


雪が深呼吸をしてくつろいだ様子を見せると、男はぼりぼりと頭を掻いて、雪がここに戻ってくるまでの間のことを話し始めた。


「雨の中で行き倒れてるのに、通行人が、通りすがりざま助け起こしもせず、先生の頭を蹴りやがる。何事かと思ったね」


リラックスすると共に、安堵の眠気に誘われ始める。雪は、タオルの端を上げて、男の脚を何とか見定めた。薄茶色の作業服のようなものを着ているのか、そんな感じだった。中肉中背、のような気もする。


「俺が声を掛けると、声が返って来た。『カイン』とか、言ってたが、なんだ、『カイン』って」


雪はタオルの下で目をうっすらと開け、見た夢の仔細を思い出そうと努めた。


「なんでしょうね」


出てきたのは愛想のない言葉だった。雪の様子に気づいたのか、男はしばらく黙していた。何か、至極考えこんでいるような空気がたちこめたので、雪も、眠りの淵からそっと帰還する。


「俺はね、


男は話し始める。


「俺は、自分が今まで最低な人間だと思ってきた。人の嫌がることはみんなやったし、憎まれることもした。罪悪感なんてクソくらえ、法律なんてクソくらえ。そう思って生きてきた。でも、あの雨の交差点で、まるで死体みたい転がっている先生を見つけたとき、俺よりずっと、腐ってるって、そう思ったんだよ」


雪は男の話を聞きながら、もし男が犯罪者なら、いったいどうしてここにいるのか、などとは尋ねまいと考えた。その方が断然利口だ。


「俺はどこかで世界を肯定してたんだと、そのとき気付いた。善悪の区別くらいは、社会がするもんだと、期待してたんだな。でも、そうじゃないんだ。先生を見たら分かる。何もないんだ。犯す罪があれば、罰もあるのが正しいって思うのは、本当に悪いことをした人間だけじゃないのか?ってな。


俺みたいなゴミ屑だけが、そんなことを想って、じゃあ、世の中を変えられるのかっていうと、もう、俺たちは社会の外側にいる。仕事も、人間関係も、さっぱりしたもんよ。それに感覚がもう、違うんだな。なんだ。“自分の”社会なんて、見当たらねぇ」


男のことを理解するのに、視界は必要ないようだと雪は悟った。それに腹の空き具合から、夕方ころだろうと思われるのに、ひどく施設全体が静かに思える。


「それでも先生、俺は心を入れ替えて、生きてみようと思うんだ。どうやっても、先生を蹴る様なやつらのいる世界に戻りたいとは思わねぇから。だから、正しく、今までと違う様に生きてみようと思うんだ。先生を見習って」


正しく、という言葉が、雪の胸に冷たく刺さる。自分は正しいことをしているのか。まさか。そうならば何故、こんな目に遭っていると言うのか。説明が無いではないか。


「僕は、正しくありません、絶対に、違います」 


声が震えている。


男は、そんな雪をじっと見つめ、黙ったまま首を振る。


「先生は、優しい。なんでそんなに優しんだ。俺は泣けてくる」


そう言うと、男は、本当にすすり上げるにして泣きはじめ、だんだんと、内にこもったものが吐き出されていくように、声を上げて泣くのだった。


男の声は、きっと建物中に響いているだろうと、雪は思った。それにしても、雪は拾われたのではなく、反対に、珍しくも厄介なものを拾ってしまったのではないか。そんな気がし始めていた。


男はひとしきり泣くと、雪の部屋を出て行った。


二日後、ようやく動き回るのに支障が無くなった雪は、わずかな手荷物を抱えて、施設を出ることになった。雪は、男の養子に迎えられたのだった。



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