第3話 初トレーニングは身体測定から

 週末の朝、目を覚まして、今日は天気がいいから、渚君の洗濯物も一気に洗っちゃおうと思った瞬間、もうその必要がないのだということを思い出して、また泣いた。

 そうだ……もう、彼のために何かをしてあげることはないのだ。


 二人のお姉さんがいるという渚君は甘えるのが凄く上手で、子犬みたいな瞳で、上目遣いに見ながら「お願い」と言われると、何でもしてあげたくなった。

 ちなみに私は六人姉弟の長女という、今時珍しく大家族の中で育ったものだから、一番下の子とは一回りも離れていて、必然的に第二の母ちゃんとして、下の子達の面倒を見る立場を求められた。だから、そういう役回りには慣れていたと言える。


 彼がご飯作ってとねだっても、洗濯お願いと甘えても、ごく自然に受け入れた。

 どんどん彼のお願いはエスカレートしていったけど、彼に頼られるのがうれしくて、渚君は私がいないとダメなんだって、そう思っていた。


「おい、何ボーっとしている」


 突然、低い声で言われて、私はハッとして顔を上げた。


「あ、す、すみません」

「ちゃんとついてこいよ。俺がトレーナーになったからには、必ず理想の体型に導いてやるから」


 なんだか偉そうに私を見おろしながら、一条さんは言った。


「お前、名前なんだっけ?」

「や、山田花です。よろしくお願いします!」


 ペコリとお辞儀すると、彼は、「まずはこれにサインしろ」と一枚の紙を出した。

 てっきり、入会手続きの申込書かと思ったら、なんだかそれには誓約書と書かれており、『私はこの三ヶ条を必ず守ると誓います』なんて文章が一番上に記載されている。


「なんですか? これ」

「見てのとおり、俺との契約だよ。ま、目標達成するための簡単な取り決めみたいなものだ」


 誓約書の内容は以下の通り。


 一、毎日ジムに来ること。

 二、俺の言うことに必ず従う事。

 三、俺が決めたルールは絶対守ること。


 最後に、『これらを守らなかった場合、ペナルティが発生することを了承します』という文章で締めくくられていた。


 なにこれ、結局のところ、俺の命令に従え。逆らえば容赦しないってことだよね。


「ペナルティって……違約金とか?」

「安心しろ。ちょっとした罰ゲームみたいなもんだ」


 ニヤッと笑って、彼は私にペンを握らせた。


「ほら、サインしろよ」

「で、でも、毎日ジムに来るのは、なかなか難しいかなって。予定が入ることもあるし……」

「はぁ? お前、本気で痩せる気あるのか? 三ヶ月くらい気合い入れて毎日通え!」


 ギロリと睨まれて、私はたじろぐ。

 おぉ。さすが厳しめトレーナーだ。かなりのスパルタぶり。

 若干、ついていけるか心配になったが、私は渚君と麗奈姫が寄り添う姿を頭に思い浮かべて、フンと気合いを入れ直した。


 ペンを持った私を、じっと見据える一条さんの視線がなんだか恐い……。

 誓約書にサインした途端、彼は、ニヤッと笑って、「契約成立」と言った。

 大丈夫だろうか……。背筋がゾクリとした。


 翌日――


 早速、トレーニング開始となり、会社帰りにジムへ行くと、待ち構えていたように一条さんが出迎えた。


「じゃぁ、身体測定するから、服脱いで」

「へ?」


 誓約書を書いた時と同じ個室に連れていかれて、メジャーを持った彼に、突然、そんなことを言われた。


「へ? じゃねーよ。下に、スポーツブラとボクサーパンツ履いてんだろ? Tシャツとズボンの上からじゃ、正確に測れねーから、ブラとパンツになれって言ってんの。さっさと言われた通りにしろ」


 イライラした様子で言われたけれど、私は動けず固まった。

 一応、昨日、ジムから購入したスポーツブラとボクサーパンツを今日は身に着けて来た。だけど、それって、スポーツタイプとは言っても所詮は下着。体を覆う面積はものすごく狭いのだ。

 そんな姿を、このイケメンの前で晒せと……。


 恥ずかしくてモジモジしていると、

「安心しろ。そんなたるんだ体に欲情はしねーから」

 と彼は言った。


 な、な、な、なんなのこの人!

 あまりに不躾な態度に呆気にとられた私を見て、彼は肩をすくめた。


「昨日、俺の言う事に従うって契約したよな? ちゃんと言う通りにしていたら、3ヶ月後には、すれ違った男が振り返るくらいのイイ女にしてやる。だから、お前は何も言わず俺に従え」


 彼の傲慢さには腹が立ったけど、渚君に振り返ってもらえるようないい女になりたい。

 私は意を決して、一条さんに従うことにした。


「へぇ、胸デカいじゃん」


 ぬおっ。

 遠慮なくスポーツブラとなった私の胸を彼は見つめた。


「そ、それセクハラですよ!」

「だーかーらー、胸大きくたって、今のお前じゃ、着ぐるみにしか見えねーよ」


 先ほどから失礼千万!


「一条さん!」


 さすがの私も文句を言おうと声を上げたら、彼がメジャーで胸を測り始めた。ブラの上からだけど、私は思わずビクリと体をしならせた。


「敏感なんだな」


 彼に笑われて、顔から火を噴く。


「べっ別に感じてなんかいません!」

「感じてるとは言ってねーよ。くすぐったがりなのかと思っただけで」


 そう言った後、きっとトマトのように赤くなっているだろう私に向かって、「感じてたんだ?」と彼は耳元で囁いた。


「ちっ違います!」

「ほら、ちゃんと真っすぐ立てよ。測れねーだろ」


 ピシャっとお尻を叩かれて、私は、「ひゃん!」と変な声を上げてしまう。


「何お前、そっち系?」

「そ、そっち系って、どっちですか?」

「いや、とりあえず、俺とお前の相性はよさそうだってこと」


 ニヤリと不気味な笑みを浮かべる一条さん。


「あ、相性って何ですか!?」

「大事だろ? これからマンツーマンで指導するトレーナーとの相性はさ」


 言いながら、今度はお尻にメジャーをまかれて、思わずビクンと反応してしまう。

 ニヤニヤする一条さんに、私は目を逸らして横を向いた。


「あぁ、これから楽しくなりそうだな」


 絶対わざとだ。絶対私のことからかっている! 何なのこの人!


「そういや、お前、名前なんだっけ?」

「え?……あ、山田花です……昨日、言いましたけど」

「ふぅん。よろしくな、花子」

「あ、いや。花子じゃなくて、花です」

「で、花子は、どんな体になりたいわけ? 理想とする芸能人なんかいる?」


 聞いちゃいない……。


「……えぇっと、誰という訳でもないですけど、モデルさんみたいにスラッとした感じに憧れます。横から見たらうすっみたいな感じの」


 麗奈姫を思い浮かべながらそう言ったら、一条さんはつまらなそうに肩をすくめた。


「お前、せっかく、胸周りに無駄な肉余ってんだから、もっとグラマラスなの目指せよ。マリリン=モンローみたいな」

「マ、マリリンですか? っていうか無駄な肉って……」

「そ。俺がマリリンにしてやるよ」


 なんだかやる気満々の一条さんに私は後ずさり。


「い、いいですよ。この日本人丸出しの地味顔で体だけマリリンって、アンバランスもいいところなんで」

「大丈夫だって、男はそういうギャップに弱いんだから」

「いや、ちょっと、ギャップ違いな気が……ほら、それって、あどけない可愛い顔の子がセクシーな体だったりするとっていうギャップでしょ」


 言い返したら、一条さんにジロリと睨まれた。


「何お前、俺に口ごたえする気?」

「え……」

「昨日契約しただろ? 俺の言うことに従うって」


 えぇ!?


「よし。目標はマリリン=モンローで決まりな」


 絶句。もう言葉もありません。私一応お客様なのに……。35万円も払ったのに……。


「一条さんって、厳しいイケメンと言うよりは、横暴なイケメンって感じですよね」


 そう言ったら彼は形の良い眉をピクリと動かした。


「はぁ? 何お前、じゃぁ、ジム辞める? いいよ。辞めても。まぁ、35万は支払い済みだしな」


 う……うわぁぁぁん。

 かくして、私の目標は、マリリン=モンローとなったのである。

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