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 天羽はなるべく雑踏に紛れて歩いた。今は尾行の眼を感じてはいないが、用心のために何度か電車を乗り換えて遠回りをし、飯田橋で降りる。駅からは目白通りを九段下に向かった。腕時計を確認する。午前11時を回っていた。天羽は事前の打ち合わせ通りに公衆電話に入り、青柳から教えてもらった携帯端末の電話番号を押した。

「警察の方とお話しするのは、気が引けるんですよ」相手が言った。「ただでさえ、国家情報院のスパイだなんて言われてますから。しかし、青柳さんの紹介とあっては断るにはいきませんね」

 天羽は相手の勤め先を尋ねて通話を終える。再び歩き出した天羽は飯田橋二丁目の交差点を右折する。東京大神宮の傍に建つ6階建てのビルに入った。4階にある「日韓経済研究所」が相手の勤め先だった。

 受付嬢に案内された応接室は部屋の中央に安物の応接セットが置かれていた。天羽がソファに腰を下ろす。受付嬢がお茶を持って来た。その後はしばらく待たされた。やがて前触れなしにドアが開いて面会相手が入ってきた。

 康英秀。青柳の話では、康は以前に在日組織の元幹部を務めていたという。現在は朝鮮半島情勢に精通するジャーナリストとして、半島の情勢分析や祖国の内情に関する著作を数多く出版している。

 康が天羽と向かい合うようにソファに腰を下ろした。

「だいぶイメージが違いますね」

「は?」

「あなたからは全然、公安らしい雰囲気が感じられない。不思議だ」

 天羽は苦笑を浮かべてから聴取を始めた。

「金鉄泰、もしくは高村紘一をご存じだそうですね」

「金と私は同郷でして、私たちは大阪の鶴橋で生まれ育ったんです。その金があなたのおっしゃっている金と同一とは限りませんよ」

「同一人物と仮定して、話を進めましょう」

 康はうなづいた。

「分かりました」

「金はどういう仕事を?」

「アイツは日本の国立大を大学院まで出た男ですが、今は総連系列の金融企業に入ったようです。ブローカーをしているという話を聞きました」

「私たちが調べた限りでは、高村紘一は新潟県警の警察官を騙って警視庁の警部補に接触していたことが分かっています。日本の警察官を騙るというのは何らかの非公然活動に従事しているように見受けられますが」

「金が非公然活動?うーん、私みたいに元学習組ならまだしも、アイツは組にも入ってなかったし・・・北に対する祖国愛といった点も私から見れば、あまり無かったように思います」

 学習組とは『偉大なる首領が組織し、親愛なる同志指導者が指導する在日朝鮮人の革命組織』というもので、その実態は対日工作に従事しているとされていた。約10年前、当時の首相が訪朝する直前に最高指導部の命令で解散したという話だった。

「では、金の所在は分かりますか?」

「アイツは学習組が解散したのと同じ時期から姿を消しまして」

「姿を消した?死んだということですか?」

「いえ、おそらくはどこかで生きてるはずです。何か月前はソウルにいるという話を聞きましたが」

「地下に潜った理由として考えられることは?」

「さあ」康は肩をすくめた。「アイツは根っからの文学青年でしてね。ご存じでしょうが、大学院に入ってまで文学の研究をしてたんです。そういう人間ですから、地下に潜るとか非公然活動とか、そういう危ない橋を渡るとはとても思えないんです」

 それから天羽は防犯カメラで撮影された、高村紘一の映像を康に見せた。ノートPCのドライブに映像を収めたDVDを入れて再生する。10月18日午前11時48分ごろ、山辺が高村と宝町のセンターホテルのラウンジで接触している様子が流れる。映像を流して数分が経った頃だった。

「ちょっと止めて下さい」康が言った。

 天羽は映像を静止させる。康が顔をディスプレイに近づける。しばらくの間、静止した画面に眼を凝らした。天羽もディスプレイを見る。映像は高村が山辺と別れる際に椅子から立ち上がった瞬間を捉えていた。

「体格は金によく似てると思います」康は言った。「この肩の張ったところなんかは、非常によく似ています。ただ・・・」

「何です?」

「顔立ちが全く似てません。金はこんな男前ではなかった」

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