[2]

 貫井と天羽は303号室を出た。薄暗い廊下で、天羽はささやく声で聞いた。

「ぼくを呼んだ理由はなんです・・・?」

「捜査一課は面白くないだろうな」

「参事官がなぜ?」

 天羽の問いには多少とも意味があった。殺人事件の現場に公安部参事官が部下を呼び出して、自ら事情説明に努めるなど前代未聞だ。これまでの話を聞く限り、公安部が出しゃばる必要がある事件にも思えない。何よりも天羽は2年前にある事件にからんで現場から退いていた。かつての上司からの呼び出しに胸中は未だ戸惑っている。

 貫井は天羽の問いには答えず、薄暗い階段を降り始める。アパートの前の路地で含みのある回答をした。

「とりあえず初動捜査で成果を上げることが大事だ。捜査一課を経由したのでは、立ち遅れる可能性がある」

 今こうして説明する時間も惜しいという口ぶりだった。細い路地に出た。貫井が不意に足元のチョーク跡を指した。安斎英道の死体があった場所だという。アパートから北に70メートルほど離れた場所だった。アパートの303号室を襲撃した3人組とは別にもう1人、刺客がいたのか。死体の輪郭を記したチョークを上から隠すように、ヴァンが駐車してある。

 天羽はヴァンの後部座席に貫井と一緒に乗り込む。車内にはすでに黒いスーツ姿の男が2人乗っていた。馬面の若い男が大河原、髪の薄い男が藤岡と名乗った。

 貫井が空いていた公安総務課の係員だと紹介した。公安総務課は共産党関連の調査が主業務だが、時どき特命に従事することも多い。組織の全容を把握しているのは公安部長を筆頭に、数人の警察庁キャリアに限られる。

 大河原が運転席との仕切りを叩いた。足元でヴァンが動き出す。

「昔、安斎英道を取り調べたことがある」

 貫井の唐突な言葉に、天羽は驚きながらそっと聞いた。

「いつですか?」

「公総で管理官だった頃に。10年ぐらい前の話になるが」

「人定は?」

「取調の時、奴は完默だったんだ。国選弁護士にも完默だったらしい。結局、4か月ぐらいで結審したはずだ」

「罪状は?」

「たしか公妨(公務執行妨害)。その時、現場の公安捜査員が1人、安斎との事件で顔をバラされて、前線に立てなくなった。だから、よく覚えてたんだ」

「一緒にいて殺された女性の素性は?」

「分からん」

「なぜ、2人は殺されたんです?」

「それは君の仕事だ。この事件の背景を明らかにするんだ」

「ぼくは現場じゃありません」

 貫井は有無を言わせぬ口調で告げた。

「君はもう復帰したんだ。おめでとう。これ以上、駄々をこねるな」

 窓を流れる景色は閑静な住宅街から新宿御苑の緑地に変わっていた。天羽はふと見知らぬ街に迷い込んだような錯覚を覚えた。貫井が座席の下から分厚い黒表紙のファイルを出して、天羽の膝の上に置いた。

「早朝、捜査一課の管理官から問い合わせがあった」貫井が言った。

 捜査一課に十数名いる管理官のうち1名は公安参事官と同じ警察庁出身のキャリアが配属される。キャリア同士のつながりは地下水脈のように桜田門の中に張り巡らされている。

 貫井は天羽の膝の上のファイルを開いて、何枚か書類を取り出した。

「君の卒配は麻生署だったな?」

「ええ」

「麻布署の生活安全課で、麻薬捜査を担当している山辺拓造という警部補は?」

「いえ、知りません」

「問い合わせはその山辺が個人的に作成したファイルの内容に関するものだ。山辺はどういうわけか、以前から殺害された安斎夫妻を調べてたようだ。アパートまで脚を運んで名刺を残したりもしてる。それで私はファイルのコピーを1部作るよう依頼して、さっきの現場で落ち合った」

 天羽が今ながめている書類がそのコピーらしかった。住民票が2通。日本海新報の一面記事。日付は3年前。見出しに『繁華街で銃撃 死者2名』とある。

「住民票は偽造。3年前の新聞記事は今回の事件との関連が今のところ不明だが、山辺を聴取すれば何か分かるかもしれない。私はこれから目白の屋敷を開けてくるから、君は山辺を抑えてこい」

 貫井は新宿二丁目の交差点でヴァンから降りると、地下鉄の通路に消えて行った。

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