03-4 たそがれの発情

「ところで……、ここがイラくんの後宮こうきゅうなんだね」


 花音が部屋を眺め渡した。


「こ、後宮!?」

「うん。意味はよくわからないけれど、陽芽が言ってたの」


 ――あのトンデモ小娘。ヘンなこと言いふらしやがって。本気でお仕置きするぞ、くそっ。


「違うよ。俺はここを個人の勉強部屋にしたんだ。学園の歴史や社会構成を調べて、こうやって図示したりとかさ」


「そういう話」にして、相関図を机の中に隠した。


「歴史……。へえ……イラくんって歴史が好きなの」

「ま、まあな」

「わあ。じゃあ花音、今度教えてもらおうっと」

「……」


 花音に嘘をつくと、なんとなく罪悪感を感じる。


「これなあに? かわいいニャンコ……」


 テーブルに置いてあった根付を、花音が発見した。


「ああこれ……。裏覗いちゃダメだぞ」


 花音の手に置いてやった。


「わあ……かわいいー」


 翡翠の招き猫を眺めて喜んでいる。裏から見たら、顔がひきつるだろうけどな。エロ像があって。


「なんだか古そうだね。これ」


 手の上で、根付をつついている。


「江戸時代の『根付』ってアクセサリーでさ。ウチの家宝みたいなもん。なんでも九度願いを叶えてくれるんだって」

「わあ、ロマンチックー。そういう言い伝えなんだね」

「でも実際、願いを叶えてもらったことあるぜ」

「……本当」

「ああ。子供の頃、化け物に遭ったことがあって」

「化け物……」


 花音が首を傾げた。


「うん。プロレスラーみたいな体型で、体中に縞模様のある毛むくじゃらの奴」

「……」

「そんとき『助けてっ』とか根付に祈ったら、ペカーッて」

「ぺかー?」

「うん。翡翠の根付が光って」

「……それで?」

「さあ?」

「さあ……?」

「気がついたら、ひとりで倒れてた」


 花音は、ベッドに座り込んだ。


「……ねえ、イラくん」

「ちょっと待って」


 伊羅将は、ペットボトルのお茶を、マグカップに注いで出した。


「お茶淹れられなくて悪いけど」

「ありがと」

「今度、自宅からヤカンくすねてくるからさ。あと、お菓子がたしか……」

「いいからっ」


 花音にしては強い口調で言われて、伊羅将は戸惑った。仕方なく並んで座る。


「……なんだよ、花音」

「化け物に遭ったのって、いくつのとき?」

「八つかな。ウチの裏山に南部神社ってのがあって、そこが氏神様なんだけど、根付を持ってお参りに行くところだったんだ」


 伊羅将は説明を始めた。その頃、両親が不仲になっていたこと。仲直りできるよう、父親の根付を持ち出して、根付と関係の深い南部神社に祈りに行く途中だったこと。記憶があいまいになっているが、その途中で化け物に遭遇したこと。


「もしかして、そこに、女の子いなかった?」


 真剣な顔で訊いてくる。


「えっ? いなかったと思うよ。……といっても、よく覚えてないんだけど。化け物に遭ったのだって夢みたいにぼやけてるし。交通事故とかでよくあるらしんだけどさ、記憶が飛ぶの。医者は、逆行性健忘とかなんとか言ってた」

「そう……」


 息を詰めて聴いていた花音が、深く息を吐いた。


「イラくん。なにか……そう、珠を持ってない?」

「珠?」

「うん。このくらいの」


 ゴルフボールくらいの大きさに、手を丸めてみせた。


「ピンポン球なら持ってる」

「そうじゃなくて。その……化け物に遭ったときに、なにか拾ったとか」

「ないない」


 手を振ると、伊羅将は一笑に付した。


「忘れたというより、自分ではあれ、夢じゃないかと疑ってるんだ、正直。あんとき、参道の階段から落ちて頭打ったし、どえらく怪我したから、ぼーっとなって夢を見たんじゃないかと。……人に話すときは受けるからさ。化け物と遭ったとか、根付が光ったとかのが」――こうして女子に話すと怖がって抱きついてくれそうだし――とは明かさなかったが。


 下を向いて、花音はなにか一心に考えている。


「ごめん。怖がらせた?」

「ううん。……ちょっと顔、よく見せてね」

「う、……うん」


 花音の手が伸びてきた。伊羅将の頬をそっと撫でて、瞳の奥を覗き込んでくる。


「……えと」


 ――ヤバい。近すぎる。


 少しだけ上気した花音の顔が、目の前にある。黒目がちの瞳はしっとり潤んでいて、キラキラと輝いている。息遣いで胸が動いていて、なんだかすごくいい匂いがする。


「イラくん……。花音のこと、好き?」

「えっ?」

「どうなの?」

「いやそれは……。お、お前はどうなんだよ」

「うん。お友達だって思ってたけれど、なんだか急に好きになってきた」

「……」

「五秒前から」

「なっなんだよ。それ」

「……なんでも」

「あ、あの……。ちょっと近すぎるというかなんと言うか。あっ」


 急に抱きつかれた。花音は伊羅将の首に頬を当てている。すごく熱い。


「……ごめん、イラくん。花音……なんかヘン」

「変?」

「うん。胸が……苦しくて。ドキドキするし……体の奥から……」


 首に唇を着けて話すので、柔らかな唇と熱い吐息を感じ、伊羅将もおかしくなってきた。


「か……花音……」

「もう……ダメ」


 伊羅将の手を取った。


「お願い。胸を……触ってみて」

「む、胸?」

「うん……」


 伊羅将の手を、花音は強く自分の胸に押し付けた。最初に会った日はあっけらかんと触らせてくれたものだが、今日は全然違う。もっと……そう、大人だ。


「花音……」


 思わず手に力が入った。


「ああ……」


 花音が吐息を漏らすと、ブラウスの隙間から、花のような香りが漂ってきた。その瞬間、伊羅将は急にくしゃみが出そうになった。


 ――待てよ俺。俺様、今最高にエロいシチュエーションにいるのに。くしゃみはないだろ。


 延髄のくしゃみ中枢を全力で抑え込もうとしたが、「意志の敗北」というか、もちろん無理だった。


 花音を遠ざけて大きなくしゃみをする。その瞬間、伊羅将の背中に激痛が走った――。といっても、くしゃみのせいではない。


「お兄様っ。いけません」


 陽芽だ。例の五股の鞭を握っている。伊羅将は、ベッドに倒れて悶絶した。痛い。痛すぎる。痛すぎて死ねる。


「……お前。その鞭は……」


 苦しい息でようやく言葉を押し出しながらも、またくしゃみが出る。


「だって……いつまで経ってもプレイのお誘いがありませんでしょう。ご主人様に叱られる覚悟で来たんですわ。そうしたら……」


 陽芽は腕を組んだ。


「わたくしがお兄様を調教する側に回るとは、夢にも思いませんでしたわ。それに……お姉様も。お薬を飲むのをお忘れになったでしょう。不用心ですわよ」


 赤い錠剤を、花音に手渡す。震える手で口に放り込むと、花音はお茶で飲み下した。そのままベッドに倒れて荒い息をついている。ベッドの反対側では、伊羅将がくしゃみを続けている。


「おかしな光景ですこと」


 陽芽は首を傾げた。


「四月ですものね。お兄様ったら、花粉症ですの?」

「いや。ね、猫アレルギー」


 まだくしゃみが止まらない。


「で、でも、もう何年も出ていなかったのに」

「ああ、それで……」


 椅子を持ってきて、陽芽は腰を下ろした。


「お姉様が発情なさったせいですわ」

「は、発情!?」

「ええ。お薬をお忘れになったので」

「お、お前たち。なっ――ックション――何者なんだ」

「わたくしたちは、ネコネコマタ王家の者です」


 陽芽はにっこりと微笑んだ。

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