一年目.十二月七日――残る月日を知らない

◆青い七面鏡のソルケントヴィード

 雪はすき。

 だけど、いつかは離れないといけないもの。綿は水を吸ってふくらむけれど、おひさまの光に照らされてしぼんでしまうの。

 ふとんに包まれていると、すこし大きくなった気がするけれどきっとそれは勘違い。ああ、これは夢だ。あたたかいと思ってしまった。


 これが夢だと気づいてしまったなら、きっとすみやかに目覚めなければいけない。

 そうしないと悪魔がやってくるからね。教わった、誰に? ああ、そら来た。目を開こう。少なくとも今はそう思ったんだ。


 青空の中に放り出されたみたい。

 ……雲ひとつない満天の青、上下左右を見渡してみても何も見つからない。

 もし、落ちているという感覚があるのなら【わたし】というからだを見つけられたかもしれない。青、青、青。空の青、海の青、青い血……。

 すべて青一色に塗りつぶされているのに、個性がある。もし、すくいとれるとしたら一滴一滴の色味が違うだろうか。

 しょっぱいなら海だろうか、それとも血だろうか? 空の味を知るチャンスかもしれない。


 今、気づいた。 

 すべての青は、わたしと一体であるのに考えることが出来ている。

 【わたし】という青はここにいた。

 

 「やぁ」

 何かを言おうとしたその瞬間だった。

 人懐っこそうなその声は【わたし】の中から飛び出してきた感覚と、周りから響いたゆらめきが一緒くたになったみたいで、少年と少女のあいのこのような音階を持っている。


 「私の名前はソルケントヴィード、青い七面鏡のソルケントヴィード。ここは私の中で、ここはあなたの外なの。あなたの名前はなあに?」

 音が【わたし】に届くか届こうとする間に無数の線が走り、輪郭が切り取られる。いいえ、それはまるで青い布に施された刺繡ししゅうのようなものでした。

 

 悩みは一瞬、もしかしたらこの言葉を言いたくて、だけど言えなくてずっとずっと口の中で溜めていたのかもしれません。つばきと一緒なら汚いなとちょっとだけ思う。


 「スーラ=トーラと言います」

 自己紹介の言葉を心の中で何回かリフレイン、いつになくとても上手く言えた気がした。


 少女の、胸のふくらみがないからもしかしたら少年のシルエット――、は寄り集まってになり、人型を形作る。

 それはたゆたう水母くらげのように、上下の区別を持たずに【わたし】の全周を落ち着きなく漂う。そして、見目の良い唇を開いてわらった。


 「あっははは、あっははは! あなたの名前はスーラ=トーラ、生き汚い『人間』スーラ=トーラ! だから私のところまで来ることになった、『記憶』のところまで来ることになった!」

 思わずムッとしながら、これが夢だとわかっているからこそ遠慮なく聞き返す。ここは夢で、【わたし】には目も鼻も口もないはずなのに不思議だった。


 「誰ですか? 初対面の相手を笑うなんて失礼だと思います」

 「ああ? ああ! 私が誰か? 私が誰か! 『記憶』だと言ったはずだけど、『青』だと言ったはずだけど! 私は心臓ハートを目指す青い血、あなたは心臓ハートを旅立った赤い血?」

 

 【わたし】とさして変わらないようだけど、こんな年頃の子どもの言うことはあてにならない。

 だけど、無視するわけにはいかなかった。夢見心地に現れるよくないモノなんて悪魔くらいだっておはなしなんだけど、この青い七面鏡ソルケントヴィードはけして目を離せない。


 青く透き通ったかんばせに配置された空色の瞳、微妙な色の移ろいはその子を美しいものと定義して離さない。一瞬たりとも、同じ色を同じ光を、【わたし】に与えてくれようとしない。

 美しいということは卑怯なんだって、きっと思ったんだ。


 「通り悪魔は結構ですから、夢から――」

 覚めたいと言おうとして、やめた。やめざるを得なかった。

 

 濁った色と透き通った光、相反する印象を与える瞳がすぐ目の前にあった。ずっと見ていたいと思ってしまう。

 だけど、【わたし】を青一色に染め上げたのは少年であり少女でもあるソルケントヴィード、彼もしくは彼女の口づけに他ならない。


 キスをしたいと思うなら相手がいなければいけない。

 喋るための口があるならそれを塞がれてしまっては、もう黙るしかなかった。


 彼(女)は青しかない空間に唇を押し付ける。それだけで【わたし】が生まれる。唇を寄せ合う唇から順を追って――、肌は青の『記憶』の中で溶け込まないように、青でなく赤でも黄色でもあってはいけない。


 光を寄せ集めて透明に、色を拒んで白色に、それでいて人の肌の色にも見えるようにする。だから、薄い皮膚の先には水色が、単なる水が流れてるんだろう。

 目鼻の筋はすっと通るように、数と場所は間違えないように、少しコンプレックスだった爪の形を整えたら、材料が足りなくなったみたいで身長をちょっと削る。

 

 やせっぽちだ、せめてやわらかく見えるようにしよう。触ってもごつごつしないように、自分で自分を抱きしめる。また材料が足りないみたい。もうちょっとだけ削る。

 二の腕がだらしなくないように、いざと言う時声を張り上げられるように、肉を削って盛り上げて、わたしが生まれる。

 

 なんとなくわかってしまう。

 『記憶』ってのはそのまま記憶のこと、思い出、みんなが生まれてからひょっとしたら生まれるまでも経験してきたこと。

 知らないうちに覚えていること、忘れていること、忘れたいこと……。


 やわらかな唇は、水面を撫でる感触を伝える。

 まるでわたしのすべてを吸い上げてしまいたいというように、舌先は口内を踊り、皮膚のすべて、体内のすべてを舐めつくす。

 記憶の悪魔ソルケントヴィードに容赦はなく、わたしの抵抗する気力を一切合切奪い取る。


 振りほどこうという気はもはやないのに、やつはわたしと鏡合わせのような姿勢を保ちながらステップを踏んだ。

 気づけば、やつはわたしに似た姿を取っていた。姉妹か、従姉妹か、そういった近しい間柄、候補を探そうとしたのに見覚えが無い、最も近いのは――。


 あいつは小指を立てる。続いて指を使ってバッテンも。

  

 意味を考える間もなくあいつは瞳をわたしの瞳へと押し付けてくる。

 ゼロ距離は、当面会話をするつもりがないということだろうが、今度は自分で見ることも許さない、それどころか考えることも許さないということだろう。


 折角、浮かんだ素晴らしいアイデアを手放してしまったもやもやと共に、わたしは瞳が作り出す合わせ鏡の中に、私という記憶の中に沈んでいった。

 これはきっと、わたしがはじめて死んで、同時に私が“世界”に生まれ直したときの“記憶”。三原色トリコ・ロールが一『青のソルケントヴィード』との出会い――。

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