02.

「権像先生には会えたかい?」

 恩師である、東風啓介こちけいすけは愛用のコーヒーカップを片手にそう切り出した。目は、千尋の顔を見ている。

 千尋も自分専用のマグカップを手に東風の顔を見返していた。ここは、大学の間からお世話になり、院に行ってからも通い続けた部屋だ。いろいろ持ち込んでいる。

 勝手知ったるなんとやらで、今もコーヒーメーカーからコーヒーを勝手に頂戴して飲んでいた。

 東風は白衣を着ていかにも研究者然としている。顔は柔和な笑みを湛えている様に見える顔だ。目は細くどこを見ているか判然としないこともままある。しかし、千尋はそれを不快だと思ったことは不思議とない。

 その表情のせいか、顔から東風の考えを読むのは至難の業だった。だいぶ慣れてきたとは言え、それでも上手く読み取れないことの方が多い。

 良くある研究者と違い東風の部屋はきれいに整頓されており、読みかけのレポートや資料や論文すら机に上に広がったりしていない。潔癖に近い印象を与える部屋だと思った。

 普段東風は、視聴覚室のような部屋にずっといて、大きな画面を見ながらいろんな表情の分析を行っている。そのせいもあってか、この部屋は殺風景なのかもしれない。

「はい」

 千尋は少し間をおいてから、そう肯定する。

 仕事が終わった後に、美作犯罪心理学研究所に呼び出されていた。用件はよくわかっていない。少々疲れているが、恩師の呼び出しを袖には出来ずにここにいる。

「なにか、聞きたそうだね」

 東風は、人間が無意識に作ってしまう表情と意図的に作る表情を一瞬のうちに見分けて、しかもそれがどんな感情に因るモノかも言い当ててしまう。

「はい。あの権像氏とはどんな人物なのですか?」

「君の大方わかっているのに確認する癖は丁寧だけど、悪癖であるとも思っているよ」

 千尋は、そういわれても性格なのだからと思ったが、話の肝はそこにないので流した。真摯な視線だけで真相の暴露を訴えかける。

「君は、確かに脳といくつかの表情が結びついていない。でも、ぼくに言わせればけっこう表情は豊かな方だと思う。まあ、訓練の結果かも知れないけども」

「ありがとうございます。あの方は、先生の師なのでしょうか?」

「そうだよ」

 なんでもないことのように言い切られた。たったこれだけのことをもったいぶるのは東風の悪い癖だと千尋は思っている。

「では、権像氏の読心術めいた技は、微表情の読み取りなんですか?」

「うん」

 東風は、人間の微表情を研究している。微表情とは、微かに浮かぶ表情のことで強度が弱いこともあれば、表出している時間が短いこともある表情のことだ。

 だが、その短い時間の表情に本心は隠れているとアメリカの心理学者も元FBIの捜査官も日本のビジネスに必要な心理学を教えているコンサルタントも主張している。

 もちろん、東風もその一人だ。そして、あの権像もまたそうなのだろう。読み取る能力が異常に高いという意味では超能力めいているが、実際は訓練に基づいた技術である。

 特に、東風は生まれつきそういうことが出来た超人ではない。努力によってその力を身につけた。だから、微表情は科学であり研究として成り立っている。

 まだまだ未開拓な分野ではあるが、実績は着実に積まれており結果もちらほら出て来ていると聞いた。

「それで、今日の呼び出しはなんの御用だったんでしょうか?」

「そう、とげとげしないでよ」

 温くなりかけているコーヒーを煽る東風。その顔は飄々としていていまいち読み取れない。今日もなにが楽しいのか幸せそうに笑っているように見える。

 ただ、今は強いて言うなれば、意地悪なことをことを考えている顔に近いと思った。

「また、なにか厄介ごとですか?」

「ふふふ、なかなか鋭くなってきたね。訓練は成果有り、と」

「で? 本題をうかがいたいのですが」

 このやりとりに付き合っていては、日が変わっても解放してもらえないだろう。

「いや、君の成長をこれからもちょくちょく見守るからという話だよ」

 おちょくっている表情はない。

「それを言うためだけに、呼んだんですか?」

「うん」

「他には?」

「権像先生を恐れてはいけない」

「恐れる? 別に表情を読み取られるくらいで恐れませんが?」

 言葉では、そういったがプロファイリングをさせると言ったときの権像は確かに怖かった。きっと、そういう類のことなんだろう。

「そういうことじゃない。おいおいわかってくるさ」

 そう言いながら、指先同士はくっつけて、手の平は離すという尖塔のポーズをしながらしっかりと東風は千尋を見た。この尖塔のポーズは自信の表れだ。だが、東風は承知の上でやっているのだと思う。

「ありがとうございます。で、帰ってもいいですか?」

「むう。連れないなぁ。それが心配する恩師に対する態度かい」

「すみません。今日は、あっちに先に予定が入っていたものですから」

 東風にはこれで通じる。

「ぷんぷん?」

「いえ、そこまでは。でも、いらっとはしてるかも知れません」

「怖いねぇ」

「はい」

 噂では、東風もなかなかの恐妻家だとか。

「結婚式には呼んでくれよ?」

「生きている内に執り行えばお呼びします」

 冗談ではないことを東風はわかっている節がある。

「うん、ぜひに。いやあ、楽しみだなぁ」

「では、そういうことなんで失礼します」

 そういって、千尋は明良の待つ家へと急いで戻っていく。


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