第31話 愛しき眠りを・二

 穏やかな沈黙が下りて、どれくらいの時間が流れたのか。雷禅らいぜん琥琅ころうを見下ろした。


「……琥琅、僕はもう大丈夫ですから。そろそろ放してください」

「……」

「琥琅」

「……わかった」


 強く名を呼ばれ、琥琅は渋々腕を放す。もっと抱きしめていたかったのだが、雷禅には逆らえない。


「それと琥琅、自分のへやで寝ましょうね。怪我をした従者を放っておいては駄目でしょう」

「ここ、安全。心配ない」

「駄目です。前に言ったでしょう、こういうのを他の人に見られたらまずいんです」


 琥琅がじとりと見上げると、琥琅の不満を察した雷禅は釘を刺してくる。何故か、やや顔が引きつっている。忙しなく瞼を瞬かせている様子は、どうやって離れさせようかと必死で考えていることの証拠に他ならない。


 しかし、琥琅とてここは引けないのだ。さらわれた雷禅と再会して一日以上が経って、目の前でこうして悩みを打ち明けられ、彼の体温を感じてもいたのに、まだ何か足りない。せめて、もう少しだけ雷禅のそばにいたい。


 このままでは、雷禅は室に帰るよう琥琅に今度はきつく言い渡すだろう。そして琥琅はそれに逆らえない。どうすれば、一緒にいられるだろうか。

 考えていると、琥琅の頭にひらめくものがあった。


「……褒美」

「……は?」

「俺、妖魔殺した。強いのも、弱いのもたくさん。だから、褒美」


 唐突で脈絡のない一言に目を丸くする雷禅に、琥琅は無表情なようでいてその実期待に顔を輝かせ、畳みかけた。


 そう家の邸で琥琅に勉学を教えてくれる老師はよく、琥琅が試験で良い点をとると褒美をくれるのだ。宝石やら硝子玉やらが多いが、たまに珍獣の見世物に連れて行ってくれることもある。琥琅が光りものを好み、猛獣のにおいを恋しがっていることを老師は知っているからだ。


 価値ある労働や商品には、正当な報酬を。それが綜家の商売と労働の鉄則であることは、琥琅も知っている。ならば、妖魔退治にも褒美があっていいはずだ。


「そんな滅茶苦茶な……」

らい

「……………………ああもう、わかりましたよ」


 琥琅が主張する理屈に呆れ返った雷禅だったが、琥琅がふくれて強く名を呼ぶと、視線をさまよわせた。挙句、最後は後頭部をかいて投げやりに言う。諦めを通り越して、考えるのが面倒になった、といったふうである。

 それでも、ただし、と条件を付け足すことは忘れなかった。


「夜が明ける前に、自分の室に戻ってくださいね。もちろん、人に見られないように」

「ん」


 早く起きて出て行けと言外に言われているわけだが、こくんと頷く琥琅はまったく気にならなかった。久しぶりに雷禅と一緒に眠れるのが、ただ嬉しいのだ。頬は緩みっぱなしだった。


 そういえば、と雷禅はふと何かに気づいて寝台のすぐそばの卓子に近づいた。その上に置いてあった巾着から、琥琅の翡翠の腕釧うでわを取り出す。


「朝餉が終わった後に、秀瑛しゅうえい殿たちに返してもらったんです。すぐ貴女に返そうと思ったんですが、遅れてしまいました」


 そう言って、雷禅は琥琅の手のひらに腕釧を置いた。

 灯りがない中の腕釧は、青ざめた月光と夜闇の色に染まっていた。けれど琥琅が手に取りかざしてつぶさに見れば、傷一つないことがわかる。

 琥琅はますます上機嫌になって腕釧を手首にはめてかざし、肌に伝わる冷たく硬い感触と、月光を浴びて変わる色合いを楽しんだ。


 この腕釧は、琥琅が綜家の邸で暮らすようになった頃に雷禅がくれた、琥琅にとって養母の形見の剣と同じくらい大切なものだ。雷禅は無事だったものの琥琅たちの荷の行方は知れず、諦めかけていただけに、傷一つなく戻ってきたことは思いがけない喜びだった。


「さあ、もう寝ますよ、琥琅」

「ん」


 促され、琥琅は寝台に上がって横になった。すぐ雷禅は琥琅に布団をかけ、自分も中に入ってくる。彼がどんな顔をしているのかは、月光が届かない寝台の上の濃い陰影のせいで、琥琅の優れた視力でも定かではない。ただ、互いの体温と息遣いを感じるだけだ。

 不意に、布が擦れる音がした。かと思うと、琥琅の身体を温かなものが包む。


「雷?」


 雷禅に抱き締められているのだと理解して、琥琅は目を丸くした。彼はこういうことが嫌だと常日頃から言い、琥琅が抱きつこうとしても逃げていたのに。一体どうしたのだろうか。


「今回は特別です。………………『御褒美』ですから」


 捻りだす、という表現が相応しい調子で雷禅は言う。だが、暗闇の中でも琥琅と目を合わせないようにしているだろうことは確信できた。布地越しの身体が緊張している。鼓動だって速い。


義父上ちちうえたちには内緒ですよ。……特に義母上ははうえ義叔父上おじうえには、絶対に言わないでください」

「ん」


 雷禅のいつもの、そしてきつい念押しに、琥琅は思わず頷いた。

 仕方ない。あの二人はどちらも、雷禅をからかうのが好きなのだ。何かにつけて雷禅をからかっては、うろたえさせる。人間の世では、つがいになる前の男女が同じ寝台で眠るのはあまり良くないことらしいから、からかいの格好の材料に違いない。


 それから、沈黙が降りていくらした後。琥琅の隣から、健やかな寝息が聞こえてきた。雷禅の身体の強張りも解け、深い眠りに沈んだのが琥琅の全身に感じられる。


 琥琅は規則正しいその音に耳を傾け、ほうと息をついた。

 吐息が触れるどころか、二人を隔てるものは布地だけの距離だ。布団の中は温かく、寝息とかすかに上下する腕の動きが、雷禅の安らかな眠りを琥琅に伝える。


 ―――――雷禅は、生きている。


 そう感じるだけで、琥琅の心が安らぎと幸福に満たされていく。自分の世界は不安に揺らいでも潰れることはなく、今も確かに存在しているのだと確信できる。――――この身体は、冷たくなどない。


 彼がどうして添い寝を許し、琥琅を抱きしめて眠ることにしたのかわからない。彼はまた嘘を言ってる。表情はわからなくても、筋肉の動きや吐息が彼の緊張を表していたのだ。わからないはずがない。これは、褒美ではない。


 でも、雷禅の腕の中にいる今、そんなことはどうでもよかった。今こうして、彼の腕の中にいる。それだけでいいではないか。


 雷禅の腕の中は、ただ温かい。布団の外にも、冷たいものや悪いものといった、二人の穏やかな眠りを邪魔するものは何一つない。

 恐ろしいものは何もないからだろうか。琥琅に冴えた意識に、眠気の霧が次第にたちこめていく。琥琅はそれに抗わず、呼吸を緩やかにした。

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