第7話 愛しき故郷にて・五

 雷禅らいぜんも天幕に下がり、自分の剣を持って外へ出てきた。一応、彼も護身のため剣を持っているのだ。


「……らい、天幕」

「こんなときに天幕の中へ逃げても、無駄でしょう。自分の身を守るくらいはしますから、しっかり守ってください」


 雷禅が戦うつもりであるのを見て琥琅ころうはじとりとねめつけるが、彼はそんなことをのたまわってどこか無理をしたふうに笑う。そんな顔をするのなら、大人しく天幕の中にいればいいのに。そばで戦ってほしいだなんて、琥琅は思っていないのだから。


 琥琅がそう言おうとしたそのとき。ぞわり、と悪寒が琥琅の背筋を這い上った。雷禅も空気に混じる異質なものが膨れ上がったことを感じとったようで、ますます表情を強張らせる。


 場にいた全員が何かの襲撃を確信して、数拍。それらは地響きと共に姿を現した。音をたてて近づいてくる群れの正体に、誰もが絶句する。

 当たり前だ。こんなもの、普通じゃない。


 その群れは、猿のような生き物のものだった。ただし、あくまでも猿のような、だ。赤い目に赤い嘴。小さなものでさえ普通の猿より大きく、最大では熊に匹敵する体躯は、一様にくすんだ黄色だ。

 漂わせているのは、胸をざわつかせる妖気と陰気。――――――――妖魔だ。

 大小合わせて十頭ほどの群れだ。その背後を、幽鬼が十体、いや二十体が追っている。彼らの口元が汚れているのを見れば、妖魔たちが逃げているのも納得できる。


 琥琅の全身の肌が粟立った。こんなもの、琥琅がこの山で過ごした十数年間でも見たことがない。


「琥琅! 待ちなさい!」


 敵襲、と誰かが叫ぶのとほぼ同時に、走りだした琥琅を雷禅が制止しようとする。しかし琥琅は雷禅の声を無視し、群れに突っ込んだ。


 妖魔と幽鬼の群れの突進を食らう直前で跳躍した琥琅は、妖魔の一体の首を剣で貫いた。化け物はびくりと一瞬跳ねただけで、悲鳴をあげずに倒れる。琥琅はその前に素早く剣を抜いて別の幽鬼の背に飛び乗り、やはり延髄を貫いて確実に仕留めた。


 琥琅がそうしているうちに、視界の隅に雷禅が姿を見せた。弱い獲物を化け物が見逃すはずがなく、端のほうにいた何体かが雷禅を狙って群れから離れる。

 雷禅は幽鬼の爪をかわし、腹部を斬りつけた。が、浅かったようで、幽鬼はますます猛るだけだ。琥琅は舌打ちするとそちらに駆けつけ、雷禅を襲おうとしていた一体を斬り捨てた。続いてもう一体、喉首をかき斬って絶命させる。妖魔が琥琅の存在に気づいて襲ってきたが、これは雷禅が今度こそ腹部を深く斬って仕留めた。


 琥琅が秀瑛しゅうえいたちのほうを向くと、彼が部下以上に剣を振るっているからか、彼の周囲は幽鬼の死体がいくつも転がっていた。妖魔も秀瑛を警戒してか、彼と直接戦うのは避けている様子だ。


 雷禅を庇いつつ、率先して妖魔と幽鬼を血の海に沈めてどれほどか。ほとんど仕留め終え、あともう少しと琥琅が辺りを見回したちょうどそのとき。一際高い金属音が鳴り響いた。刃が折れる音。


 はっとしてそちらを見てみれば、群れの首領なのだろう、熊ほどもある大猿が秀瑛に襲いかかっていた。先ほどの高い金属音は、秀瑛の剣が大猿の太い腕によって叩き折られた音に違いない。


 琥琅は駆け、秀瑛を掴み上げようとしている大猿に剣を振るった。それを察知した大猿は、秀瑛の肩を掴む寸前で跳びずさる。図体の割に敏捷な動作だ。


「秀瑛殿! 大丈夫ですか」

「なんとかな。だが……」


 琥琅が秀瑛を庇うように大猿と対峙すれば、その背後で雷禅と秀瑛がやりとりを交わす。秀瑛の声音が沈痛になるのは当然だ。彼の足元には、喉から血を流してぴくりとも動かない男の身体が横たわっている。


 新たな獲物を認めて大猿の目に愉悦が一瞬宿り、すぐ警戒に変わる。琥琅を油断ならない存在だと一瞬で悟ったに違いない。――――それはまったく正しい。

 大猿が突進してくる。琥琅は剣を構え、迎撃態勢を整えた。


「雷、下がってろ――――!」


 琥琅がそう言うか言わないか、琥琅の剣と大猿の牙が澄んだ音をたててぶつかりあった。せめぎあったのはほんの一拍、琥琅は弾くようにして受け流し、もう片方の腕が振るわれる前に後ろへ跳ぶ。大猿の棍棒のような腕が空を切り、音をたてた。


 続いてくる攻撃をかわし、琥琅も反撃を試みる。が、これは爪で受け止められ、またもう片方の前足から攻撃されたので後ろへ退くしかない。

 しかし反応がわずかに遅れたためか、顎を浅く斬られた。その箇所が熱を帯び、一筋血が頬を伝う。


 顎の血を拭いもせず、琥琅は剣を構えて大猿と睨みあう。背後で雷禅が別の妖魔と戦っている音が聞こえてきたが、口惜しいことにそちらには構えない。そんな隙を見せればたちまち食われてしまうと、琥琅の本能と経験は告げている。


 琥琅は呼吸を整えると、疾風の速さで大猿に突進した。大猿の一撃をかわし、腹に一太刀をくれてやる。さらに、赤子のような肌を粟立たせるがったところを逃さず、がむしゃらに振るわれる腕に乗って喉を切り裂いた。

 かすれた絶命の吐息と共に大猿の身体から力が抜け落ち、大地に転がる屍の一つとなった。その前に着地した琥琅は、すぐに雷禅の無事を確かめて安堵する。彼も手が空いた男たちの手を借りて、妖魔を倒したようだ。


 再び争いの後の静寂が辺りを支配した。今度の静けさはまったくの安寧そのもので、違和感がない。熱狂の残滓を孕みはしても、それ以上ではない。琥琅の本能は警戒を呼びかけてこない。


 ようやく完全に危機を脱したと判断し、琥琅は気を緩めた。剣を振って血を払い、仕留めたばかりの大猿の毛皮で脂を拭う。


「琥琅! 無事ですか?」

「平気。雷は?」

「貴女のおかげで、かすり傷程度ですよ。……しかし、これは…………」


 駆け寄ってきた無事を確かめあって表情を緩めるも、雷禅はすぐに顔をゆがませ周囲を見回した。

 天幕はほぼすべて崩れ、見渡す限りに大地は血の海と化していた。転がる死体の大半は妖魔だが、中には男たちも混じっている。戦闘の前までは馬鹿騒ぎをして、眠ろうとしていた者たち。


「こんな妖魔の群れが人を襲うなんて、聞いたことがないですよ……普通はせいぜい二、三匹が襲ってくる程度で…………」

「ああ、異常だなこれは。俺もこんなに色んな種類が入り混じった群れに襲われたことはねえし、そんな話も聞いたことねえぞ」


 近づいてきた秀瑛も首肯し、辺りを見回す。かろうじて残っている明かりに照らされた表情は、戦っている間も失われなかった余裕のない、厳しいものだった。


「なんなんだよ、これ。一体何が起きてるんだよ……………………」


 その呟きは、生き残った全員の心を代弁していた。

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