8:夢の続きを 5

 少女の泣き声が聞こえてきたので、シャムシャはゆっくり目を開けた。

 寝台に横になっている自分のすぐ傍で、ルムアが泣きじゃくっていた。

 シャムシャは驚いた。彼女がこんな風に泣いているところは初めて見た。

「ルムア?」

「シャ……シャムシャさまっ」

 とにかく慰めてやらねばと思い、右手を伸ばしてルムアの髪を撫でた。

 ルムアがマグナエをしていない。肩の上で切り揃えた栗色の髪を晒している。

 珍しいことだ。マグナエを忘れるほど慌てるようなことでもあったのだろうか。

「どうしたルムア、何かあったのか」

 ルムアは首を横に振った。それから「ごめんなさい」と言ってシャムシャの手に縋った。

「ごめんなさい、シャムシャさま。ごめんなさい……っ」

 ルムアの隣から、「陛下」と言って顔を出した者があった。ラシードだ。左頬に湿布を貼り、蒼白い顔をしている。

 シャムシャは眉間に皺を寄せ、彼に対しても「何があった」と訊ねた。言葉は返ってこなかった。

 上半身を起こして周囲を見回した。

 自分の寝室だ。

 ルムアとラシードが自分の寝台の右脇にいる他、部屋の左側、壁の方に椅子を二脚並べて、ライルとナジュムが不機嫌そうな顔で座っている。こうしているとまるでセフィーが来る前に戻ったかのようだ。

「何があったんだ?」

 ライルは顔をしかめて、ナジュムは鼻で笑った。

「ルムアにお訊きくださいよ」

「なんだ、ナジュム、機嫌が悪そうだな」

「人生最大級の馬鹿を見てしまったのでね」

 ルムアがまた「ごめんなさい」と言った。ナジュムが「結構」と突っぱねた。シャムシャはそんな二人を見比べて「ルムアとナジュムで喧嘩になったのか?」と問うた。ナジュムとルムアに無理な依頼をしていたので、最悪二人の仲がこじれることもあろうと思ったのだ。

 今度はライルが「それだけならルムアはここまでうろたえはしないだろうな」と答えた。

 そこで、

「申し訳ございません」

 そう言って床に両手をつき、シャムシャに向かって土下座したのは、ラシードであった。

「は? お前、どうした」

 ルムアが慌てた様子でラシードの隣に座り込む。

「そんなことはなさらないでください」

 ラシードが「でも」と口篭もる。

「ちょっと待て。お前ら、どういう――」

 ルムアが一度、下唇を噛んだ。

 覚悟を決めたようだ。

 彼女は、蒼白い顔と震える声で、告げた。

「シャ……シャムシャ、さま。ごめんなさい。ルムアは――」

「ルムア?」

「ルムアは、その。妊娠、してしまったのです。子供が、できてしまったのです」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 とりあえず寝台をおり、立ち上がったが、その先にどうしたらいいのかは、分からなかった。

「……子供が?」

 ルムアが上目遣いのまま「はい」と頷く。

 呆然としたまま、もう一度室内を見回した。

 その次の瞬間、シャムシャは、すべてを理解した。

「……ラシード」

 ラシードが縮こまった様子で「はい」と応じた。

「ルムアの腹の子の父親はお前か」

「……はい」

「立て」

「は――」

 ラシードが立ち上がったのと同時に、彼の胸倉をつかんで引き寄せた。

 右の拳で思い切り殴り飛ばした。

 ラシードがそのまま後ろに尻餅をつく形で体勢を崩した。

「貴様ァッ!!」

「申し訳ございませんッ」

 「シャムシャさま」と言いつつ、ルムアが床に座り込んだままのラシードの首に腕を回した。そうして彼の頭を抱き寄せる彼女の姿は、美しかった。

「これ以上このひとを責めないでください。ルムアがいけないんです。考えなしに誘ったから……っ」

 ラシードが「ルムア」と呟いて黙った。

 シャムシャは頭を抱えてしまった。

「何だこれは……どういうことだ……何がどうなってこういうことになった……」

「そうなるよな。俺もそうなった」

「僕はこの急展開に絶望した」

 ラシードの胸倉をつかみ、ルムアから強引に引き剥がして、「おい、ラシード」と唸る。

「貴様、十も年下の娘を孕ませた挙句こうして庇ってもらって、今どんな気分だ」

「自分の情けなさを痛感しております」

「もう一発殴らせろ」

 ラシードは「どうぞ」と答えたが、ライルが「俺がもうすでに二発殴り三発蹴っている」と報告してくれたのでやめた。

「ナジュム……、これは、お前の機嫌が悪くなるのは仕方がないと思う」

「でしょう!? 陛下にならご理解いただけると思っておりましたよっ」

 ルムアがまた「ごめんなさい」と言って鼻をすすった。シャムシャは溜息をついた。

「ルムア」

「はい」

「お前、その、ろくでなしのへたれが好きなのか?」

 頬に流れ落ちる涙をそのままに、ルムアは「はい」と答えた。

「ルムアはずっと前からラシード将軍が大好きです」

 ルムアが、どこにでもいる普通の少女だった。

 見たことのないルムアの姿だった。

「ならなぜ泣く。めでたいことだろう」

「ですが、シャムシャさま、ルムアは――」

「立てラシード」

 ルムアの言葉を遮って命じると、ラシードはルムアを優しく押して距離を置いてから「はい」と立ち上がった。

「お前、分かっているな」

「はい、どのようなお言葉も賜ります」

「そうか。では、命じる」

 これが、ルムアに下す、最後の命令だ。

「今すぐルムアをメフラザーディー家の本宅に連れ帰って休ませること。子が生まれるまで家から出さずに大事にし、その後は一生涯をかけてルムアを慈しみ、子を可愛がって育てること」

 ラシードが目を丸くした。やがて嬉しそうに笑って「了解しました」と答えた。

 ルムアは笑わなかった。不安げな声で「シャムシャさま」と呟いた。

「いいか、ルムアもだ。これは命令だ、聞くように。お前はもうこんなところにいてはいけない」

 ルムアの表情が引きつった。シャムシャは「なぜそんな顔をする」と苦笑した。

「い……嫌ですシャムシャさま」

「だめだ。すぐに宮殿を出ていけ」

「ごめんなさい、シャムシャさま、それだけは嫌です」

「だめだと言っているだろう。今のお前に必要なのは静かな環境だ」

「シャムシャさまっ」

 ルムアはシャムシャの方へ手を伸ばそうとした。シャムシャはそれを許さなかった。

「子が無事に生まれ育つまでは宮殿に出入りすることを一切禁ずる!」

 ラシードに「連れていけ」と命じた。彼は一瞬ためらったようだが、シャムシャが「むりやりにでも、引きずってでも連れていけ」と言い直したのでルムアを抱き上げた。

 ルムアが「いやっ」と首を横に振る。涙の雫が宙に飛ぶ。

「幸せに、なれ」

「ルムアの幸せはシャムシャさまとともにることです!」

 「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きじゃくる彼女を、本当は、抱き締めてあげたかった。だが、今自分がそれをしてはならない。彼女を守りたかった。たとえそれが彼女の意に反することであったとしてもだ。

 ラシードがルムアを抱えたまま「失礼致します」と言って頭を下げた。シャムシャは「ルムアが落ち着くまでお前も出仕するな」と告げ、二人に向かって手を振った。

「ルムア」

 ただ、本当に、

「十五年間、ありがとう」

 彼女が、幸せになれますように。

 自分は無力だ。

 けれど、もしも自分に、本当に、蒼い髪の持ち主として、太陽の恵みを誰かに授けられる力があるのだとしたら、

「お前とその子に、祝福あれ」

 ルムアが言葉を失くした。ただただ声を上げてラシードに縋った。ラシードはそんな彼女を抱えて部屋を出た。

 それでいいと思った。

「――よかったのか? これでお前は妹兼世話係を失うわけだが」

 ライルが言うので、シャムシャは「心配するな、お前が忙しくなっただけだ」と答えた。「そうか……そうだな」とライルがうな垂れた。

 今度はナジュムが「よろしかったんですか?」と問うてきた。

 シャムシャは、まだどうも胃の辺りにむかつきを感じたので寝台に戻りつつ、「うーん」と唸った。

「仕方があるまい。ルムアにラシードの子を何人か産んでもらって白将軍にならない二番目、三番目の男児を譲り受けよう。私が私なので別に女児でも構わんが、私は最近なぜアルヤ王国が王を男児に限定してきたのか痛感しているのでな……国が落ち着くまでは男がよろしかろう」

「僕の苦悩と葛藤はいくらでお買いになられます?」

「す……すまない。では、お前が結婚したら、宮殿の敷地内に王族のための予算で宰相官邸を建てるということで……」

 「やったー」と言ったナジュムの隣で、ライルが「何の話だ?」と首を傾げた。

 扉の向こうから声が聞こえてきた。

「陛下がお起きになられましたかね」

 最近すっかり顔馴染みとなってしまった老医師のものだ。

 相手が老人であることを考え、ナジュムとライルに向かって「開けてやってくれ」と言ったが、外にもそれが聞こえたのか、扉が外から開けられた。馴染みの医師と白軍の若い兵士が顔を見せた。老医師が兵士に向かって「案内ご苦労」と告げる。兵士が敬礼し、「失礼します」と言って去る。

「来てくれていたのか? いつもすまないな」

「いやいや、こんな老いぼれでもいまだ活用していただけるということに感謝しておりまするぞ」

 「して」と歌うように語りながら彼が歩み寄ってくる。

「先ほど廊下でラシード将軍とルムア君と擦れ違ったが、いったい何がござったのかね。あのように泣いては腹の子にもようございますまいに。このような素晴らしき日にああも泣かんでもとこのじいは思っておりまする」

「ああ、いとまを出したのだ。ここで働くのは体に良くないと思ってな」

「おや、なるほど。では他におなごを雇わねばなりませぬなぁ。今度はルムア君のような若い娘ではなく子慣れしたどこぞの女房を召し上げたらよろしかろう。良き乳母も探さねばなりますまい」

 シャムシャは彼の言葉に首を傾げた。

「おやおや、これまたまったくお気づきになられておらんのかね。不憫な御子だの」

「……は? どういう――」

「ご懐妊ですぞ」

 もう、自分自身のために夢を見ることはないと思っていた。

「……え? 誰が」

「陛下が、でございましょうに」

 シャムシャは、自分の腹部に触れ、黙った。

「陛下は来年の春に御子をお生みになるお体でいらっしゃる。セフィーディア様の御子ではございますまいか?」

 しばらくその言葉の意味を考えた。

 心当たりはあり過ぎた。

「……ライル、ナジュム」

「ハイ」

「今すぐルムアを呼び戻せ! これを伝えてからさがらせるぞ!」

 二人が珍しく素直に「了解!」と言って部屋を出た。老いた医師はそれを見送り、楽しそうに「ほっほっほ」と笑った。

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