6:知ってしまった真実 2

 気がついたら、寝台の上にいた。

「セフィーっ」

 最初に視界に入ってきたのはルムアの顔だった。セフィーはほっとして息を吐いた。

「ルムアぁ……熱いよぅ……」

 ルムアが眉間に皺を寄せ、「そりゃそうでしょうよ」と言いながらセフィーの頬に何かを押しつける。冷たくて気持ちがいい。おそらく革の袋に冷水を入れたものだろう。

 ルムアの隣に二人分、新たな顔が現れた。一人は、今にも泣き出しそうな顔をしたシャムシャだ。もう一人は、白い顎ひげを生やした、いつかの医者である。

「あれほど太陽の下に留まってはいけないと言ったのに」

 セフィーは納得した。自分は太陽の光に焼かれて倒れたのだ。ルムアが頬を冷やしてくれているのは火傷を負っているからかもしれない。

 体の下の方に目をやった。

 いつの間にか着替えさせられていた。男物の白い平民服だ。手首から先が両手とも包帯で覆われてしまっている。花嫁衣裳が顔と手しか出ないつくりになっていたことを思い出した。

「ごめんな、セフィー、もっと早く気づけばよかった」

 シャムシャが苦しげな声で言う。それにセフィーの方が申し訳なくなる。

「言ってくれれば、すぐに下がらせたのに」

 自分が普通の人間だったら、彼女にこんな顔をさせることもなかっただろう。そう思うと悲しい。

 彼女はこの国のすべてを手に入れることのできる太陽だ。それなのに、なぜ、わざわざこんな欠陥だらけの自分を選んだのだろう。セフィーには分からなかった。

「ルムアくんにも言ったがね」

 医者がセフィーの目を覗き込みつつ言う。

「両手は毎日朝晩に包帯を替えて薬を塗りなさい。特に手の甲はまったく酷いことになっているから触るのでないぞ。顔は軽く済んだが、冷やして同じ薬を使うこと。あと、熱がある、安静に」

 「安静に、というのは、厠以外の用事で布団から出るな、という意味だ」と彼は言った。セフィーはなるほどと頷いた。安静という言葉の意味を初めて知る。斬られた後にもそう言われていたにもかかわらず出歩いてしまい傷口が開いて大変な思いをした。

 シャムシャが医者の方を向いた。

「とりあえず私は広間に出向こうと思う。このままセフィーの傍についていてやってくれないか」

 医者が「御意に」とこうべを垂れた。

「ルムアも。こちらの方はもういい、ここにいてくれ」

「かしこまりましてよーっ」

 「出掛けるの」と訊ねた。セフィーとしては深い意味はないつもりだったが、シャムシャは眉尻を垂れて「すまない」と応じた。

「私も傍にいてやりたいが、一応主役だからな。やるべきことはそれなりにこなしておかないと、後から何を言われるか分からないし」

 一瞬、何の話か分からなかった。少しの間考えた。

 慌てて上半身を起こした。

 結婚式は三日三晩続くのだ。

「まだ終わってないんだ」

 シャムシャとルムアの、「気にするな」「気にしちゃだめです」と言う声が重なった。

「動かなくていい、ここで寝ていろ」

「でも――」

「問題ない、もともとお前には大講堂での式典と民への顔見せだけ出ればいいような予定を組んでいた。あとは親族の女たちとのやり取りだ、フォルザーニー一門がどうにかしてくれるだろう」

「大丈夫!」

 これ以上迷惑をかけたくない。

 けれどシャムシャは頷かなかった。肩をすくめて息を吐いた。

「ここにいろ。これは、命令だ」

 セフィーは視線を下に落とした。

 自分はまだ役に立てない。

「大丈夫、なのに」

 シャムシャが「あとは頼んだぞ」と言い残して出ていく。今の自分には見送ることすらできない。

 無力だ。



 市場は今日も賑わっていた。

 遠い昔の王が整備したこの市場には屋根がある。したがって人々は昼間でもアルヤ高原の強い太陽に焼かれることなく買い物を楽しむことができる。

 セフィーは、ここに来るたび、エスファーナに集う人々は老若男女貴賎を問わず王の恩恵を受けているのだ、と思う。

 ――あと他に何がいるかなぁ。

 色とりどりの小物を入れた籠を両腕で抱えている母が、隣で、そうねえ、と応じた。

 ――向こうの衣装は向こうで用意するし、料理や場の支度にいるものは日が近くなったら女中たちがしてくれるから、後は……、そうね、お前をどうにかしようかしら。

 ぎょっとして振り向いた。視界の端に自分の長い赤毛の端が見えた。

 ――ぼくを?

 ――ええ。まずは髪を切らねば。あと、衣装合わせももう一度。そうだわ、式の練習もしないと。

 ――ぼくの方は別にいいじゃないか、主役は向こうなんだからさ。

 ――まあ、そうだけれど。

 母が溜息をついた。

 ――母さん、心配だわ。

 ――何がさ。

 ――母さんが嫁いできた時、お父様は今のお前と同じ年だったけれど、もっとしっかりしておいででしたよ。それに比べてお前は、十七にもなって母さんがいなければ自分の花嫁のために首飾り一つ見立ててやれない。相手のお嬢さんが不安になるんじゃないかしら。

 二人の脇をたくさんの人が通り過ぎていく。

 ――ああ、お前ももうお嫁を貰う年になったのね。あとは孫を待つばかりだわ。お前のように健康な男の子を授かればいいのだけど。

 何かがおかしい。

 いつもの市場、いつもの会話、いつもの、何もかもがふだんどおりのことであるはずなのに、何かが、噛み合わない。

 胸の中が掻きむしられる。言いようのない不安に襲われる。

 自分は何をそんなに恐れているのだろう。怖いことなど何もないはずだ。自分には明るい未来が待っているはずだ。

 ――母さん、本当に、いいのかな。ぼく、なんだかよく分からないけど、不安だよ。おかしいなぁ、結婚が決まった時は、人生ってこんなに楽しいものだったっけ、って思ったくらいだったんだけど……。何だろう、何がおかしいんだと思う? 母さ――

 ところが、だった。

 振り向いた時、そこに彼女はいなかった。

 ――あれ? 母さん? 母――

 何か小さな硬いものがこめかみにぶつかった。

 何かと思って下を向いた。足元に小石が転がっていた。

 小石の飛んできた方を確認しようと思い前を見た。

 背筋が凍りつくのを感じた。

 今まで市場を行き交っていた人々が立ち止まり、自分を睨むように見ていた。

 ――出てけ。

 小さなこどもが言う。

 ――エスファーナから、アルヤ王国から出てけよ、化け物。

 おとなも言う。

 ――お前みたいな化け物が結婚できるわけないだろう?

 ――化け物のくせに生意気だ。

 いったい何を言っているのだろうと思った。自分が化け物だなどと――

 嫌な予感がした。

 おそるおそる自分の手を見た。

 真っ白だった。

 慌てて自分の長い髪をつかんだ。そこにあったのは思ったとおりの赤毛ではなく老人よりも白い髪だった。

 辺りを見回す。

 みんなが、自分を、汚いもの、忌まわしいものを見る目で見ている。守ってくれるはずの母の姿はない。

 逃げなければと思った。

 でも、どこへだろう。

 足が、動かなかった。動かすことができなかった。

 これではどこにも逃げられない。

 どうしたら――

「セフィー?」

 突然、声が聞こえてきた。

「セフィー、大丈夫か?」

 誰かの手が頬に触れた。

 そのぬくもりに縋りたくて手を伸ばした。

 気がついたら、目の前に蒼い瞳があった。

「……あ……」

「起きたか?」

 そこは市場ではなかった。仲睦まじい国王夫妻のために宮殿に勤める者たちが用意してくれた広い寝室だった。目の前にいるのも、捜していた母ではなく、この国の王であるシャムシャだ。

「大丈夫か? うなされていたぞ」

 「顔色が良くないようだ」と心配そうに言うので、セフィーは上半身を起こして苦笑してみせた。

「大丈夫……、ちょっと、夢を、見て」

 自分の手を見た。包帯を巻かれているせいで肌の色は分からない。

「どんな夢?」

 問われて、目を伏せる。

「途中までは……すごく、楽しかっ、た。けど」

 その楽しさは、あまりにも、残酷だ。

「途中から――忘れちゃった。なんだか、嫌な夢だったみたい」

 シャムシャが改めて腕を伸ばしてきた。それから、今度は体ごとこちらに寄せ、もたれかかってきた。体重とぬくもりが、今度はなぜか重苦しく感じられた。

「嫌な夢など忘れてしまえ」

 シャムシャの指先が白い毛先を弄ぶ。

「まったく、お前が寝ている間に新婚初夜は終わってしまったぞ?」

 シャムシャの声に責めるような響きを感じたので、とりあえず「ごめんなさい」と謝った。シャムシャも苦笑して「謝ることはない」と言った。

「そう言えば、式典……途中……」

「全部終わった。大丈夫だ」

 結局、自分は何もできなかったのだ。

「もう何も考えるな」

 シャムシャが唇に唇を押しつけてきた。そうされると、セフィーにはもう何も言えなかった。求められている――それがすべてだ。簡単だ、応じてやればいい。数ヵ月前までそうして食っていたのだ、何にも難しいことではない。

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