5:笑ってください 3

 周りを砂漠に囲まれているといっても、アルヤ王国は水源が豊かだ。高山地帯に降る雪が地下水となって国じゅうを巡っている。

 砂漠に咲く一輪の薔薇と謳われた王都エスファーナにも川が流れている。アルヤ語で奇跡を意味する大河ザーヤンド――エスファーナに繁栄をもたらした存在だ。

 そのエスファーナの中央、アルヤ王国の富と権力の象徴である蒼宮殿には、計算し尽くされて造られた塔と庭園がある。そしてその間を縫うように小川が流れている。この水もザーヤンドから引いてきたものだ。

 宮殿の贅沢な水、と言えば、宮殿を外から眺める者たちはその水路のことをいう。しかし宮殿の内部に勤めている者たちは別のものを思い浮かべた。

 王族は毎日入浴している。

 シャムシャは、ぬるめに温められた湯から体を起こして、すでに乾き始めている石畳に足を置いた。

 薄い更紗の掛けられた大きな窓から、まだ高い日の光が差し込んできている。アルヤ高原の強い太陽は今も外を焼いているようだが、布一枚隔てたここには光は柔らかく届いた。また逆に、外であればすぐに蒸発し乾燥する空気も、ここでは優しい湿気に満ち満ちている。

 一般民衆が使う大衆浴場は蒸し風呂だ。しかもそれを利用できるのもある程度の生活を送れている者たちの話で、さらに下層の人々はザーヤンドで水浴びをしているらしい。毎日湯に浸かる王族の習慣は贅沢としか言い様がなかった。だが宮殿から出たことのないシャムシャが知る由はない。

 脱衣のための間に水浸しのまま上がった。

 脱衣室の壁に大きな鏡が掛けられている。

 ふと思い立って鏡の前に立った。

 シャムシャは鏡が嫌いだった。

 もともと女であることが好きでなかった。周囲の人間、主に兄たちはシャムシャを可愛いとおだてて着飾らせたが――そしてそれはけして嫌なことではなかったが、女は可愛いだけでなければならない、剣も馬も知らぬまま育ち年頃になったら嫁いで夫に可愛がられなければならない、と思うたび、憂鬱な気持ちになった。

 早熟だったシャムシャは十二歳になる少し前に初潮を迎えた。その日シャムシャはもう女だからと言われ兄たちやライルと引き離された。兄たちは周囲の目も顧みず声を掛けてきて苛立つシャムシャをなだめてくれたが、かと言ってシャムシャを外に出してくれるわけでもなかった。

 そして十三歳の日、蒼い髪の王子が女であってはいけない、ということを、知る。

 アルヤ民族の長い歴史の中に女王はただ一人としていない。

 男性名を名乗らされるようになって以来、シャムシャは完全に鏡を見なくなった。本当に男だったらまだ楽だったかもしれないと思うようになっていた。

 鏡を見ないでいる間に、見た目まで男のようになっているのではないか、と、思っていた。

 目の前の鏡に映っていたのは、思いの外美しい娘だった。

 大きな二重の目にはまだ幼さが残ってはいるが、なだらかな肩や柔らかく膨らんだ乳房は妙齢の女性のそれだ。端を吊り上げた唇はやや厚く、濡れた蒼色の長い髪が張り付く頬や肩も官能的だ。

「……ふぅん……」

 シャムシャは、子猫を捕まえて抱える時のように優しく、自分の左胸をつかんでみた。溢れる若さが弾力となって伝わる。

 足音が聞こえてきた。ややして戸が開いた。入ってきたのは手拭いと着替えを抱えたルムアだ。

 ルムアは「あら」と笑みを燈した。

「どうなさいましたの? 珍しい」

「なあ、ルムア」

 鏡の中を絡みつくような目で見つめながら腰に手を当てる。

「あのクソ兄貴は私に色気がないと言ったが、こうして見ると私もなかなかではないか?」

 ルムアは、着物を棚に置いて手拭いだけをつかむと、駆け寄ってきてシャムシャの背を拭い始めた。彼女はいつも丁寧だ。特に長く蒼い髪の手入れには時間を割く。水気を拭い、梳き、香油を塗り、また梳く。

「当たり前でしょう、ルムアのシャムシャ姫さま。貴女さまより美しい娘などこのアルヤ王国にはおりません」

 満足して、笑った。

「では、セフィーと私であれば、どちらが美しい」

「いい勝負ですね。でも、セフィーは男の子ですから、シャムシャさまの敵ではございません。シャムシャさまが一番のお姫様であることに変わりはございませんのよ」

「そう」

 目を細めて、呟く。

「女も悪くないな」

 「本当ですか」と、シャムシャの長い髪を撫でながら言う。

「シャムシャさまがその気になられた時のためにルムアはいろいろご用意しておいたですよ」

「その気になった時? 何を」

「思い立ったが吉日です、今日はこれからルムアにいろいろさせていただけませんか? ご用意しておいたいろいろをご覧に入れたいです」

 シャムシャは「はぁ」と頷いた。ルムアは嬉しそうに笑った。


 シャムシャは走った。逸る気持ちを抑えることができなかった。抑えるつもりもなかった。ルムアの「そのご衣裳で走らないでくださいませ!」と怒鳴る声が遠くに聞こえた。

 シャムシャが走ると、一歩進むごとに幾重にも重ねられた腕輪がぶつかり合って鳴った。シャムシャが足を休めないので、それが今、一定の調子で鳴り続けている。今頭上にある蒼い空とあいまって、その音楽はシャムシャに神々しささえ思わせた。

 早く誰かに見てほしかった。

 誰かに――違う。

 北の塔の端にある庭、背の低い蘇鉄と蘇鉄の太い葉の生え際に棒を渡して、セフィーが布団を干していた。

「セフィー!」

 名を呼ぶと彼は振り向いた。彼の紅い瞳が自分の姿を捉えた。

 今、彼の目に、自分はどんな風に映っているのだろう。

「こっちに来い!」

「へっ、あ、はい」

 言われるがまま屋根の下にやってくる。けれどその足取りはどこか戸惑っているように見えた。

 やがて日陰に入り真正面から相対した。

 彼はしばらくの間黙ってシャムシャを見つめていた。ややして、呟くように「陛下?」と問い掛けてきた。誰か分からない、ということは、一応、なさそうだ。シャムシャは一度ほっとして息を吐いた。だがよく考えればこの世には自分の他に蒼い髪の持ち主はない。そんなことで識別されたのではたまらない。

 長い蒼色の髪は、上半分は後頭部でひとつの団子の形にまとめており、針金のついた白く小さな造花をいくつも挿されている。そしてその上から、頭や肩を覆うように、金糸で模様を入れた薄蒼の透ける更紗を纏っている。

 耳には、大きな蒼い石を使った金細工の耳飾りをさげている。首にも、耳飾りと同じ蒼い石をいくつも使った首飾りをつけている。手首では華奢な金の腕輪を幾重にも重ねていた。

 着ているのは、裾の長いアルヤ人女性の民族衣装だ。蒼を基調に白と金の染めが入った絹の服を着て、豪奢な金の帯を締めて端を垂らしている。

 白く塗られた頬には軽く頬紅をはたかれ、唇にも紅を刷いている。目元にも大きな目を強調するように線を引いていた。

 セフィーはきょとんとした目でシャムシャを眺めていた。

 シャムシャは、やってしまったのかもしれない、と思った。これは、失敗だったのではないか。舞い上がってしまったことを今になって後悔した。蒼い衣装の裾を握った。

「似合わない、か?」

 うつむきつつ訊ねた。こうして恥らう自分がまた恥ずかしい。自分らしくない気がしてきた。

 だが、

「ごめんなさい、びっくりしちゃって」

 おそるおそる顔を上げると、セフィーは珍しく頬を赤くしていた。

「あんまりにも、お美しくて……、何て申し上げたらいいのか、分かんなくなっちゃいました……」

 ただそれだけの言葉がとてつもなく嬉しい。

 セフィーに抱きついた。背の高さが同じくらいなので彼の胸に顔を埋めることはできなかったが、その耳に自分の耳と重ねるようにして頭に頭を寄せると、とても心地が良かった。

「陛下?」

「シャムシャと呼べと言っただろう」

 でも、本当は、知っていたのだ。セフィーなら今の自分の姿を良く言ってくれると分かっていたのだ。

 自分は卑怯だ。幼くて愚かな人間だ。

 けれど、セフィーは、それをそのまま受け止めてくれる。ありのままに応えてくれる。

 一度体を離して、セフィーの顔を見た。彼は相変わらず赤い頬で自分を見ていた。

 赤くなっている頬に触れた。

 セフィーは黙って受け入れつつも、戸惑った目でシャムシャの手の動きを追っていた。それが何とも可愛らしい。

「本当に、お人形さんみたいです」

 セフィーの手が持ち上がり、シャムシャの手の甲に触れた。

「バカ。『蒼き太陽』は神聖不可侵な存在なんだぞ、美しいとか人形みたいだとか軽々しく言うな」

「あ。ごめんなさい」

 セフィーの手が離れる。

「最近『蒼き太陽』が何なのかよく分かんなくなっちゃって……バカだからかな……。なんか、女の人が綺麗なのに綺麗って言わないのはもったいないって思っちゃって……えと……なんか、えと、ぼくもそういうところは一応アルヤ男なんですよ」

 その手をつかむ。

「冗談だ。それでいい」

 「意地悪を言ってごめんな」と囁く。

「それがいいんだ」

 彼は分かっていないのだ。

 分かっていないと、分かっているのに、

「お前……、私のことは好きか?」

 胸が高鳴る。頬が熱くなる。

 セフィーはにこりと微笑み、いとも簡単に頷いてみせた。

「はい、大好きです」

 分かっている。

 セフィーは何も分かっていない。

 何も考えず、ただ、好きか嫌いかと問われれば好きなのでそう答えた。セフィーにとっては、ただ、それだけのことだ。それに深い意味などないのだ。

 分かっているのに、嬉しい。

 また、彼に抱きついた。

「……シャムシャ?」

 分かっている。そう呼べと言ったから、そう呼んだだけのことだ。そこにセフィーの感情はないだろう。

 それでもいい。

 こんな自分を、人は笑うだろうか。

 笑いたければ笑うがいい。他人がどう思おうと自分の知ったところではない。

 セフィーはきっと、笑わないだろう。

 それだけで、いい。

「セフィー……」

 彼の笑顔を一生独占していたい。

「お前、私と結婚しないか?」

 ただ、一生、自分の隣で、こうして笑っていてさえすればいい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る