3:劣等感に劣等感を重ねる 2

 思わぬ落とし穴にはまった。

 セフィーは半泣きで寝台に身を投げた。

 今日は一日本当に仕事らしい仕事はしなかった。ルムアにくっついて一日の流れを説明してもらっただけだ。ここでは本当に何も強要されないらしい。母のために家事をしていた日々の方がよほどきつかったと思う。

 しかも、驚いたことに、セフィーを見ても誰一人として騒がない。ここで働いている人々は皆セフィーをちらりと一瞥するだけで何も言わなかった。これでは自分がそんなにおかしいものではないのかと思ってしまう。自分が何者なのか忘れそうだ。

 ナジュムは昼になってから起き出してきた。けれどいつの間にか姿をくらましてしまい今も何をしているのか分からない。ルムアが言うにはいつもこんな感じらしい。セフィーがいようがいるまいが関係ないのだ。それが逆にセフィーにとってはとてもありがたかった。特別なことはしないでほしいのだ。

 ルムアは変わらず積極的に声を掛けてきてくれる。セフィーの方も次第に彼女の顔を見て話を聞くことができるようになってきた。ヤサーラやヤミーナとしていたようにすればいいのだ、と思うと、気持ちがだいぶ楽になってきた。

 ライルだけは少し難しそうな人だと思った。朝から挨拶をしろと怒られ、昼には話をしている時にはこっちを見ろと怒られ、さっきには言いたいことがあるなら言えと怒られてしまった。しかしルムアが言うには彼は誰に対してもこうらしい。そう言われてみるとむしろ同じ人間として生活することを前提に叱ってくれている気もしてくる。それはそれでセフィーにとっては嬉しいことでもあった。

 問題は食事だ。

 セフィーには食事の作法が分からない。

 朝昼晩と三回も食事を出してもらったが、セフィーにはいずれも食べ方が分からなかった。

 ライル、ナジュム、ルムアの三人は、宮殿内でも特別な地位にあるらしい。セフィーには詳しい仕組みは分からないが、とにかく、この三人に配給される食事は宮廷料理人が腕を奮って作る王族のための料理であった。ライルとルムア、ナジュムの三人はおこぼれだと文句をつけるが、セフィーは、宮殿内では猫も自分より良いものを食べているのではないかと思う。

 庶民の料理さえ食べられない日もあったセフィーだ。宮廷で出されるものの食べ方は知らない。

 作法など分からなくても、と言うのは、ある程度教養のある人の言葉に違いない。いつもどおり手で食べてもいいのか、添えられているさじや小刀はどうやって使ったらいいのか、短い二本の棒は何なのか。アルヤの伝統の玻璃の器や東方伝来の白磁器は割ってしまうのではないかと思うと手が震えて使えない。飲み物も、だ。井戸から汲んだままの少し濁った水を欠けた碗で飲んでいたセフィーでは、華奢な杯に注がれた葡萄酒はもちろん、名前を言われても何のことか分からない茶や果汁も口にするのは恐ろしい。

 それに、何より、自分が触れたら食器が汚れる気がする。自分で洗うわけではないのだ。

 腹が鳴った。このままでは自分は餓死するかもしれない。

 餓死といえば、母は食事を取れているだろうか。

 自分がこのまま金を持っていかず、買い物も料理もしなかったら、彼女はどうなってしまうのだろう。自分が餓死するのは仕方がないが、彼女をそんな目にあわせるわけにはいかない。さて、いったいどうしたものか。

 戸を叩く音が聞こえてきた。

 不安と心配のあまり滲み出てきた涙を飲み込んで、寝台から身を起こした。

「はい」

「俺だ」

 ライルの声だった。

「入ってもいいか?」

 断る理由も資格もない。セフィーはこわごわ「どうぞ」と答えた。

 戸が開けられた次の時、セフィーは目を丸くした。

「お前、腹減ってるだろ」

 ライルは右手に盆を持っていた。盆の上にはおいしそうな香りを放つかゆのようなものと茶瓶、湯飲みがのっていた。

「どうして」

 ちょうどよく腹が鳴った。「それ見ろ」とライルが言う。

「ちゃんと食わないからそんななんだ。そんな、細くて小さくて、男として恥ずかしくないのか?」

 残念ながらセフィーがそう思ったことはない。セフィーは自分を男とか女とかという枠の中で考えたことがなかった。それは人間に適用される枠組みだからだ。

 セフィーがどう答えようか悩んでいると、溜息が聞こえてきた。

「悪かった」

 なぜ謝られるのだろう。驚いて顔を上げる。

 ライルは眉間に皺を寄せ、盆を持っていない方の手で頭を掻いていた。

「今のはきつかったな。だが、俺はこんなだからお前も言い返していいんだぞ」

 何か勘違いされたようだ。しかし何がどう勘違いされているのかうまくつかむことができない。第一訂正を口にするのはおこがましいことだ。とりあえず首を横に振った。

 ライルはまた「口に出していいんだぞ」と言った。

「食える時は食っておけ」

 盆がセフィーの方に差し出された。いい匂いがした。受け取りつつ、セフィーは口元をほころばせた。感激のあまり喉が詰まる。「ありがとうございます」と言う声が震える。

「食べても、いい、ですか?」

「ああ」

 かゆの器の傍にさじが添えられていた。それだったら使い方も分かる。

 さじをつかんだ。

 夢中で口に運んだ。とにかく腹を満たしたかった。味のことはあまり考えられなかった。ただおいしいと思った。あまりにもおいしくて涙が溢れた。

「やっぱり腹が減ってたんだな」

 ライルはいつの間にか隣に座っていた。優しく苦笑してセフィーを眺めていた。

 半分ほども平らげた辺りで、セフィーは一度さじを止めてライルの方を見た。

「いいぞ、気にしないで食え」

「はあ……」

 次は落ち着いてさじを運んだ。

 やっと味が分かった。卵と塩の味がした。卵はご馳走だ。

「どうして食わなかったんだ?」

 ライルが静かに、でもどこか責めるように言う。

「そんなに腹を空かして。十七の頃の俺なんか、もっとやたらと食ってたぞ。今でもシャムシャの三倍は食うが」

 説明を求められている。

 セフィーはまた顔を上げた。

 ライルの蒼い目が自分をまっすぐ見ている。

 ライルに何かを述べることは恐ろしかったが、この場合は何も言わないでいる方が怒られるのだ。

「分から、なかったん、です」

 ライルが首を傾げて、「何が?」と訊ねてくる。「食べ方が、です」と補足する。途端、ライルが顔をしかめる。

「それは、何か? 今日の食事に、皮を剥かねば食えないものとか、食える部分と食えない部分があるものとか、そういうものはなかったはずだが」

「あ、いえ……」

 そうだったのか、とは、言えない。

「それとも、食べ方の順番とか、そういう行儀作法の話か?」

「それも、あります」

「それ、も? どういうことだ」

 それに不穏な響きを感じ取り、セフィーはついうつむいて「ごめんなさい」と言ってしまった。ライルが「謝るところじゃない」と声を大きくした。

「何がどう分からないんだ」

 怖い。けれど逃げられない。どうにか説明しないといけない――そう思うと頭が混乱してくる。何を言ったらいいのか余計に分からなくなってくる。

「……おい、大丈夫か?」

 どうしたらいいのか分からない。誰かに助けてほしい。けれどセフィーは知っている。自分は誰かに助けてもらえるような存在ではない。

「顔色が悪い」

 それは、いつものことだ。自分はいつでも蒼白い。

 自分は人間ではないのだ。

 話すことができない。

 息が苦しくなる。顔を上げられない。吐きそうだ。

 怖い。どうしたらいいのか分からない。

 もう放っておいてほしい。

「セフィー」

 腕をつかまれた。セフィーは「ひっ」と喉を詰まらせた。肩を縮ませて目を閉じる。

 ただ恐ろしかった。痛いことや苦しいことはしないでほしかった。何もしないでほしかった。

 陶器の割れる音がした。セフィーの膝の上にのっていた盆が床に落ち、かゆの入っていた深皿が砕けたのだ。

 叫んでしまうところだった。

 慌てて寝台から降りた。床に膝をついて破片を掻き集めた。割ってしまった、片づけなければ叱られる――その他は何も考えられなかった。

「馬鹿っ、やめろ!」

 割ってしまった。こんなに高価なものを、だ。一生かけても償えないだろう。この部屋も与えられたものだ。床に染みがついてしまったらどうしよう。早く片づけないといけない。早く、早く――

 右の手首をつかまれた。

 右の手の内にまとめた破片が床に散った。

 うち二つだけは手の平にふかぶかと突き刺さっていて落ちなかった。

「ちょっと待ってろ、そのままだ、いいか、そのまま待つんだぞ」

 声を掛けられた。だがそれが言葉として頭に入らない。

「今医者を――やめろ、何す――」

 左手で引き抜いた。

 桃色の肉が見えた。

 やがて赤い液体が盛り上がってきた。初めそれはぷつぷつと丸い粒を作っていたが、そのうち他の粒と溶け合い、手に留まっていられなくなって床に滴っていった。

 セフィーは恍惚感を覚えた。

 自分にも血が流れている。

「馬鹿!」

 激しい怒鳴り声にからだをすくませた。意識が現実に引き戻された。

「ごめんなさい」

 高価な食器を割ってしまった。床も汚してしまった。

 けれどライルは「触るなと言っただろう」と言った。

「今医者を呼んでくる。一歩でも動いたら殴るからな」

「医者?」

 セフィーはまたもや血の気が引いていくのを感じた。慌てて首を横に振った。

 ライルが苛立った声で「どうして」と咎めるように訊ねる。

「医者だけは……、お医者様だけはゆるしてください」

「意味が分からん。こんな傷を作っておいて何を言っているんだ」

「怖い、です」

 体を見られることが、白いことが見つかってしまうことが、人間の体を知り尽くしている医者にまでこれは人間ではないと断言されてしまうことが、怖い。

「お金も、かかるし……ゆるしてください」

 まぶたをきつく閉ざしてうつむいた。もう限界だ。

 少ししてから、溜息をつかれた。

「……なら、俺が、手当てをするから。薬とか包帯とか持ってくるから、待ってろ」

 その言葉は、優しかった。

 ライルの手が、静かに離れた。それも、嬉しかった。

「行く前に聞かせてくれ」

 ライルの手は、今度は、いつの間にかセフィーの頬に零れていた涙を拭った。

「何が分からなくて飯を食えなかったと?」

 優しさに甘えて、残りの力を振り絞って答えた。

「全部、です」

「全部?」

「食器の使い方、とか……手づかみでは、食べられないようだったから」

 ライルがまた、「馬鹿」と言った。セフィーは再度「ごめんなさい」と言ってうつむいた。

「どうしてその場で言わなかったんだ」

「え?」

「そしたら、教えてやれたのに」

 次の瞬間、ライルの腕が伸び、強く抱き締められた。心臓が破裂するかと思った。

「俺も、チュルカ平原からアルヤ王国に辿り着いたばっかりの頃は、どうしたらいいのか分からなくて、恥ずかしくてひもじい思いをした」

 柔らかかったルムアとは異なり、ライルの腕の中は少々硬かったが、しっかりとしていて安心感がある。嫌な気はしない。むしろ心地良い。このまま奉仕するよう言われてもいいと思った。けれどライルはそれ以上のことはせずに離れ「救急箱」と呟きながら出ていった。

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