第9話 結末

 ケイの身体は、自然に元来た道へと向かった。坂道を下へ下へ。木梨商店を着地点に、まるで空を飛ぶかのような軽やかさで駆け下りていく。


 彼の頭の中に残っていた理性は、必死に自身に危険を知らせ続け、今すぐに踵を返して公民館へ向かうべきだ、と何度も何度も主張した。しかし、心と身体はそれを断じて許してはくれなかった。あそこにまだ、木梨の爺ちゃんが居る。それだけで彼の理性をねじ伏せるには十分であった。


 死後蘇り、この世を彷徨う魂の抜け殻。生者の血肉を求め歩く留人。目の当たりにしたのは初めてではあるが、彼は十分にその恐ろしさを分かっているつもりだった。死後、人間の唾液は変質し、死をもたらす毒となる。


 予防策もなく、噛まれれば治療法もない。即死をもたらす留人達の群れに単身飛び込むその意味を、分からない程ケイは子供ではなかった。


(わざわざ新鮮な生き血を死人に届けに行くなんて、まるでデリバリーピザみたいだな)

 

 自らの無謀さに内心呆れつつ、それでも前へと進む足は止めなかった。アスファルトを力強く蹴って、一直線に走りぬける。彼の持ち前の身体能力もあって、すぐに木梨商店の見える位置までたどり着く事が出来た。


 家屋の陰に隠れて、カラカラに乾いた喉にゴクンと唾を流し込む。鳴り続けていた理性の警告音は、徐々にその音を大きくしていた。しかしそれ以上に自身の中で反響するのは、あの気の優しい爺ちゃんを助けねばならないという心の叫びだった。


 ポケットからヘアゴムを取り出して髪をくくり、両手で顔を叩く。パンパン、と乾いた音と共に、少し勇気が湧いてくる心地がした。陰からちらりと向こうを覗き見ると、木梨商店がその四方を留人達に囲まれきっているのが見えた。


 壁や窓を力任せに叩きつける手によってガラスはひび割れ、茶色いトタン壁は留人の馬鹿力を受けて、歪に歪み、軋みを上げている。もはや彼らが屋内に侵入するのは、時間の問題であるように思われた。


【――もし残っとるもんがおったらすぐに公民館へ、公民館へ行け。必ず、必ず松島か恐山の指示に従って行動しろ】


 木梨商店から真っ直ぐ伸びた鉄柱の先、お椀型の二つの拡声器から、木梨の声が流れ続けていた。下には、その声の主を探す留人の群れ。


 ケイは何かを探すように辺りを見渡すと、静かに一歩、二歩、隠れていた建物の陰から歩み出た。気配を殺すように、そろりそろりと足を進めて道の向かいに見えた、小さな畑の方へと移動する。畑のぬかるむ土に降りた時、突風が吹き、一瞬留人の腐臭が彼には消えたように思えた。


(――まずい!)


 風に気づいた彼が慌てて畑から道に戻ると、逆風に運ばれた美味そうな生者の匂いを嗅ぎつけた留人が数体、こちらに歩んでくるのが見えた。ケイの心臓は、バクンバクンと早鐘を打つ。ぬかるんだ泥のこびりついたスニーカーをギリリとアスファルトにこすりつけ、彼はまるで徒競走をする直前のように腰を深く落とし込んだ。


 一歩、二歩、三歩。


 彼が地面を軽く蹴る度に、世界は流れるように後ろに追いやられた。スニーカーと同じく泥にまみれ、固く握られた右手の拳。その指の間からは、一本の太い鉄釘が鋭利な先端を外に覗かせていた。


 四歩、五歩、六歩。


 大振りな手を躱し、彼は目と目が合う程の距離になった留人の顔面に向かって、釘の突き出た拳を叩きつける。拳からは、彼らの腐肉の感触が伝わった。


 思わずバランスを崩して倒れそうになる所を必死にこらえて、ケイは数歩後ろに下がった。金髪に髪を染めた若い男の留人は、その右目に釘を突き刺した状態で頭を大きく前に揺らし、そのままうつ伏せになって倒れた。後ろ首を噛まれのだろう。襟足の黒く戻りつつある地毛の間から、歯型が覗いていた。


 後ろに下がりながら、ポケットの中で手を探るケイ。芋畑から引き抜いた鉄釘を指で数える。いちにいさん……全部で四本。彼の存在にいち早く気づき近寄ってくる留人の数と、丁度同じである。


 関節を、構造的に曲がるはずのない方向に曲げてこちらへ歩み寄る留人達。その不気味な動きと土気色に変わった肌は、彼の生存本能に非常に強い危機を知らせ続けていた。今すぐにでも逃げ出したい感情と、腐臭が誘う吐き気に襲われながらも、すぐそこにある拡声器を見て、それを堪える。


 釘を握り、今度は自分から前に出た。酷い猫背をした留人が、両手を正面に振る。それを寸出で避けて、ガラ空きになった胸に前蹴りを入れた。血と体液で濡れた留人の白いシャツに、泥の足跡が付いた。


 仰向けに倒れた留人にまたがる形となり、両腕を足で押さえた。濁った白い目がこちらを見ている。ショートカットの女性の留人だった。


 今、人の形をした者に釘を突き刺すという行為に、抵抗を彼は感じた。


 そうこうしている内留人はケイの下から抜け出して、そのまま足に絡みつこうとしてきた。我に返った彼は、その留人の髪を片手で掴み、目をぎゅっと瞑って目があるだろう所に釘を差す。


 ズププッとした柔らかい感触が、彼の背筋に粟を立てた。生臭い臭いに目を開くと、すぐ目の前にまた別の留人の顔があった。黄ばんだ歯を覗かせ、口を開けて掴みかかろうとするその手を慌てて避けて、地面を力任せに蹴る。


 彼の身体はふわりと浮き上がり、そのまま空中で半回転して地面に着地した。あと一瞬でも遅れていれば、毒にやられていたかもしれない。じっとりとした脂汗が彼の背中を伝った。


 受け継がれた恐山家の血は、恐るべき身体能力を彼に与えていた。青春を暗い色に染める染料でもあったその力を、彼は何度呪ったことだろうか。手放したいと何度願ったことだろうか。


 ――しかし、今この時だけは生まれ持った異常な身体能力に感謝をした。


 その時、ガシャンと木梨商店の方から音がした。見ればついに正面のガラス戸の一部が砕け落ち、半身をそこにねじ込もうとする留人の姿が見えた。


 焦ったケイは、今右足をググッっと折り曲げ、跳躍の準備姿勢に入った。ふくらはぎの筋肉が力強く張り、その解放を今か今かと待ちわびる。


「っしゃ!」


 短い発声と共に、ケイは全身の筋肉をバネのように躍動させ、突進という言葉にふさわしい勢いで駆け出した。地面を蹴る度に、風切音が耳にゴォゴォと流れ込み、道をふらふらと歩く留人がその横を通り過ぎていった。


 木梨商店の前に群がる留人の群れの大半は、大音量で流れる木梨の声に夢中なのだろう。彼らの元に届けられようとする、新鮮な血肉の匂いには気づいていなかった。


 ふらふらと辺りを歩いていた、身なりの整った老人の留人は、いち早く若い血肉の匂いに気づき、駆け寄るケイの元へと関節を軋ませながら近寄っていった。


 バキン。そんな乾いた音が留人の足元から鳴った。それは、左足を軸にして綺麗な半円を描いたケイのローキックが、留人の足を真っ二つにへし折った音であった。


 地面に横たわった留人が、腐りかけの脳みそと濁った眼球を使って足を明後日の方向に折り曲げた犯人を捜そうとしたが、ついにその瞳がケイの姿を捉えることはなかった。自身の頭蓋に差し込まれた釘が、脳機能の全てを停止させたからである。


 木梨商店は目と鼻の先にあったが、そこには数十体の留人の海が行く手を阻んでいた。ケイは、短い呼吸を繰り返し、我慢ならない様子で口を開く。


「木梨さん!!!!」


 ケイの正気とは思えないその叫びに対して、喜々として振り返ったのは留人達だった。手近な獲物を見つけた彼らは、津波のように一斉に襲い掛かってくる。ケイは、足をふらつかせ、彼らと距離をとりながら尚、木梨の名前を叫び続けた。


【……まさか、ケイ坊か!? 何しとる、早く離れんか!】


 すると、突然冷静だった拡声器からの声が動揺と焦りによって震えた。木梨は突如勢いの弱くなった留人達の中に、逃したはずの少年の姿がある事についに気付いたのだろう。


「助けに来た! 引きつけるから逃げて!」


 ケイは、開いた窓から覗く木梨に向かってもはや絶叫に近い声で叫んだ。それを見た木梨は、いつも明るく冗談ばかりを言う老人とは程遠い、顔面蒼白で今にも卒倒しかねない表情をしていた。


 彼はその顔を見て、改めて自分の置かれた状況の危うさに気がついた。ハッとして周囲を見れば、そこには腐臭漂う亡者のうつろな顔ばかりが並んでいる。


 なぜ、どうしてこんな事になっているんだろう。


 どうやって、ここから脱するつもりなのだろう。


 ケイは失いそうな意識を必死に保ち、木梨商店の向かいにある酒屋へと向かう。店の横、黄色いビールケースが段になった場所に足をかけると、それを踏み台にして、背の低い物置の屋根へと飛び乗った。


「ド阿呆! ワシがここに居る意味がなかろうが!」


 ついに直接窓から身を乗り出し、真っ白な唇で叫ぶ木梨。


「死ぬなよっ! アンタが死んじゃ駄目だ!」


 ケイは木梨に声をかけると同時に足元を見た。


 思いの他幅の狭かった小さな物置の周囲は、既にぐるりと留人に囲まれており、手のひらがその縁に見え隠れしている。今やわずか数歩半の広さの長方形だけが、彼の命を繋ぐ聖域となってしまっているのだった。


 ほとんど悲鳴の混じった声で、それでも木梨に脱出するよう声をかけるケイ。しかし彼は、木梨が既に助からないという事実をはっきりと理解しはじめていた。


 こうしている間にも、集落に向かってくる留人の数は増え続けていく一方であり、またケイが一人騒いだ所で、木梨商店の前は相変わらず留人だらけであった。とても、木梨のような老人が走って逃げ出せる状況には見えない。


 結局、荒れた海に浮かんだ小舟が、もう一隻増えただけのことであった。


 四方から打ち付けられる手のひら、その中心で固まるケイ。自身が招いた絶望的な状況に、ついに彼が言葉を無くしたその時であった。彼の足元がぐらりと揺れたのだった。


 彼の視界は突然回転し、そして空を仰いだ。尾骨から響いてくる鈍い痛みが、背中と腰に痺れとなって伝わってくる。どうやら、物置小屋が留人に押されて横倒しになったらしい。自身の足元には、左足首を掴んで離そうとしない紫色の留人の手があった。


 留人の海の中に飛び込む形になったケイ。


 物置小屋の下から這い出て、その身体に掴みかかる留人。大きな音に気づいた留人達もそこへと集まっていく。


「ケイ坊ッ! あああそんな、ケイ坊ッ!」


 ケイが留人の海の中に消えた姿を見た、木梨が泣き叫ぶ声が聞こえた。


 ああ、しまった。


 名前を呼ぶ声を聞いて、ただそれだけをケイは思った。全てが終わった。何の計画もない無謀さが招いた結末だった。


 今となってはなぜ、どうして、という言葉しか出てこない。


 これだけの数の留人を相手に、自分が戦えると本気で思っていたのだろうか。


 その答えはイエスでありノーでもあった。


 無謀とは分かっていた。


 ただ、木梨の爺ちゃんを助けずにはいられなかったのだ。


 地面を這い、身体によじ登ってくる留人の爪の感触が衣服越しにはっきりと感じられた。首が折れているのか、上手く口を使えないでいるらしい。その留人の上から、また別の留人がのしかかるので、胸に耐え難い圧迫感を感じた。


 いよいよこれから死ぬ。そして転化する。つまり助けようとした木梨に襲いかかり、その腸を貪り血を啜る化物と化すのだ。


「――あっあああ、うわあああああ!!」


 遅すぎる後悔と、死への恐怖が彼の口から断末魔の悲鳴を上げさせた。じたばたと手足を揺らすも、腰を打ってから身体の自由も利かず、群がる留人達の口は、いよいよその柔肌に歯型を残そうとしていた。そしてついにその時は来た。


 ゴリュ、パキッ、ヌチャ。


 それは若く無謀ではあったが心の優しい少年、ケイの腹の肉を留人の歯が裂いて、綺麗に並んだ肋骨の間からピンク色の大腸を引きずり出す音――ではなかった。


 ケイはただ呆然と、何が起きたのか理解が追いつかない顔でそれを眺めていた。彼の胸元に見えるのは、留人の首の断面だった。その気道から呼吸をするようにこぼれ落ちる血が、自身の胸元にビシャビシャとかかってくるのだ。


「――おい、口を開けるな。ついでに目も閉じとけ。毒が混じっとるかもしれんからな」


 まるで地獄をひっくり返して煮詰めたような状況に相応しくない、冷静な声がその頭上から聞こえた。死に魅入られた恐怖から、ケイの奥歯は噛み合わっておらず、ガチガチと震えていた。彼は恐怖に引きつった顔を、自身の傍らに立った人物の方へ向けると、顔をくしゃくしゃにして大声で泣き始めた。頬を伝うのは、救いを受けた人間の流す喜びの涙であった。


 この絶望的な状況下にあって尚冷静を保てる人物は、この町には一人しかいない。返り血を浴びた甚兵衛姿に、留人の血に濡れた長刀を肩に構えるその姿は、この町の守護神に相応しい力強さを誇示している。


 それは親どころか祖父よりも早く死のうとする馬鹿者に、拳骨ついでに説教をくれてやろうと飛んできた彼の祖父、恐山の姿だった。

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