存在の音

 深水が現在住んでいるアパートは4世帯が入居できる造りになっている。

 隣に住んでいるのは母一人、子一人の家庭だったが、どうも年末から恋人らしい男性も一緒に暮らし始めたらしい。


 男性の低い声がぼそぼそとよく壁越しに聞こえてくる。

 それだけならいいが、しょっちゅう痴話喧嘩をして大声で怒鳴っている。

 そのうち、足音やクローゼットをしめる音など気になりだし、深水も新しい存在が増えたことを意識せざるを得なくなった。


 もちろん人は観葉植物ではないので存在すれば動くし、声や物音も発生する。猫とて同様である。


 深水の四匹の愛猫のうち、唯一オスであるてんという子が一番可愛らしい鳴き声をあげる。まるで犬が「くぅん」と甘えるような鳴き声なのだ。

 深水に一番懐いているなぎは「んなー」と絞り出すような声で鳴くし、一番最初に家族に迎えたひめは話しかけるたびに高い声で「にゃあ」と返事をする。姫と同じ頃に北海道で家族になった小町こまちは「にゃっ」と短い鳴き声だ。鳴き声だけではなく、ベビーゲートを飛び越える音にも体重によって違いが出てくる。


 夫の存在を一番感じるのは足音や声ではなく車の音である。

 仕事から帰宅した彼が駐車場に車を止めると、サイドブレーキを引く音だと思うが独特の音がする。

 これに気づいたのは深水よりも猫たちのほうが先で、夫の車が止まる音がすると、四匹がわらわらと玄関へ出迎えようと向かうのである。もっとも、彼らの目当ては猫缶なのだが。


 思い返せば、深水の前夫は車を止めたあとに必ずドアをガチャガチャっと二回手で引いてロックを確認する癖があった。とても素直な音を持つ人で、駐車場に入ってきた車の速度で機嫌がいいかどうかも丸わかりだった。

 以前働いていた職場では足音で誰が歩いているか顔を上げなくてもわかったものだ。ヒールの音を派手に鳴らす人、踵をする人、パタパタと歩く人など、個性が出る。

 意識してみれば、何気ない音にもその人の存在が含まれていることに気づく。それはまるで音に匂いがついているかのようだった。


 喚いたり、物にあたって怒りを表現している隣人の男はまだ可愛いものだ。本当に怖いのは、音に怒りが現れないタイプの人である。


 どのみち生きていれば音は絶対生まれるのだから、どうせなら音楽まではいかなくても、耳に心地いい音でありたい。

 しかし、一番いいのは普段意識されない音なのだと思う。そして、いざ意識してみると、音だけで何をしているかわかってつい微笑んでしまうような温かみのある音でありたいのだ。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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