おまけの喜び

 深水は食べ物のエッセイを書いたことがある。

 そのとき、料理そのものより部分的なものにより強く惹かれる場合があることに気がついた。


 クリームソーダのアイスのふちがシャリっというところ。

 梅干しの汁が染みて赤くなった、弁当のご飯のくぼみ。

 アメリカンドッグの棒にこびりつく最後の衣。

 ホットミルクの膜、餃子の羽、そしてグラタンの表面に散りばめられたパン粉。


 それがなくても料理は成立するかもしれない。あってもなくてもいいかもしれない。それでも、あったら最高に嬉しい。そういう影の薄い醍醐味に弱い。


 たとえば、ローラ・インガルス・ワイルダーの小説『大きな森の小さな家』では、豚を解体してソーセージを作るとき、豚のしっぽを炙ったものが楽しみだったというエピソードがある。

 深水は、ローラが豚肉そのものではなく豚のしっぽという部分的なものへ執着することに共感しているのだ。大人にとっては些細な部位なのに、子どもにとっては年に一度の楽しみなのである。

 もし豚が尻尾のない生き物だったらつまらない。『あったら嬉しい』は中毒性があり、いうなれば『おまけ』の喜びなのだ。


 そのお気に入りの醍醐味を先に食べようか、あとに残しておこうか迷ってみたりする。それをいかにもっと楽しもうか、他の料理との食べる順番を考慮してみたりする。そういった誰も気にかけない試行錯誤がまた悩ましく愛おしい。


 あらためて他人に話すことでもないとは思う。

 たとえば写真を撮るときに決まって浮かべる表情は、部屋で鏡に向かって何時間も模索した結果だなどわざわざ説明する人もいない。それと同じことである。料理の醍醐味も写真の決めポーズも、ついこっそり全力で探求に取り組んでしまいがちなのも似ている。


 くだらないと一蹴されてしまいそうなことに、ほんの数秒でも一心に向き合えるのは悪いことではない。小さな幸せも見逃さず、あっけなく上機嫌になれてしまう幸せ上手かもしれないのだ。


 今夜も風呂上がりにはホットミルクが待っている。

 ホットミルクの膜を最後の一口で綺麗にすすりたいがために、どういう角度でマグカップを傾けて飲みすすめていけばいいか、試行錯誤するのだろう。


 さて、今宵はここらで風呂を出よう。


 猫が湯ざめをする前に。

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