初生の章

第8話 記憶

 すべてが偶然の出会いではなかった。


 記憶は消えない。

 どんなに遠いものでも思い出せないだけで、心のどこかに置かれている。鍵を掛けてしまってあるだけで、跡形もなく消えるわけじゃない。

 僕はうすうすわかっていたのだ。パン屋の彼女だけじゃなく、それより前に出会った人たちのことも、本当は忘れてなんかいなかった。鍵をかけたのは僕自身ではなく、彼がそうしているのではないかと思う。その答えを彼は未だに飛ばしてくれないが、どちらにしても、僕の記憶は決して消滅などしていなかった。


 もう長い間、予感していた。

 常に、僕の心は胸騒ぎという薄いベールで覆われている。彼女に出会うもっとずっと前から。彼に呼ばれたときも、きっとその思いはあったはず。彼が対処してもしきれない、何か強い力が僕にのしかかっているような、そんな悪い予感を……。

 僕にというよりもこの街に、この世界に、目に見えない何かが覆いかぶさっている。彼の後ろでうごめき、形を成しては消えてゆくあの長椅子の背もたれが、それを物語っているのだ。


 しまわれていた僕の記憶。

 いつだったか、縮尺模型で小さな爆発が起きた。もちろん部屋に何かしらの影響を及ぼすほどではなく「ポンッ」とポップコーンが弾けるような、聞きようによっては陽気な音だった。ちょうど夕飯を食べていたときだから、夜の八時頃だったろう。

 爆発音は軽やかだったが、放たれた閃光はカメラのフラッシュの何倍も強く、部屋中が真っ白になった。一瞬のことだったし遮光のカーテンを閉めていたから、たぶん外に光が漏れることはなかっただろう。住人が驚いて駆けつけてくることもなく、僕は夕飯の割当て千五百キロカロリーの三分の一ほどを残して、模型を見に席を立った。


 僕の仕事は模型の中で光り輝く「玉」を見守ること。「玉」が充分に成長し、強い光を放つようになったら彼に渡すこと。「玉」は、人の心の中にある善の分身のようなものだ。

 完璧な善を持ち合わせている人間なんていない。人々は『性善説・性悪説』なんてことを考えているようだけど、人はもともと善悪なんて、どちらも持ち合わせて生まれてはこない。ただ生きる、それだけを本能として持っているだけだ。成長する過程で様々な出来事を目にし、耳にし、体験する。その中に善悪の存在を認識し、やがて身につけていく。その割合の違いによって、善人にも悪人にもなりうる。それだけのことだ。



 ゆっくりと落ちている。

 背を下にして仰向けの体勢で、まるで浮遊しているようだった。


 僕の、最初の記憶。

 慌てもせず、体を反転させて下界を見下ろした。黒々とした陸地に、明かりがチラチラと瞬いていた。大人の真似をして集めた、子供の宝石箱をひっくり返したようだった。

 背中から生えた白い羽が、黄味がかったベージュ色の半月の方向へと僕を運ぶ。どこへ行くかは知らないけれど、わかっていた。


 目的地は羽が知っている。

 一棟のアパートの屋上に降り立った。外壁が白いペンキで塗られた、町の中でも一際目立つ洒落た建物だ。目立つと言っても四階建てで、それでも当時では珍しかった。


 夜更けに誰かが空を見上げて、僕の姿を目撃しただろうか。いや、あの頃は今みたいにコンビニもないし、今みたいな繁華街も皆無だった。駅前に軒を連ねた飲み屋が五、六軒もあれば、立派な繁華街と言えたのかもしれないが。

 ちょっとした広場でもあれば、赤提灯が哀愁を灯していた。ラーメンの屋台が独特な笛を響かせるのも、深夜二時をまわれば聞こえなくなる。万一、酔っぱらいが僕の姿を目にしたとしても、ただの錯覚だと処理され、次の日にはすっかり忘れていたのだろう。


 人の気配がないのを確認し、外階段を使って最上階へ降りた。僕を運んだ背中の羽は消えていた。目的の部屋のドアノブをためらわずに回すと、ドアはスッと開き、抵抗なく僕を招き入れた。鍵は掛かっていないし、持ってもいない。管理人への挨拶も手続きもしない。けれど、紛れもなくここが僕の部屋だという証拠に、町の正確な縮尺模型が六畳のたたみの真ん中に置かれていた。

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