篝火と黒曜

 パッと胸倉から手が離れる。

 解放されて思わず後ろに倒れそうになるのを踏ん張って堪えていると、今度は左腕が引っ張られた。イェーナだ。

「私たちも行きます――って、すみませんカジナ様! つい、いつもの調子で」

 胸倉から急に手を放されさらに腕を引っ張られるという二人の連係プレーで危うく転びかけた俺だったが、何とか片膝で踏みとどまって立ち上がる。

「っとと。だ、大丈夫です、俺も行きますから」

 そう、イェーナに付いて行くことは彼女が走り出そうとした瞬間に決めていた。もちろんラウレンスの言いつけもあるし、襲撃という単語とここが砦であるという事実を合わせて考えれば、あるいは俺の力が役立つ可能性だってある。

 だが、起き上がりイェーナに続いて走り出そうとした俺の耳に、予想外の声が飛び込んできた。

「あたしも……出ないと……」

 真後ろから聞こえてきたのは少女の、ベアトリスの声。

 振り返ると、ベアトリスはローブの女性にがっしりと抱き抱えられていた。

「無理です、行かせられません。今は回復が最優先です」

 静かな、しかし毅然とした声でローブの女性が諭す。それもそうだ。今目覚めたばかりの負傷者を戦いに向かわせるなど、医者なら絶対に許さないだろう。彼女らも同じだ。それが傷を癒す者としての使命なのだから。

 それでもなお、ベアトリスはもがき続ける。

「あいつに、神憑きなんかにぃ……任せるわけには、いかないんだよ……!」

 弱々しく、しかし執念の込められた声、そして腕。

 俺はもう見ていられなかった。

「後で、必ず戻ってきますから」

 気が付くと、俺は取り押さえられた青髪の少女の前で、そんなことを口走っていた。

 言われたベアトリスは、意表を突かれたかのようにポカンとした表情を浮かべていた。

 そりゃそうだろう。俺だって自分が何を言ったのか分かっていないのだから。

 だが、これ以上時間をかけるわけにはいかない。

 俺は振り返るなり、イェーナと一緒に建物の外へ向かって走り出した。



 日干しレンガの建物から飛び出した瞬間、それまで聞こえていた叫び声が一気に鮮明になった。

 雄叫びに怒号、そして硬質な衝突音と、悲鳴。

 その声がする方からは何本もの松明やかがり火が闇を照らすべく赤々と燃え、根元から崩れた壁と宙に漂う砂煙がその光で映し出されていた。

「すでに防壁が破られているとは……震動から考えるにおそらく一撃ですし、破壊力は相当なものですね」

「えっ、防壁って入ってくるときに見たあの高いやつ?」

 俺の脳裏に浮かぶのは数時間前にこの砦にやってきた時に見た日干しレンガ製の壁だ。

 空堀の上に建てられた壁は、高さはざっと15メートル。門をくぐる時に見た根元の厚みは3メートル弱もあった。

「はい、あれです。都市の城壁よりは薄いとはいえ、人間――並の戦士くらいでは破壊は不可能です」

 そう、日干しレンガが多少脆い建材であるとはいえ、隙間なく積み上げられたレンガは土の塊にも等しい。それを崩壊させるとなると――

「……やっぱり神憑き、ですかね」

「まだ分かりませんが――あ、あれを!」

 イェーナが指差したのは、崩れた壁の向こう側。

 初めは何もないように見えていたその空間に、いつの間にかキラキラと光を反射する何かが大量に浮かんでいた。それらは魚の群れのように一体となって連動し、空堀の上の夜闇に何者かの輪郭を描き出す。

 それは四本足の獣の姿。だが、大きさがおかしい。

 壁のさらに外周にある空堀の深さはおよそ5メートル。それを鑑みると、獣の体高は10メートルにも達する。10メートルだ。その大きさはゾウの倍以上になる。

 しかも、それはゾウよりも機敏だ。

 尖った耳、太い尻尾、鋭い爪と刃物のような牙。

 大きささえ考えなければ、それは俺も知っている動物だった。


 ウオオオオオオオオォォ――

 獣は長く長く吠え声――遠吠えを響かせる。

 その間に駆け寄った俺たちにも、ようやく相手の全貌が見えてきた。

「あれは、魔狼!? なぜこんなところに……」

 それは狼。強靭な牙と顎を持ち、頑丈な四本の脚と鋭敏な聴覚や嗅覚を誇る肉食獣の一種。

 なのだが、一つ、俺の知らないものが加わっている。

 金属に似た光沢の、黒い針状の物体。それが巨大狼の全身を毛のように覆いつくしていた。あれのせいで闇の中に溶け込むように姿が見えなかったのだというのは分かったが、俺の知る限りでは狼の毛皮に針なんてものはない。

「全身の黒いものは何なんです?」

「分かりませ――」

「岩石の類いだな。色と切れ味からして黒曜石だろーよ」

 答えたのは、奇妙なしゃがれ声。

 慌てて振り向くと、宙に浮かぶ灰色目玉――カジン・ケラトスがそこにいた。

「あれ、出てきちゃってよかったんですか!?」

 というのも、カジン・ケラトスは面倒ごとを起こしたくないからという理由で、砦に入る直前に姿を消してしまっていたからだ。

「ま、これが使命だしな。つーわけで一発ぶちかましてこい、カジナ」

 あまり覇気のない声だったが、俺の神にそう言われては他に選択肢はない。というか初めからそのつもりだったし。

「はい、ぶちかましてきます!」



「迂闊に近寄るな! 体から生えたアレの切れ味は相当だぞ!」

 戦士の一人が大声を張り上げて注意を促す。その傍らには狼の巨体に飛び移ろうとしたのか、足を大きく斬り裂かれた女戦士がうずくまっていた。そして、大部分の者は距離を取っての攻撃を続けていた。その狙いは全て黒の巨大狼だけに向いている。

 つまり、この狼が単独で壁を破壊し、砦の戦士相手に暴れ回っているというのが襲撃の全貌なのだろう。

 だったら、他に注意する必要もない。

 俺は黒曜石の刃を纏った魔狼目掛けて、真っ直ぐに駆け出した。

「む、待てお前! 丸腰で突っ込む奴があるか!」

 後ろからそんな声が聞こえた気がしたが、まあ気にしない。イェーナか誰かがいい感じに説明してくれるはずだ。

 散開して攻撃を続ける戦士たちの間を走り抜け、壁の残骸を踏み越えたところで、今度は前方から声が掛けられた。それは聞いたことのある声だった。

「やはり来ると思っとったぞ、カジナ殿。跳ぶなら手助けぐらいはできるが、どうなさる?」

 風使いラウレンスが崩れた壁の外側、空堀のすぐ手前に立っていた。どうやらここから援護でもしていたらしい。

 ちらりと空堀の底を見ると、数人の戦士が魔狼の足元で剣やら斧やらを叩き込んでいるらしかった。その攻撃は決して弱くはないのだが、俊敏に動き回る魔狼相手では決め手に欠けるという印象だ。

 改めて、俺は正面を見る。そこにあるのは黒曜石の刃が毛のようにびっしりと並んだ魔狼の胴体。足元の戦士たちに気を取られている今は、絶好のチャンスと言えるだろう。

「ええ、跳びます。援護よろしく頼みます!」

「おう、任されよ!」

 頼もしい老風使いの返事を聞き届け、俺は地面を蹴り、空堀の上に身を躍らせた。

 その俺の背を、すかさず風が捉えた。

 吸い寄せられるようにぐんぐん大きくなる魔狼の脇腹を睨みつつ、右拳を肩まで振りかぶり、

「くらえっ!」

 全身を弓なりに反らせて力を溜め、一息に解放。

 風の勢いに全身の力を加え、それら全てを上乗せした右拳を、刃の並ぶ魔狼の脇腹へと叩き込んだ。

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