アーカイブ1 ブルー・サマー・ガールフレンド


<付記>

 これは8年前の幼きカルト少年の記憶。

 地獄に至る直前の、最良の思い出である。


<本文>


 その女の子は今、裸足だった。

 サマードレスのスカートから、ほっそりした足が見えていた。

 プールサイドにあるビーチチェアで寝ているからだ。

 可愛いらしいつま先が、時々退屈そうにクイクイ動いていた。

「あ、あのっ」

 思わず声が裏返ってしまった。

 ただ声をかけるだけなのに、僕はどうしてかすごく緊張していた。

「あのさっ」

 僕に気づいた女の子は、読んでいた漫画から目を上げる。

 想像通り、綺麗でカッコいい瞳をしていた。

 目が合ってドキリとした僕は、慌てて言った。

「もしよかったら、一緒に挑戦しないっ?」

 そしてハンドブックを開いて見せる。

「お母さんに聞いて、フリガナも付けたから大丈夫だよっ」

女の子は黙ったまま、僕とハンドブックを交互に見ていた。なんだか不思議そうな表情だった。その女の子に見られると、なんだか落ち着かない気持ちになった。僕は言葉が足りない気がして、付け加えた。

「せっかくこの船に乗ってるんだもん。謎解きに参加しないと損しちゃうよ。絶対に楽しいよ! 一緒にやろう!」

 うん。言いたいことはこれだった。

 大ミステリ作家・君谷光太郎が主宰のミステリーツアー。しかも豪華客船に何日も乗ってする特大のイベント。今日はその初日だった。

 僕の家は、お父さんもお母さんもミステリ大好き。だからこのクルーズに参加するのを、みんなでもう半年も前から楽しみにしていた。

 でも僕はさっきからずっと気になっていた。謎解きゲームが始まっても、その女の子はプール側の椅子に寝転んだままだったからだ。

 しかもずっと一人で。

 お母さんもお父さんも、近くにいないみたいだった。まわりの大人達はいそいそ推理をして楽しんでいるのに、その子はずっと読み古した漫画を読んでいた。一人一冊配られるハンドブックは、横のテーブルにポイと置いたままだ。

 この船で同い年ぐらいの子は僕だけだから、友達が居ないのは仕方がないけれど……でもあの子を連れてきた家の人は、どうしたのだろう。あの子を置いて、自分達だけでゲームを楽しんでいるんだろうか。

 だとしたら、あんまりだった。

 確かにこの謎解きゲームは大人向けだし、ハンドブックにもフリガナが付いていない。読むのは大変だ。

 でもこんな楽しい旅行、二度と無いかもしれないんだ。参加しないのはもったいない。たとえ最後までクリアできないとしても、チャレンジするだけで楽しいに決まってる。

 そう思った僕はお父さんお母さんに言って、別々にゲームをすることにした。二人ともまるで子供みたいにソワソワしてて、僕が自分のペースでやりたいと言ったらアッサリOKになった。お昼にまた集合する約束した後、僕は一人になった。こんな気持ちを、あの女の子も味わったのかなと思った。

 それから僕は、その子から見えないベンチに座って大急ぎでフリガナをふり始めた。そうしている間にも大人はみんな忙しなく歩き回って、ゲームを進めていた。気持ちが焦ったけれど、なんとか最後までフリガナをふり終えた。

 それでやっと僕は、女の子に声をかけた。

 けれどその女の子は、しばらく僕を見た後で言った。

「ねえ、貴方」

 柔らかい声だった。

 その声を聞いて、どうしてか背筋がゾクゾクした。

 耳たぶをくすぐられてる気がした。

「それ、見せて頂いて良いかしら」

 女の子は体を起こすと、まるで大人みたいな話し方で言った。それで僕からハンドブックを受け取ると、何気ない仕草でパラパラとめくった。

 女の子は、首を傾げて言った。

「貴方、このルビ……フリガナは、本当にお母様に聞いて書いたものなの?」

「えっ……」

 言われて、嫌な予感がした。

「あの、ここなのだけれど、これは演繹エンザワではなくて、演繹エンエキと読むのが正しいわね」

「そ、そうなの?」

 ちょうど、どうしても分からなかったところだ。

 最初は全部読めると思っていたのだけれど、見てみたら実はいくつか難しいところがあったんだ。お母さん達とは別れたあとで、教えてもらうことも出来なかった。

「えん、えき……?」

「確かなルールを一つずつ積み重ねて物事を考える方法、という意味ね」

 言われて、ガン、と頭を殴られた気分だった。

 その女の子は僕よりずっとずっと物知りだった。よく見れば、横に置いてある漫画本もなんだか難しそうな題名だった。き、寄生、獣? 僕らがいつも読むコミックと違って、なんだか大人向けの漫画だった。

 漢字が読めないから謎解きに参加してないのだと思っていたけど、大きなお世話も良いところだった。僕はひどく情けない気持ちになった。

「ご、ごめん」

 思わず謝まってしまう。

 けれどその子は、逆にあわてたみたいだった。

「あ、いえ、違うわっ。貴方を侮辱するつもりはなかったの」

 侮辱なんて難しい言葉を使われると、よけいに落ち込んでしまう。

「違う。違うわ。逆にもし貴方が自分でこのフリガナを書いてくれたのなら、お礼を言いたいの」

「え……?」

「だって、貴方自身はほとんど全部読めているもの。だからつまり、このフリガナは全部、私のために書いてくれたのでしょう?」

「ほ、本当はそうだけど……でも、よけいなお世話だったし……」

「いいえ。そんなことないわ」

 女の子は僕の目をじっと見て、こう言った。


「それはとっても素敵なことだわ」


 そう言われてビックリした。女の子に『素敵』なんて言葉で褒められるのは、生まれて初めてだった。まるで物語の中みたいだった。

 そして女の子は、不思議そうに言った。

「ねえ、貴方はなぜ見ず知らずの私に、そんな親切してくれたの? 貴方だって、本当はゲームを進めて少しでも早くクリアしたいでしょう」

 それは……確かにそうだった。この推理ゲーム、実はクリアした順位がチェックポイントごとに記録されるルールなのだ。

 でも……。

「その……きみがゲームに参加してないのが、かわいそうだと思って。だって、すごく楽しいツアーだから。それできっと、漢字が読めたら一緒に謎解き出来るだろうと思って……それに……」

 僕は思わず続けて言ってしまった。

 クラスの女の子が相手なら、からかわれるのが嫌で言わないけど。

 でもこの子ならきっと、言っても笑ったりしない気がしたからだ。さっきもらった『素敵』という言葉が、まだ体の中に残っていた。

 僕は言った。

「お友達になりたかったから」

 そう素直に言ってしまった。

「え?」

「だって全然違うんだもの」

 ビックリしてる女の子に、僕は勢いでもっと言ってしまった。

「小学校のクラスの女の子と、全然違うんだもの。何というか、まるで大人の女の人みたいで。テレビの中の女優さんみたいで。そんな女の子に初めて会ったから。だからすごく気になって、それでお友達になりたいと思ってたんだ」

 勢いで全部言ってしまった。

 でもそれで良い気がした。

 この女の子は言っても笑わない気がしたし、言ったおかげでずいぶん気持ちが楽になった。

 だけど女の子は、かなりビックリしてしまったみたいだった。

「ふえぇ……」

 ぽかん、とした表情だった。

「お、オシャレしてみるものね……」

 女の子は顔を赤くして、スカートの少しつまんだ。

「こ、これね……このサマードレスね。本当は違うの。おじいさまに無理矢理着せられたものなの」

「え、うん?」

「わ、私にはこんなお洒落なドレス、全然似合わないって言ったんだけど、でも無理矢理着せられてしまって……でも、おじいさまに後で謝らなくちゃいけないわ」

「どうして?」

「だっておじいさまが言ったこと、私、全然信じてなかったから……」

 女の子ははにかんで、とても言いづらそうだった。

「おじいさまが言っていたの……船の中で素敵なボーイフレンドと出会うかもしれないから、だからお洒落しておきなさいって。そんな漫画みたいな話、私は全然信じなかったけど……でも、後で謝らなくちゃいけないわね……お、お洒落してみて良かったわ……まさか女優みたいなんて褒めて貰えるなんて……」

 女の子は頰を赤らめると、胸のあたりをぎゅっと押さえた。

「ビックリしたわ……胸がドキドキしてる……」

 そう言われた僕までドキドキして、思わず黙ってしまった。とても恥ずかしい気持ちだった。

 僕は耐えられなくなって、話を逸らした。

「あ、あの……」

「な、なぁに……」

 女の子は、まだ恥ずかしそうに小声で答えた。

「てっきり漢字が読めないからかと思ってたんだけど、ひょっとしてこういうゲームが好きじゃないの?」

 僕がそう聞くと、女の子はハッとしたように言った。

「いいえ、違うわ。そうじゃなくて、私、君谷ほたるって言うの」

「え、えと、僕は萌崎カルトって言うんだけど……ん……?」

 僕はその女の子の名前に気づいた。

「君谷……?」

「ええ、そうなの」

「じゃ、じゃあ、そのお祖父様って」

「ええ、君谷光太郎……このミステリーツアーの主催者の」

 女の子は、ほたるちゃんは言いにくそうだった。

 だけど僕は大感激だ。

「すごい! すごいすごい!! 僕、大ファンなんだ!」

「あ、ありがとう」

「すごいなぁ。どうりで物知りなわけだ。あんなえらいミステリ作家さんのお孫さんなんだもん」

「そ、それほどでもないわ……おじいさまも最近はミステリ作家としてはイマイチで、もっぱら興行師という感じだし……」

「こうぎょうし……ってなに?」

 分からない言葉を聞くのも、もう恥ずかしくなくなっていた。だってほたるちゃんは、あの君谷先生の孫なんだもの。

「えっと、プロモーターともいうわね。お祭り騒ぎを計画して、人を集めるのが仕事な人という感じで」

 そう説明されて、僕も理解した。

「あ、なるほど。スティール氏みたいな感じか」

 思わず言った言葉に、ほたるちゃんは目をキラリと光らせた。

「そう、それ! 知ってるの!? スティール・ボール・ラン!」

「え、うん」

「これは期待が持てるわ!」

 さっきの恥ずかしげな様子は消えて、ほたるちゃんは普段の調子を取り戻したようだった。

「おじいさまは下らないって仰るのだけど、私は漫画が大好きなの! でも周りには同じ趣味の人が少なくて。ぜひ後でお話しましょう!」

「え、いや、でも僕、そんなに詳しく読んでるわけじゃ」

「少しでも大丈夫。それに後でイチオシの漫画もお貸しするわ」

 そう言ってほたるちゃんは、その『寄生獣』という漫画を僕に見せた。ページの中では、サラリーマンらしき人が四等分されている。

 ぐ、ぐろい……。

「あ、ありがとう」

 僕が驚いたのにも気づかず、ほたるちゃんはキラキラの笑顔で言う。

「いいえ。それより待っているから、ぜひ謎解きが終わったら一緒に遊びましょう?」

 それはとっても嬉しい話だった。

「うん、約束だよ!」

 そう返事をした後で、僕は言った。

「でも、本当に謎解きに参加しないの?」

「ええ、そうね。ちょっと問題があって」

 ほたるちゃんは、残念そうに言った。

「実はおじいさまに連れられて、この船に一番乗りをしたんだけれど……その時に、一番重要なトリックを見てしまってるの」

「あ、それで急におじいさんの話になったんだね」

「そう。それでやっぱり、トリックを知ってる人が参加するのはズルじゃない。特に主催者の孫がっていうのは……それに一人だけトリックが分かってて参加してもつまらないし」

「なるほどー」

 気にしすぎかもしれないけど、そこはほたるちゃんなりのこだわりがあるんだろうと思った。

 だから僕は笑顔で言った。

「でも、良かったよ」

「あら、なぜ?」

「ほたるちゃんが、家の人に仲間はずれにされてないって分かって安心出来たから」

 そう言ったら、ほたるちゃんはまた少しビックリしたみたいだった。

「貴方……本当に将来素敵な人になりそうね……」

「え、うん? ありがとう?」

「貴方がクリアするの楽しみに待ってるから、終わったら絶対遊びましょうね」

 ほたるちゃんはそう言って、笑顔で手を振ってくれた。手を小さくにぎにぎするような、可愛い手の振り方だった。こんなお姫様みたいなバイバイをする女の子、本当に初めてだった。

 僕は思わずカッコつけて言ってしまった。

「ここから五百人全員追い抜いて、一番になってみせるね」

 そう言って謎解き会場に戻ろうとしたら、

「待って、カルト君」

 後ろから慌てた声がかかった。

 ほたるちゃんが、真面目な顔でこっちを見ていた。

「参加者は六百人でしょう?」

 ほたるちゃんが、そう言った。

 僕はそう言われて、頭をかいて答えた。

「え……うん、どうなんだろう」

「……って言うと?」

「六百人のうち百人は、本当はスタッフさんじゃないかなと思うんだ」

「……」

「さっきまでね。そこに座ってフリガナを書いているときに気がついたんだけど、大人なのに変な順番で謎解きしてる人達がいたんだ」

 僕はその変な感じを、一生懸命説明した。

「皆んなと違う順番で問題が解けちゃってるっていうか、真面目にやってなさそうというか……サクラって言うのかな……それでね、そういう人達をよく見ると、必ず青い物を体につけてるんだよ。ポケットチーフとかスカーフとか、髪飾りとかが同じ色の青……うん、そう。ほたるちゃんのドレスの青と同じ色の物を。だからそれがスタッフの印なんじゃないかと思って……」

「で、でもそれでなんで百人って人数まで分かったの?」

「あ、それはちょっとだけ数えたの。前を通る人を三十人数えてね、そのうち青い印がついてる人が五人ぐらいだったから。それでちょうどキリが良い数字で、百人のスタッフが五百人の参加者にコッソリ混じってるって思ったんだ」

 そこまで説明するうちに、ほたるちゃんはますます顔が固くなっていった。

「貴方……統計学って知っているの……?」

「とうけい? ううん、それは知らないな」

「知らないのに、今この場でその発想に至ったの……?」

 よく分からないけれど、ほたるちゃんは褒めてくれてるみたいだった。さっきからやられっぱなしだったから、正直言って気分が良かった。

「ねえ、手を出してちょうだい」

「え、うん」

 手を差し出すと、ほたるちゃんは僕の手を握った。

 触れた瞬間、ドキリとする。

 そしてほたるちゃんは、僕の手を掴んだまま椅子から立ち上がった。手を貸して欲しいなんて言われたから足でも悪いのかと思ったけれど、手には全然重さがかからなかった。

 僕が不思議そうにしているのが分かったのか、ほたるちゃんは白いサンダル(大人がはくようなお洒落なやつだ!)をはきながら言った。

「女の子が立ち上がる時や、車から降りるときに手を貸してあげると、すごく喜ばれるわよ」

 そう微笑みながら教えてくれた。

 それからまっすぐ僕の目を見ると、ほたるちゃんは言った。

「改めて言わせて頂くけれど……貴方、中々やるわね」

「そ、そう? ありがとう」

「お手合わせといきましょう」

「え?」

「私も謎解きに参加するわ。私が知っている一番の秘密って、その百人のサクラのことだったの」

「あ、やっぱりサクラだったんだ」

「貴方がもう気づいているのなら、遠慮する必要ないわね」

 ほたるちゃんはカッコいい笑顔を浮かべて言った。

「貴方と競うためなら、参加する価値があるわ。勝負しましょう」

「え、勝負?」

 一緒に楽しく謎解き出来れば良いと思ったのに、変な感じになってしまった。勝負って言われても、とてもほたるちゃんに勝てる気がしないけれど……。でもほたるちゃんは、ずいぶんと乗り気だった。

「どうせなら賭けをしましょう! もし貴方が勝ったら、お望みどおり貴方のガールフレンドになってあげるわ」

「え、ほんと」

 それはとっても素敵な話だけど。

「あれ、でもじゃあ、ほたるちゃんが勝ったら何を商品にするの?」

「決まってるじゃない」

 くすすす、とほたるちゃんは小さく笑った。

「私が勝ったら、カルト君には私の素敵なボーイフレンドになってもらうわ」

 それはとっても素敵な賭けだった。

 それからほたるちゃんは、どこからともなく青いシルクハンカチをピャッと取り出した。そのハンカチを器用に折ると、でっかいリボンみたいにして長い髪をまとめる。

「準備万端!」

 そう言って一本になったおさげを、自慢げに肩から払ってみせた。カッコいい仕草だった。僕はまた褒めてしまった。

「そういう髪型にしても似合ってるね」

「くすすす。ありがとう」

 彼女は嬉しそうに言った。

「綺麗でしょ。髪だけはね、唯一自信があるの」


 ほたるちゃんの髪は、美しく輝いていた。


 黒く、艶やかに。

 

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