伊和奈。

 作蔵と同じく苗字はわからない。

 黒髪のポニーテールで作蔵より五ミリほど身長が高い……。

 ……。

 年齢は、伊和奈に配慮して伏せておこう。

 なぜならば『イイ女』は謎がつきものだからだ。

 閑話休題。

 かくかくしかじか(前回の話を参照)の為に、伊和奈にとっては傍迷惑な仕事だった。せめて、作蔵の飯代に加えて家賃と公共料金の足しになる程度の報酬を獲なければならない。

 前置きが長くなってしまった。

 兎に角、作蔵と伊和奈は生活を賭けての仕事を請け負ったーー。


 ***


 ーー頼む……。

 作蔵が頭を下げるとき、決まっていう。

 伊和奈は聞き飽きていた。

 だけど作蔵は根は良い奴だと、伊和奈は知っていた。

 作蔵と『仕事』をする。

 伊和奈に指示をするのは、作蔵だった。

 依頼内容によっては断って欲しいのもあった。今回の件は、特にだ。


「『茜幻想』はタイマー録画しといて」

 仏頂面の伊和奈は作蔵に言うと、僅か一ミリの窓の隙間から全身を霧状にしてすり抜けていった。

 で、そんな『特異体質』の伊和奈が向かった先は何処だといえばーー。


「いい加減にしてよっ!」

 伊和奈は訪れたある家の天井裏に潜んで、しっかりと依頼者の相手から菷の柄で天井を突く『嫌がらせ』を受けていた。


「此方が嫌がらせをしていると、いうのが正しいよ」

 何だかこっちを見て睨んでいるようだ。

 文句なら作蔵にいうのだ。

「仕事の邪魔になるからあっちに行って」

 鼠捕りの罠にはまって動けない。

「だったら黙ってて」

 天井裏の埃が凄い。くしゃみをしたいけど?

「……。」

 伊和奈に無視をされてしまった。

 話を戻すことにしよう。


「あなたが滞納している家賃を大家さんに払えば私は二度と此処には現れないよ。でも、払えない理由をあなたは大家さんに伝えているのかまでは、わからない。私は残念ながらあなたへの介入が出来ない。同じく私が直接あなたに姿を見せることもよ。もし、相談事があるのならば、正式にあなたからの依頼がないと、こっちもどうするこも出来ないよ。と、いうわけでーー」

 伊和奈は「どっこいしょ」と、腰をあげて全身を霧状にしようとしているときだった。


「べらべらと、喋るだけ喋って立ち去るのが気に入らないわ。わたしのこんな生活になった理由を……。」


 伊和奈と『生身の相手』が最後に交わした会話だった。


 ーー理由を……。

『相手』の続けていう声は、はっきりと聞き取れないほど細々としていた。

『相手』に何かが起きた。

 伊和奈は察していたが、依頼者の関係者には直接会うことはご法度だと、作蔵に止められていた。

 伊和奈は目蓋を綴じて掌を静かに合わせる。

 誰かの所為にすることで自分を誤魔化す。

 何をどうしたらそうなってしまうのだろうかと、伊和奈は考えた。

『相手』が行き着いた先は、生きることを自ら止める。

 伊和奈は人の心に踏み込むことが怖かった。

 一方、無意識に『相手』を追い詰めてしまったのだろうかと、自責の念に駆けられる。

 とりあえず、今回の出来事を作蔵に報告をしなければならない。と、伊和奈は『相手』の家から抜け出した。


 ーーあなたが苦しんでどうするの。

 伊和奈は重苦しい女性の声に呼び止められた。


「あなたこそよ。楽になったつもりだったでしょうが、引きずっていることがあるから《花畑》に行けないの。さっきの話の続きを言うか言わないかは、訊かない」

 伊和奈の瞳に映していたのは、ぼやけた貌をしながら空中で深緑の粘液を撒き散らしていた。


 ーーどんな『依頼』でも引き受けてくれる。そんな相談所があると、聞いたことがあるの。せめて、其処に手続きをする方法を教えて欲しい……。


 伊和奈は縛る髪の先を指先に巻き付けて、いう言葉に選ぶを考える。

「私に勇気を振り絞って言ってくれた。わかったから、依頼内容をこの中に詰めて」

 伊和奈は腰に着ける巾着袋から空のマッチ箱を掌で掴んで抜き取ると、目の前の浮遊貌に差し出した。


 ーー字を書くの?

「あなたの一部を詰めるだけでいいよ」


 浮遊貌は、マッチ箱の中に深緑の粘液を1つ滴らす。伊和奈は箱の枠を閉じて、巾着袋にしまい込んだ。

「依頼内容は、預かったわ。時間を少しだけ貰うけれど、あなたはそれまで悪さをしないと約束をして。折角の『依頼』が無効になってしまうからね」


 ーー私がお願いをしているの。破るなんて、出来ない……。

 声は、泣いている。

 伊和奈はそんな想像をするしかなかった。


 ***


「お疲れさん」

 帰宅をした伊和奈に、作蔵は無愛想で声を掛けた。

「確かに『おしまい』になったよ。でも、此方の『依頼』があんたにとっては遣り甲斐があるはずだよ」

 伊和奈はマッチ箱を作蔵に渡すと、鼻唄混じりでテレビに接続するVHF式のビデオデッキの電源を入れて《巻き戻し》のボタンを右の人さし指で押した。


 ーーワタシカラウバワレタジカンヲ、トリモドシテ。

 作蔵がマッチ箱を開くと、背筋を凍らせるような声を発する深緑の煙が天井へと昇る。


「随分と、ややっこしい内容だ。ついでに俺、何だか寒気を感じる」

 作蔵は、伊和奈と目を合わせないようにしていた。

「当たり前でしょうね、私は間接的に立ち合ってしまったの。絶対に断れないと、私は思う」

 伊和奈の声は震えていた。

「……。意味をすり替えないでくれい。俺はたぶん、風邪を引き始めた。伊和奈、おまえにうつるといけないから先に寝る」

「無駄に頑丈なあんたが、風邪なんてひくわけないでしょう。蓋を開いたら契約成立、さっさと『依頼』の為に重い尻をあげなさい」

 伊和奈が畳の上を踏み潰して作蔵に徐々に近づいていた。

「尻は伊和奈ほどでかくない」

「どこまでドスケベな奴だ」

 伊和奈は両手の関節を鳴らして作蔵の背後に着いた。

「俺、おまえの肌にはさわれないのだ」

「安心して、私はあんたが着ている服には触れるから。だからーー」


 ーー録画に失敗したと、ちゃんと謝りなさいっ!!

 伊和奈に襟首を掴まれてもがく作蔵。

 四畳半の隅に置かれるアナログ式の24型テレビの画面いっぱいに《舌肥嬢 味覚への旅》のタイトルが表れ、あとに『地酒に含まれる痺れの旋律、郷土料理を箸で挟んで腫れる手に絡む千切り大根、埋もれる名産品に彫られる五右衛門風呂ーー(以下、省略)』長い、ながーいサブタイトルの5分後にコマーシャルをはさんでようやく本編が放送されていた録画が……映っていたーー。










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