02 奇跡

 おれの体が、ふわりと浮き上がる。カイリの腕から離れそうになって、おれは慌てて手を伸ばした。カイリの細い手首をつかむ。

 カイリがおれを見上げた。龍と同じ紺碧の大きな目が、かすかに細められる。

「おまえは、こちらの姿のほうが好きか?」

「おれはカイリの姿のきみと出会ったから、カイリでいてくれるほうが話しやすい」

「わたしと話をしてくれるのか?」

「言葉を交わしたかったって、たった今、きみが言っただろ」

 龍の気配が柔らかく溶けて消えて、カイリが少女の顔で微笑んだ。

「そうだね。朝の防波堤や、昼間の校舎や、真夜中の屋根の上、わたしの祠の前。ユリトの言葉が聞けて、わたしは満足だった」

「満足するなよ。おれは話したよ。でも、十分じゃない。カイリの話を聞いてない。おれが自分のことをしゃべって自分を見せるばっかりだった。普段はこんなんじゃないのに、聞いてもらいたい、受け止めてもらいたいって、カイリの前ではわがままだらけになってた」

 おれはカイリの手首を引っ張った。同じ高さに浮かんできたカイリと、正面から向き合う。カイリは首をかしげた。

「わがまま?」

「迷いを晴らす方法を、カイリに教えてもらいたかったんだ。ハルタにも誰にも弱音を吐かずにきたけど、カイリはなぜか違う。今まで出会った誰とも違って、カイリならおれを助けてくれる気がして、おれはすがり付いた。子どもみたいなわがままだよ」

「わたしは何も知らない。何の助言もできないし、救いの道を開くこともできない。人間は、迷う生き物だから。わたしは、その迷いごと全部、見守るだけ」

「違う、そうじゃなくて」

「何が違う?」

「神さまじゃなくていいんだ。おれがカイリにぶつけたかったわがままは、別に、神さまの力なんか必要なくて……」

 感情はここにある。言葉が追い付かない。

 おれが出会ったのは、神さまじゃない。一人のきれいな、少し不思議な女の子だ。だからこそ、おれはカイリに触れたくなったし、見つめてほしいと思った。

 体温だとか鼓動だとか、生身の感覚がこの不思議な時空間の中にも存在していて、おれの頬はだんだん熱くなっていく。胸の高鳴りのせいで、息が苦しい。言葉が見付からない。

 カイリの目が、不意に強くきらめいた。

「ユリトは、このままじゃ死ぬ」

「……死ぬ? おれが、死ぬ?」

「いくつもの要因があって、いくつかの分岐があって、選択の結果、ユリトはここに至った。選択の理由を、わたしは聞きたい。なぜ、生きることをやめようとした?」

 青く澄んだカイリの瞳が、おれの答えを求めている。おれは、見つめているのか見惚れているのか、どっちだろう?

「死にたいつもりはないよ」

「本当に?」

「死ねないから……投げ出せないから、悩んでるんだ」

「終わらせたいと思っていたでしょう?」

「……そうだけど」

「ユリトの肉体は、眠ることを放棄した。それは、生物としての姿を放棄すること」

「自分から望んでそうなったわけじゃない。体が、言うことを聞かなかった。おれは、あきらめてない。投げ出してない。進みたいのに、うまく進めないだけで」

「このまま死ぬのが怖い?」

 心の奥までのぞき込む問いに、言葉が固まる。たやすく答えてはいけない。

 怖いんだろうか?

 今、痛くも苦しくもない。一人ではないから、寂しくもない。どうせいつかは終わるんだ。引導を渡してくれるのがカイリなら、全然かまわないんじゃないか。だって、おれは。

 いや、それじゃ意味がない。

「怖いんじゃなくて、悔しいよ。今ここで死ぬのは悔しい。投げ出したくない現実も、生物として壊れかけた体も、どんな要因と分岐があってそうなってしまったのか、わからないままだ。今はまだ終われない。それに、おれは……おれは、カイリと……」

 生きているのか死んでいるのか、命の瀬戸際にいて、ギリギリの感情がせめぎ合う状況にあるのに、ささやかな想いを言葉にすることが難しい。恥ずかしくて、戸惑っている。

「わたしが、何?」

 重ねて問われて、しがみ付くように、すがり付くように、ささやく。

「おれはカイリと恋に落ちてみたい」

 だから、今はまだ死にたくない。

「恋だなんて、なぜそんなことを?」

「なぜって、理由はわからないよ。いつそんな気持ちになったのかもわからない。でも、恋というものをしている自分と、ちゃんと一から向き合ってみたくて。そうしたら、自分のことも、自分以外の誰かのことも、初めて大切にできる気がして」

「その誰かというのは、わたしである必要があるの?」

「当たり前だろう? 何もかも受け止めてくれそうな顔をして、おれが沈み込むときは、気付いたら隣にいて。そんなふうにされて、興味を惹かれないわけがない。ずるいよ」

「ずるい?」

 おれはうなずいた。

「こんな気持ちになるなんて、自分で自分がわからない。できるという自信や、わかっているという確信がないと、おれは新しいことに手を出さないはずなのに。もう、ぐちゃぐちゃだ」

「本当にね。人間は不思議。衝動と感情のありかが全然違うから不思議」

 カイリは首をかしげた。その口元に、かすかに、からかうような笑みがある。カイリにはおれの感情の正体が見えているんだろうか。

 おれはとっくにカイリを好きになっているのかもしれない。ただ単に、カイリの自然体なところやきれいな顔、どことなく色っぽい体に憧れているのかもしれない。さわってみたいと思うのは、もしかして、欲にまみれた汚い衝動に過ぎないのか。

 だけど、わからないことだらけのふわふわした中で、一つだけ、これだけは確かだ。

「カイリにおれを知ってもらいたい。おれもカイリのことを知りたい。おれがカイリの隣にいるのは当然だと言ってみたい。何かあったら真っ先に話したくなるような、お互いにとって特別な存在でありたい」

「そうすることに何の意味がある? それがユリトのためになるの?」

 イエスだろうか、ノーだろうか。

 そんなの、今すぐ答えを出せるわけがないだろう。

 あっさり答えられるくらいなら、おれは道に迷ったりしなかった。迷わなければ、この島に来ることもなかった。おれが持っているのは答えじゃなくて、解き方のわからない問いばっかりだ。

「カイリの目には、おれはどんなふうに映る? どうしようもなく未熟な子ども? 年齢の割には賢い人間? 背伸びして足下が見えてないバカ? 眠るっていう生物としての機能が狂った、救いのない生物?」

「全部違うし、全部そうだよ。ユリトという人間は、ユリトでしかない。この世に一人しかいない。ユリトがどんなふうに見られたいのかわからないけど、どんなふうにも見えない。一言じゃまとめられなくて、たくさん矛盾してる。それがユリトという人間」

 ああ、それだ、と思った。泣き出しそうになった。

 聞きたかった答えは、それだった。着飾っていないおれをそのまま、ただ真正面から見つめてほしかった。丸ごと認めてほしかった。

 ほら、カイリはずるい。

 全身に熱がともって、血がたぎってしまいそうで、息をついて目を閉じたら、体が心に正直になった。

 おれはカイリを抱きしめた。

 カイリがおれの腕の中にいる。思っていたよりも細くて小さな、しなやかな体。カイリの髪が、おれの頬や耳に触れている。

「ユリト?」

 ささやく声に呼ばれた。自分の名前が唄みたいに聞こえた。

「寂しくて怖いんだ。大人に近付いて、子どものころにはつかんでいたはずのものが、いつの間にか手からこぼれ落ちていて、記憶が消えていくみたいで、迷って。自分が誰なのか、見失いかけてた。でも、カイリは見付けてくれる。おれが誰なのか、教えてくれる」

「ユリトが誰なのか教えられる人は、ほかにもいるよ。ハルタがそう」

「違う。カイリじゃなきゃダメなんだ。カイリは、おれの見栄もプライドも、いつの間にかはがしてしまう。こんなこと、ほかの誰にもできない。たとえそれが、特別な力を使っているからだとしても」

 歌うような声がささやいた。

「わたしの力は、そんなふうには働かない。言ったでしょう。わたしにとって、人間は不思議なの。わからないことだらけ。ユリトがユリトのことをわからないと言うのと、たぶん同じ」

「じゃあ、おれが気になって仕方ない相手っていうのは、人間の女の子と同じなんだね。相手の心をのぞき込めるわけじゃなくて、相手を知るためには、言葉を重ねなきゃいけない」

 鼓動の音が聞こえる。抱きしめた体の間に、確かに響く音がある。カイリが、そっと笑った。

「やっぱり、人間は不思議。眠り方も忘れるくらい、ユリトの生命力は弱ってたのに、今はこんなに温かい」

「まだ終われないんだよ。自分を愛せるようになりたい。自分の夢を信じてみたい。夢の果てにある現実にたどり着きたい。そこでもう一度、何度でも、夢を描き続けて生きていたい。おれは、生きることをあきらめたくない」

 子どものままの自分を好きになりたい。大人に近付く自分を認めてやりたい。世渡り上手じゃなくていい。他人の理想に振り回されたくない。自分の道を駆け抜けていきたい。

 やりたいことが、生きたい道が、見えてくる。迷いが晴れたわけじゃないけれど、その濃い霧の中を突っ切っていく勇気は、この胸に確かに存在する。

「よかった。ユリトが命を手放さないでいてくれて」

 カイリの腕が、おれの体に回された。

「おれ、まだ生きてるんだよね?」

「生きてるよ。だから、奇跡を起こそう」

「奇跡?」

「命あるものにだけ、奇跡は訪れる。わたしもやっと眠りに就く覚悟ができたから、このたわむれの夢と引き換えに、ユリトの進む道に奇跡を起こそう」

 震えながら歌うような言葉に、おれはハッとして、カイリの顔をのぞき込んだ。カイリは泣いてはいなかった。ただ、静かな微笑みは限りなく寂しそうだった。

「カイリ、引き換えにするって、それは……」

 おれの唇に、カイリの唇が触れた。言葉も呼吸も吹き飛んだ。

 キスをしている。

 柔らかな感触は、あっさりと離れていく。海の色をした瞳に、おれの意識は閉じ込められる。カイリはささやいた。

「くちづけは、約束のあかし。巡り巡る時の流れを少しだけやり直して、ユリトが進んでいけるように祈るから。わたしは眠る。たわむれは終わらせる。龍ノ里島に住むカイリという娘は、役割を果たした。カイリはもう、初めから存在しない」

 カイリの瞳の青色を最後に、おれの前から色彩が消える。抱きしめ合うぬくもりも、荒れ狂う波の冷たさも、上も下も右も左も、一切の感覚が消えてなくなる。

 声だけが聞こえている。夜風を伴奏にひっそりと紡がれた歌だけが、耳ではないどこかからまっすぐに、心の奥まで飛び込んで、命と魂に共鳴する。


 しおさいさわぐ つきよのかげに

 ほしをあおげば みちるなみだの

 ゆめじをたずね まようはだれぞ


 いのちあるもの たゆたいゆけば

 いつかねむりに おちるときまで

 みみをすませて ちしおのながれ


 かぜのかなたに さやかにひかる

 きみのゆくえは とわずがたりの

 せつなにであい わかれはとわに


 ねむりねむれば いつかはあわん

 かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ

 いのちあるもの きみにさちあれ


 カイリ、やることがメチャクチャなのはお互いさまじゃないか。勝手に一人で納得するなよ。おれはイヤだ。おれと出会ったカイリが幻だったなんて、絶対にイヤだ。

「それなら、魂の奥に刻んでおいて。もしも、いつかどこかで、わたしと同じ魂の持ち主がユリトに出会ったら、間違いなく見付けられるように」

 必ずおれと出会ってよ。おれは必ず見付けるから。絶対にカイリをつかまえて、離さないから。約束、交わしただろ?

 カイリが微笑む気配があった。

 好きだと告げたかった。きみが好きだ。その笑顔が好きだ。宝物みたいに美しいこの島の、きみと出会ったこの夏が好きだ。

 すべてがいとおしいと、今、気付くことができたのに、消えていく。ただの幻のように。明け方の淡い夢のように。

 待って。どうか、どうかこの魂の奥に、想いよ、残って。

 好きだと告げたかった。

 何もかもが消えていく。何も知らなかった自分へとさかのぼって、おれは忘れていく。






「さよなら」





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