03 サイクロン

 ふと、駆けてくる足音が耳に届いた。砂を蹴って、運動場をまっすぐに突っ切ってくる足音。

 おれは、いつの間にか閉じていた目を開けた。ハルタが白いビニール袋を振り回しながら、こっちへ突進してくる。

「兄貴ーっ! 目、覚めたか?」

「ああ、さっき覚めた」

「んじゃ、とっとと起き上がれよ! 膝枕とか、見てるこっちが恥ずかしいっつーの!」

「えっ? あ、そ、そういえば……」

 カイリの太ももの感触を思い出して、一気に頭に血が上る。ずっと膝枕だった。その状態に馴染んでしまっていたおれって、頭おかしいんじゃないか? 額や髪をカイリに撫でられたのも、赤面ものどころの問題じゃない。

 おれは寝返りを打つ要領でカイリの胸を避けながら、急いで体を起こした。ハルタがニヤニヤ笑いで、おれに指を突き付ける。

「やーい、ムッツリスケベ! 学校では上品なふりしてっけど、実は普通にオトコだな、兄貴?」

「へ、変なこと言うなよ!」

「否定すんなって。勃ってたくせに」

「なっ、ば、バカ野郎っ!」

「勃って当然だろ、あの状況」

「おまえ、マジで殴るぞ!」

「やれるもんならやってみな! ま、兄貴が回復してよかったぜ。倒れるたびに、もう目ぇ覚まさねぇんじゃねぇかって、すっげー不安になるんだよなー」

 ハルタはビニール袋からスポーツドリンクを取り出すと、おれの頬に押し当てた。よく冷えている。ペットボトルを伝う水滴が、ぽたぽたと、おれの首筋に落ちた。

「大げさなんだよ、おまえは。倒れるといっても、いつも三十分くらいで目覚めるだろ」

「兄貴は倒れてるときの記憶がないからいいかもしんねぇけど、おれは毎回見てんだぜ? その三十分がどんだけ長いと思ってる?」

「あーはいはい、悪かったよ」

「何だよ、その言い方! 人が心配してやってんのに!」

 ハルタは口を尖らせた。裏表のないハルタに不満そうな顔をされると、おれのほうが気まずい。ごめんと口走りそうな唇をギュッと噛む。もともと荒れていた皮膚が割れて、舌先に鉄の味がにじんだ。

 ビニール袋には、スポーツドリンクがもう一本とコーラが一本、入っていた。ハルタはカイリにスポーツドリンクを渡して、自分はコーラの蓋を開ける。途端に、コーラが泡立ちながら噴き出した。

「おわぁっ?」

「バカだな。振り回しながら走ってきたんだから、噴き出すに決まってるだろ」

「うわー、もったいねえ! ちょっと待てよ、これ、爆発しすぎ!」

 あふれ出してやまないコーラに、ハルタは悪びれもせずに笑っている。おれもカイリも、つられて笑ってしまった。

 ペットボトルのスポーツドリンクを口に含む。甘くて少し塩辛い。ゴクリと飲み込むより先に、カラカラになっていた口や喉が水分を奪って吸い込んだ。こんなに喉が渇いていたのか。気が付かなかった。

 ハルタは全力疾走して大汗をかいたのに、飲もうと思っていたコーラが半減してしまって、物足りなかったらしい。一瞬でコーラを飲み干したハルタの前に、カイリが自分のペットボトルを差し出した。

「コーラじゃないし、飲みかけだけど、これでよければあげる」

「間接キスになるじゃん。マジでいいのか?」

 平然としてキスなんて言えるハルタは、子どもなのかバカなのか。まさかおれの知らないところで経験を積んでいるわけじゃないだろうし。

 カイリのほうも、相変わらず平然としている。

「ハルタが気にしないなら、わたしは気にしない」

「じゃ、遠慮なくもらう」

「どうぞ」

 喉を鳴らして、ハルタはカイリから受け取ったペットボトルを空にする。上を向くと、尖り始めた喉仏が目立った。

 ハルタは、おれより日に焼けている。ずっと同じくらいの体格だったはずが、最近少し、年下のハルタのほうが筋肉が目立つようになってきた。声変わりは、おれのほうが先だ。それ以外の成長がどうなのか、相部屋の兄弟でも、実は知らない。

「なーに見てんだよ、兄貴? カイリと間接キス、うらやましいのか?」

「バカ。変なことばっかり言うな」

 図星を指された。うらやましいって言葉は正解だ。ただし、うらやましい対象は間接キスじゃなくて、ハルタの開けっ広げな性格だ。屈託がなくて無邪気で、何も考えていないのに要領がいい。おれには真似できない。

 ハルタになりたいわけじゃない。ハルタはハルタ、おれはおれだ。でも、どうしても、うらやましい瞬間がある。

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