03 コースアウト

「しっかし、やっぱ暑っちぃなー。閉め切ってっと、蒸し暑くてたまんねえ」

 ハルタが手のひらで顔をあおいだ。息苦しいほどの熱気と湿気は、それくらいじゃどうしようもない。カイリも腕で額の汗を拭った。

「帰り、海に飛び込む?」

「おっ、それ楽しそう! でも、おれ、水着じゃねぇぞ?」

「水着で泳ぐ子ども、この島にはいないよ。普通の服のまま飛び込む」

「よっしゃ、それ、ますます楽しそう!」

 ということは、ハルタはまだ泳いでいないんだ。朝、おれは思いがけず、カイリに引っ張られて飛び込んだけれど。

 水は冷たかった。足の届かない深さで泳ぐのは初めてだと、海に入った後で気付いた。不格好に水を掻いていたら、力を抜けば浮くことをカイリが教えてくれた。そして二人で仰向けになって、青さを増していく朝の空を眺めた。

 海から上がったら、体が重かった。濡れたまま家まで帰って、風呂場の勝手口から中に入ってシャワーを浴びて、ベッドに引っくり返った。眠れたわけじゃないけれど、疲れた体はしばらく動かなかった。

 と。

 おれは気付いた。

「あれ……何か、おかしい……」

 さっきから汗をかいていない。暑さを感じるのに、同時に寒気を感じる。勘違いじゃない。腕に鳥肌が立っている。たぶん、体温が下がっている。

 何かひどく重たいものが、腰から背骨を伝って、肩へ、首へと這い上がってくる。

 まずい。これが頭まで上がってきたら、おれは立っていられなくなる。いつもの、あの発作だ。つかまって体を支えられるものを探さないと。

 でも、もう手遅れだ。視界がかすみ始める。呼吸が鈍くなる。つられて心臓の動きまで鈍くなる気がする。

「ちょっと、おい、兄貴っ?」

 おれの異変に気付いたハルタが駆け寄ってくる。大丈夫、と反射的に動いたはずの舌が絡まった。ハルタの目を見ているつもりなのに、焦点が合わない。

 首まで上がってきていた重くて気だるい感覚が、頭に達した。その瞬間、体を支える全部の力が抜けた。

 意識が消える寸前、ハルタに抱き止められるのを感じた。



 最初は、夜にほとんど眠れなくなった。夜中とも朝方ともいえない時間帯に、うとうとするだけだ。

 みるみるうちに体力が落ちるのが、自分でもわかった。反応速度が鈍くなった。体育のサッカーで、あり得ないほど簡単にケガをして、部活のバスケを休む羽目になった。

 寝不足でドジをやるなんてユリトらしくないと、心配しながらも笑ってくれる部活仲間に、おれも笑って返した。本当は、あせりで胸がザワザワしていた。ごまかし笑いを続けていられるうちに、ちゃんと眠れる体質に戻らないといけない。

 おれの体はどうなってしまったんだろう? なぜ、眠るという簡単なことがうまくできないんだろう?

 いや、このくらい大丈夫。まだ大丈夫。

 そんなふうに自分をなだめていたのに、急転直下だった。ある日の学校帰り、道を歩いているときに、いきなり気を失った。眠りに落ちた、というのが正しい。たまたま一緒にいたハルタが、家までおぶって運んでくれた。

 当然、親にメチャクチャ心配された。大丈夫だと言い張ったけれど、その夜のうちに二度も倒れてしまった。翌朝、おれは精神科に連れていかれた。

 精神科だよ。おれ、異常なんだ。

 悲しくなった、というのとは少し違う。ただ、張り詰めていたたくさんの糸のうちの一本が、音もなく切れた。

 おれは病院でも品行方正の優等生を演じた。問題はないように振る舞った。だけど、症状は出るんだ。夜は眠れない。その反動のように、昼間にときどき、意識を失うように唐突に眠ってしまう。

 ナルコレプシーという脳の病気が疑われたけれど、検査の結果、違うとわかった。おれの睡眠のリズムがおかしいのは、原因不明。おそらくストレスだろう、と。

 ハルタにも親にも、学校には内緒にしてくれるよう頼み込んだ。爆弾を抱えて生活している気分だった。それも長くは続かなかった。授業中、板書をしているときに倒れて、保健室にかつぎ込まれた。担任の田宮先生にも睡眠障害がバレた。

 田宮先生にも、みんなに言わないでくださいと頼み込んだ。ちゃんと内緒にするから剣持は無理をするなと言われた。そこまで無理をしているつもりはなかったけれど、はたから見たら、やせ我慢の痛いやつだったのかもしれない。また、糸が一本、ふつりと切れた。

 少しずつ、うまくいかなくなっていく。一本ずつ、糸が切れていく。昼間に突然眠っても、疲れは取れない。というより、眠ったことに自分で気付かない。

 夜は相変わらず、あまり眠れない。体力も注意力も削られていく。それでも、授業やテストや生徒会の仕事は、次から次にやって来る。立ち止まってはいられない。

 糸が、切れる、切れる、切れる。でも、おれはまだ大丈夫。最初からたくさんの糸を張って自分を吊り上げておいたから、これだけ切れても、まだ落ちないでいられる。

 こんな無茶がいつまで続くんだろう? 中学を卒業するまで? 高校や大学を出るまで? 社会人になってからも? いつか年老いて死ぬまで?

 いっそ今すぐ終わらせてみたいけれど、その方法がわからない。

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