海月と泡沫

鮭崎

凶行現場、あるいは

 森の静けさに鈍く打撃音は響いた。彼は口にガムテープを張られた髪の長い女を工具のようなもので殴っている。私はどうすることもできず、車のガラス越しにそれを見ていた。冬の夜の寒さは厳しく、彼の息が白くなるのが見えた。

「おまえか、おまえなんだろう」

 彼はうわごとのように言うと、一層力を込めて彼女を殴った。鮮血が飛び散り、車のガラスを汚し、雪を赤く染める。何度となくこの光景を見ていた。家の中にいる私をこの時だけは連れ出し、そしていつも凶行に及ぶのであった。

「なぁ、おまえなんだろう。そういっておくれよ」

 今度は懇願するように目に涙を浮かべながらそう言って、先ほどまで殴っていた女を抱き上げた。顔がぐちゃぐちゃにされた女は虫の息で抵抗すらできずになすがままになっている。いつもそうだった。

「俺が悪かった。もう終わりにしないか」

 彼はさめざめと泣きながら訴えたあと、女の意識がほとんどないことに気が付き、激昂した。言葉にならない声を上げ、工具を振りかざし先ほどより強く感情をこめて殴る。一回。二回。三回。女は完全に命を手放していた。頭蓋骨が割れた音がする。それでも彼の殴打は止まらない。四回。五回。六回。彼の生きてきた人生を清算するかのように殴り続ける。痛々しい水音だけがその空間を支配していた。私はそれを見ていることしかできない。いつも私は無力だった。

 二十回ほど殴った末に、彼はぺたりと地面に座り込んでしまう。小さく震えていて、その姿は少し前まで人を殺していた人間には見えない。涙は乾いて顔に跡をつけていた。彼はいつも殺しておきながら、女の死体を眺め苦渋の表情を浮かべるのだ。まるで愛しい人を不慮の事故で無くしたかのような、純粋な悲しみの表情をするのだった。


 唐突に彼は女を殴っていた工具で自分の頭を殴った。頭から血が流れ、コートをぬらす。私は息を呑むが、車を降りることすらかなわなく、爪でドアを引っ掻く。彼はうめきながら、地面にうずくまり、そのまま動かなくなる。風が強く吹き、木々が揺れ音を立てた。

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