柚兄様

「う、うう……。眠たい……」


 翌朝、睡眠不足の柊子は頭をふらふらさせながら女学校へ行く準備をしていた。深夜二時頃まで編み物に悪戦苦闘していたせいで、目がしょぼしょぼする。体も重たい。正直言って今日は仮病を使ってでも学校をずる休みしたいぐらいだった。しかし、真面目で小心者の柊子に風邪を引いたふりなどできるはずもなく、奉公人の少女・小梅が「朝食の支度ができました」と部屋に呼びに来るまでにすっかり身支度を整えていたのである。


「明日から冬休みなのだし、頑張らなきゃ。……行って来ます」


 柊子は、勉強机の右側の壁に飾ってある数枚の美少女画に微笑みかけ、そう言った。この美少女画を描いたのは竹久夢二という有名な画家で、少女雑誌に載っていた口絵の中で特にお気に入りの作品を柊子が切り抜いて壁に貼ったのである。


 夢二の描く乙女たちは、美しくも儚く、何気ない日常生活の所作の中に色っぽさがあり、私も夢二の絵の少女たちみたいな魅力的な女性になりたいと柊子は憧れを抱いていた。そうしたら柚兄様も私のことを大人の女性として見てくれるかも知れないのに……。


 そんな大人への憧れを持つ妹の気持ちなど知りもしない兄たちからは「壁に絵を貼るなんて子供みたいなことをする」とからかわれているが、柊子の同級生だけでなく、上級生でみんなの憧れの牡丹ぼたんさんもやっていることなので兄たちの意地悪な言葉は特に気にはしていなかった。

 柊子は、兄二人が芸妓たちの水着姿を撮影した絵葉書をたくさん隠し持っていることを知っている。あんな卑猥な物を両親の目を盗んで収集している兄たちに私の趣味をとやかく言われたくないと思っていたのだ。



 柊子は食堂へ行く前に、玄関に置かれている姿見で身だしなみを確認した。この大きな鏡は、二年前に亡くなった祖父が鎌倉の職人に作らせた特注品で、風花家の家紋が彫られた朱漆塗りの和風仕上がりの立派な鏡なのだが、身だしなみを気にする母と柊子しか使っておらず、あまり活用されていない。


「……ん。髪形、良し。リボン、良し。着物も良し」


 柊子は、髪を純白のリボンで束ねて上部や左右をふわりと膨らませ、後ろにたらすという束髪くずし――この時代の女学生がよくしていた髪形である。

 そして、銘仙めいせんの着物は淡い桃色地に色とりどりのプリムラの花の刺繍がちりばめられ、半襟は赤い薔薇の柄。袴は濃い緑の柚葉色だった。


「学校の徽章きしょうが袴の腰紐で隠れているじゃないか。きちんと見えるようにしないと、先生に叱られるぞ」


 後ろで男の声がして、柊子はムッとなった。意地悪な長兄か次兄が朝っぱらから妹をからかおうとやって来たのだと思ったのだ。


「分かってるもん。ちゃんと直すもん」


 そう言った柊子は頬を膨らませながら、背後に立っている長兄か次兄の姿を確認しようと鏡を見た。しかし、そこにいたのは――。


「ゆ……柚兄様!?」


 鏡に映っていたのは、優しげな眼差しで微笑んでいる詰襟学生服姿の柚希だったのである。

 柊子は、沸騰したように顔が真っ赤になった。柚希の前ではなるべく大人っぽくお淑やかでいようとつとめているのに、うっかり子供っぽい態度を取ってしまった……。死ぬほど恥ずかしくて、穴があったら入りたい。


「どうした、柊子? 早く直して朝ご飯を食べないと、遅刻してしまうよ?」


 柊子があわあわ言いながら固まっていると、背の高い柚希は柊子の前にしゃがみこんで、真ん中に結んであった袴の腰紐をほどき、おへそのあたりにある徽章が見えるように右脇に結び直してくれた。


 メイデン友愛女学生では、バンド型の徽章を袴の腰に佩用はいようするように女学生たちに義務づけていて、柊子たち女学生は学校の徽章がついたこの真田織のベルトをメイデン友愛女学生に所属している証だと思って喜んで身に着けている。ただ、たまにうっかり帯び忘れて登校したり、腰紐で徽章を隠していると、先生たちに怒られるのだ。現代の学生たちが学生服に校章のバッジをつけていないと叱られるのと同じである。


「ほら、綺麗に結び直してあげたぞ。……柊子?」


「あわ……あわわ……あわわわ」


 柚希は怪訝そうに柊子の紅潮した顔を見上げる。柊子はいまだに硬直していた。しかし、頭の中は、


(どうして柚兄様が私の家に!?)


(私ったら、お兄様たちだと思って、なんてはしたない態度を取ってしまったのかしら!)


(柚兄様も柚兄様よ。女の子の袴の紐を勝手にほどくなんて信じられない! 私のことをまだ子供だと思っているから、そんなことができるのだわ!)


 などと、疑問や恥じらい、憤りなど、様々な感情が目まぐるしく入れ替わり、大忙しだった。


 柚希は、本来はとても照れ屋で奥手な性格である。

 大正時代の男女は、「男女七歳にして席を同じうせず」の言葉通り、子供の頃から男女の別を明らかにして育てられてきたため、概して異性への免疫が無い人間が多いが、柚希は年の近い親族の少女たちともまともに会話できないほど奥手だった。同い年のいとこの撫子にすらよそよそしかったぐらいだ。

 そんな中、三歳年下の柊子のことは昔から実の妹のように可愛がり、柊子が兄たちに意地悪をされて泣いていたら、柊子の頭を優しく撫でて泣き止むまで慰めてくれた。

 柊子は柚希のそういう心優しい人柄に幼心にも好意を抱き、柚兄様が本当のお兄様だったら良かったのにとしみじみと思ったものだ。


 しかし、許嫁となった今では、柚希のその優しさに不安を感じるようになってしまったのである。

 自分と他の大人びた女性たちとでは、扱い方がぜんぜん違う。もしも柊子のことを女性として少しでも意識しているのなら、柚希は柊子の腰紐をほどくどころか、恥ずかしがって衣服に触れることすらできなかっただろう。

 柚希の中では、柊子はいまだにおかっぱ頭の童女なのではないか……。そう考えると、


(私は許嫁なのに……。やはり、私は柚兄様にとって妹に過ぎないの? 柚兄様は撫子姉様のことをまだ……)


 などと、考えたくない疑念が頭の中をよぎってしまう。


 柚兄様が優しくしてくれるのは嬉しい。

 でも、その優しさが、私を子供扱いする心から来ているのなら、不安。

 いくら背伸びして頑張っても、撫子姉様のような大人びた女性になれる気がしないから……。


「…………柚兄様。あ、あの……」


 柚兄様の気持ちを確かめたい。

 でも、私のことを好いてくれていますかなどと女である自分からたずねるのは恥ずかしいし、柚兄様にはしたない女だと思われたら嫌だ。


 柊子がいまだに赤い顔を着物の袖で隠しながら「あの……あの……」と呟いていると、気の長い柚希は柊子と同じ目線になるよう腰をかがめた体勢で「何だい?」と言って微笑んでくた。


(私に笑顔を向けてくれるのは、とっても嬉しい。……でも、私のことを子供だと思って……妹扱いして優しくしてくれているのなら、嫌……)


 柊子は、少し病弱で青白い柚希の整った顔を袖越しにチラチラ見ながら、そう思った。せっかく朝から会えたのに、何か話さなきゃ……。


「おい、柚希。玄関で何やっているんだ? そろそろ出かけないと、遅刻するぞ」


 なんと間の悪い兄だろう。柊子が柚希に何も言い出せない内に、柊子の長兄が現れて柚希にそう声をかけた。長兄の後ろにはまだ眠たそうにあくびをしている次兄もいる。

 柊子の二人の兄と柚希は同じ麻布の中学校に通っていて、長兄と柚希は同級生なのだ。


「君たちの支度ができるのを待っていたのに、その言い草はあんまりだなぁ。いつも遅刻ぎりぎりで登校していてる君たち兄弟のことをご両親が心配して、僕に毎朝息子たちを迎えに来てやってくれないかと頼まれたのにさ」


 柚希はクスリと笑ってあまり気にしていない様子だが、それを聞いた柊子は恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔をうつむかせた。愚兄たちは私の将来の旦那様に迷惑をかけすぎだ、と思ったのだ。


「……柊子、何か話があったんじゃないのかい?」


 柚希は少しずらして被っていた学生帽をきちんと被り直すと、柊子のことをまだ気にかけていてくれたらしく、穏やかな声音でそう聞いてくれた。


「……い、いえ。何でもありません」


 柊子はうつむいたまま蚊の鳴くような声で答えた。二人っきりの時でさえ聞けなかったことを兄たちの前で言えるはずがない。


「……そうか。何か悩み事があるのなら、いつでも聞いてあげるからね」


 ポンポン、と頭を撫でられる。

 ふわっと温かな気持ちが柊子の胸の中で広がり、柚希が家で飼っている子猫のようにゴロゴロと喉を鳴らして彼に甘えたい気分になった。

 でも、すぐに(こんな子供扱い……)と思ってしまい、柊子は顔を歪める。


 優しくされて不安になるぐらいなら、許嫁になんてなりたくなかった。


 私は柚兄様のお嫁さんにはなれない、柚兄様は撫子姉様と結婚するのだから。二人はとってもお似合いだし、私は妹のままでもいい。


 ……そう諦めていられた頃のほうがよほど気が楽だった。柊子はそう思いながら、ようやく顔を上げ、


「ありがとう、柚兄様」


 と、微笑むのだった。

 私、ちゃんと笑っていられているかしら。そう心配しつつ……。

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