第3話

 すっかり身軽になっていた。もう息切れすることも、目眩に悩まされることもない。何かのひょうしに気を失って倒れることもない。命と引き換えに肉体の限界から解き放たれ、ついに自由になったのだ。


 少女は小鳥と一緒に飛びながら町へ出た。町の上空を旋回してから、通りに舞い降りて、店のショーウィンドーを見てまわり、家々の窓をのぞいて歩いた。

 壁を通り抜けられるとはいえ、元来がつつましい性格なので、家の中まで入ることはなかった。


 だが、ある家の中をのぞいたとき、その光景に思わず動きを止めた。

 そこは彼女の家のように、あるいはそれよりももっと貧しい家だった。

 粗末な寝台に、病気の子どもが寝ていた。

 そばに付き添って、額に濡れタオルをのせたり、スプーンで水を飲ませたりしているのは、これもまだ年端のいかない少女だ。


 家の裏手の階段にもう一人、年長の少年が腰掛けていた。これはどうやら、家の中にいる子たちの兄らしい。険しい顔でじっと何事か考え込んでいる。


 少女には、彼の考えが――あたかも彼が黒板とチョークを手に持っていて、そこに文字で書きつけているかのように――よく見えた。


(医者にも診せられないし、薬代もない。このままでは、弟は今夜か明日にでも死んでしまう。なぜ、うちはこんなに貧しいのだろう。おれたちがこうして死と隣り合わせの暮らしをしている間にも、川を隔てた向こうの通りでは、金持ちが優雅に遊び歩いているのだ。たとえば角の屋敷に住んでいる金貸しがそうだ。父さんが働き詰めで身体を壊して死んでしまうと、今度は工場で働いている母さんから、残りの借金をとりたてていったっけ)

 

 と少年は考え、さらに続けて考えた。


(あいつはあこぎな商売で儲けているが、おれときたら金もない、仕事はクビになる、弟は医者にも見せられないというわけだ。ああ、そうだ、今夜にでもあの金貸しの家に忍び込んで、金を盗んでやろうか。あの男には病気の家族がいるわけじゃなし、人の噂じゃ、うなるほど貯め込んでいるらしいぞ。あいつから金貨の数枚盗んだところで、たいして困るわけでもなかろう。たしかに盗みは良くないが、しかし他にいい策もない。本気で弟を救いたいなら、そのくらいのことはやるしかあるまい。弟が苦しむのをただ手をこまねいて見ているか、盗みをしてでもおれたちが生き延びるか、二つに一つだ)


 しかし、気難しい表情はしていたものの、彼は本の挿絵のようにハンサムだった。

 少女は彼の、日に焼けた伸びやかな手足や、血色のいい林檎のような頬に憧れた。


 さらに驚くことには、こうして剣呑な考えを巡らしている間中、彼の心臓は少しも影響を受けることなく、時計のようにしっかりと規則正しい鼓動を続け、脈一つ乱れる気配がないのである。少女は彼がうらやましかった。


「ああ、あなたのように鋼の心臓に恵まれたひとは、きっと頭の中だけでなく本当に冒険できるのに違いない。水夫になったり、漁師になったり、友達と飲み明かしたり、恋人と語り明かしたり、そうしてあたしより何十年も長く生きるのね。どうか人生を危険にさらしたりしないで。泥棒になんて入らなくてもいいのよ。あたしの家にいらっしゃい。おじさまの金貨をあなたにあげる。さあはやくはやく、日が暮れる前についてきて」


 ところが、すでに盗みの計画で頭が一杯になっている少年の耳には、彼女の言葉はとどかない。

 少女は彼の周囲をぐるぐる回り、袖にぶらさがったり、髪を引っ張ったりしたが、無駄である。

 彼はむず痒そうに腕で払いのけたり、髪をかき回したりしながら、今日はなにか妙な、生ぬるい風が吹いているなあ、と思っただけだ。

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