第27話

 いつもの開店時間を大幅に過ぎたル・ブランはやはりしんと黙り込んでいて、ちょうど先日アデルが店閉めをし、出て行ったままになっていた。リュシアンの姿は……無論、どこにもない。

 自分の一部がぽっかりと欠けてしまったような感覚は変わらず胸にあったが、アデルは気付かないふりをすることにした。なにはなくとも、生きていかねば。端から順に覆い布を外し、すっかりさびしくなった店頭に品物を補充していく。

 黙々と作業をしていると、背を向けた通りから声がかかった。

「あら。ムッシュー、貴方もここの店員さん?」

 ショーケースの前に、栗色の髪をした女がひとり立っている。

 二人は知り合いではなかったが、アデルは彼女に見覚えがあった。例の事件があったとき、いつもならすぐ返事をしてくれるはずのリュシアンが、最後まで話をしていた女性客である。様子を伺うに、アデルが体調不良や外出で店を空けていた間に常連となっていたのだろう。

「アデルさんよね、こんにちは。わたし、パヴォットといいます。貴方とはあまりお話ししたことがないわ。いつものリュシアンさんは、今日はいらっしゃらないの?」

「彼は……実家へ戻っていて。今は僕ひとりだ」

 もう店には戻らないかもしれない、とは、怖くて口に出すことができなかった。彼女は言い合いの直前に店から去ったので、ふたりの間に何が起こったのか知らないのだ。ふうん、とすぐに納得すると、パヴォットは「見てもいいかしら」と一言断って、既に覆いを外していた棚を楽しそうに眺め始めた。

 変わった女である。見た目はおとなしく淑やかそうだが、店主ふたりのどちらかとのお喋りが目的ではなく、ただの買い物にひとりでやってくる乙女というものを、アデルはこれまで見たことがなかった。こう見えて案外、意志のはっきりした女性なのかもしれない、と、アデルはぼんやり考えた。

(リュシは……彼女を気に入っているようだったな)

 あのとき、話していた相手がもし彼女でなかったなら、 リュシアンはいつもどおり振り向いて、アデルと老婆へ、素直に事の顛末を説明してくれたのではないか。今更考えてもどうにもならないこととは知りながら、アデルは憶測をやめられなかった。そうすれば、あのときリュシアンが僕のいる作業台まで戻ってきてくれていれば、あの喧嘩もあそこまではこじれなかったのに、と。

 けれどあのとき店にいたのは、他でもない彼女だった。他の話し相手の誰とも違うなにかを、リュシアンはパヴォットに感じていたのだろう。

 もともと彼の知り合いの多かった街である。このまま愛想を尽かし、二度とアデルのもとへ戻ってこなくなったとしても、リュシアンは「友だち」として街の人々や彼女に会いにくることはあるかもしれない。店の仕事を気にせず、あの調子でじっくり話をしてゆくなら、彼女とは特に深い仲になるのだろう。

 もしもそうなったら――。リュシアンはきっと、アデルに注いでくれていた以上の優しさや愛情を、そっくりそのままパヴォットに与えるにちがいない。優しい言葉と温もりで心を包みこみ、二度とアデルに向けられることはないあの明るい笑顔で、目の前の乙女に微笑みかけるのだ。そうして、あのときちらりと聞いたような、アデルのちっとも知らない秘密の話や未来の話を、決して手の届かないところまでどんどん積み重ねて、どこか遠いところへ行ってしまうのだ。

 ――おれは、きみのものじゃあないよ、アデル。

 崩れ落ちたアデルに向かって、リュシアンが吐き捨てた台詞が脳裏に浮かぶ。

 アデルを孤独と絶望の淵に叩き落とした言葉が、今となっては、アデルの中のリュシアンの象徴というべきものになっていた。ああ、確かにその通りだったな、リュシアン。君は僕のものどころか、僕の人生の色のほとんどを持ったまま、遠く遠くへ去って行ってしまった。

 そこまで思い至ったとき、アデルの痛みは、にわかに鈍い熱へと転じた。

 ねえリュシアン、僕のものにならないならば、せめて、他のだれのものにもなるなよ。

 簡単な計算だ。僕たちはふたりでひとつ。僕がひとりになるのだから、君だってひとりにならねば、数が合わないだろう?

 出会う前に戻れないほど、僕の心を掻き乱しておいて、ひとりだけ他の誰かを連れて幸せになるなんて――そんなの、そんなこと、この僕が許すものか。


「残念かね、彼がいなくて?」

 髪飾りを眺めていたパヴォットの隣へ、アデルがすっと並び立った。

 冗談とも本気ともつかない調子で問いかけ、小首をかしげる青年。束の間、息を飲んだ。パヴォットは今になってようやく、彼の顔立ちがとても美しいことに気がついたのだ。

「いいえ……その、ここはいつも、他ではあまり見かけない美しいものが並んでいるから」

「ふふ、店主としてはありがたい言葉だな」

 飴色の眼をわずかに細め、アデルは蠱惑的に笑んだ。

「せっかくだから、ここから何か、気に入るものを選んでご覧よ。値段のことは気にしなくてかまわないから」

 しばしアデルに見とれていたパヴォットは、彼の指示を理解するのに少し時間がかかってしまった。あわてて飾り棚に目を落とす。先日リュシアンと話をしていたときから、ゆらゆらと長く連なった、薄紅色の小花飾りが気になっていたのだ。

「これ……かしら」

「趣味がいいな、僕も、君になら同じものをと。これは控えめだが、着け方が変わっていて、淑やかな中に芯のある知的な女性の魅力を特に引き立てると、僕は思っている。君の優しい髪色にもよく映えるはずだ」

 髪飾りを扱う指先の繊細さ。色とりどりの飾り棚を眺める、誇りと優しさに満ちたまなざし。気品のある言葉も、まるで初めて会ったパヴォットの性格をすべてわかって褒めてくれているようだ――いけないわ、しっかりするのよ、パヴォット。彼はただ髪飾りの話をしているだけではないの。

 彼の顔を見ると恥ずかしくなってしまうから、髪飾りばかり見つめていると、アデルはまたくすくすと笑った。物欲しそうな目をしていると思われたのかもしれない。

「つけてあげようか。じっとしておいで」

 囁くような甘い声音に思わずふりむけば、 目と鼻の先にアデルの顔があった。

 首の後ろへ腕を回されて驚いたが、なんのことはない。この美しい鎖のような花飾りは、こうやって後ろ髪を彩るものなのだ。玉のように白くなめらかな頬、長い睫毛が、パヴォットのために柔らかく伏せられている。ああ、きれいな彼、毎朝こうやって、わたしに髪飾りを着けてくれたらよいのに。

「綺麗だよ。パヴォット」

 髪飾りを着け終わっても、アデルはパヴォットの耳元から手を離すことはなかった。近づいてゆく距離に、今度は驚きもとまどいもない。くちびるが触れ合うとき、パヴォットも目を閉じたまま、すらりと細い背中を抱き寄せた。


 息を呑む音がする。

 パヴォットの首すじに腕を回したまま、アデルは目だけで音のした方を伺った。

「! …………どうして、」

 もう二度と戻ってこないはずだった、あの愛しいリュシアンが、夕暮れの街を背に呆然と立っていた。

「パヴォット……アデル…………?」

「リュシアンさん? 嫌だわ、戻られていたのね」

 ようやく彼の存在に気づいたパヴォットがほほを染めて、照れたように身をよじらせる。それでも、アデルの背に回した手は、そのまま離そうとしなかった。

 そんなパヴォットの様子と、アデルとを交互に見比べながら、リュシアンは寸刻絶句していた。

 そして……。

「――おめでとう、よかったじゃないか!」

 花の開いたようなあの笑顔で、朗らかにそう言った。

「ごめんよ、おれ、こんな……きみたちが……そういう、ちっとも……その、知らなくて……」

「リュシアン、リュシアン、これは」

 ちょうど日が曇って、笑顔だったはずの彼の表情は、たちまち陰でわからなくなる。明るい声は、よく聞けば小さく震えていた。

 ああ、待ってくれ、いますぐ彼のことを抱きしめて、どれほど狂おしく思っていたか伝えたい! けれど、なぜ、どうして、よりにもよって今帰ってきたのだ。僕は君の、そんな悲しい笑顔が見たくて、こんな裏切りをしたわけではないのに!

「邪魔をして悪かったな。おれは先に部屋へ戻るよ、ごめんな」

 どうとも声をかけあぐねているうち、リュシアンはアデルたちの横をするりと抜けて、二階へと駆け上がってしまった。すぐに彼の後を追えなかったのは、まだパヴォットの肌に触れたままだったからなのだと、アデルはしばらく経ってからようやく気がついた。


 *


(――何をうろたえることがあるというのだ?)

 帰ったらすぐに伝えようと決めていた謝罪の言葉もそこそこに、リュシアンは逃げるようにして住居の二階に戻ってきてしまった。

 あのパヴォットの幸せそうな顔を見ただろう。

 おれ以外の誰とも親しくなろうとしなかったアデルに、新たに心を許せる人ができたのだ。

 大切で、大好きな二人が、心を通わせて結ばれた。祝いこそすれ、悲しんだり残念がったりする理由などどこにもない。どこにもないのに。

 どうして、こんなに胸が痛むのだろう。

 リュシアンは考えに反する自分の感情にとまどい、混乱していた。いつもどおりの自分で、友だちの幸せを素直に祝えないのが、ひどくはずかしいことに思える。あわてて帰ってきたものの、ふたりにおれがこんな気持ちでいることを、気づかれていないといいが。

(――それでいいのか?)

 そこまで考えたとき、リュシアンは、当然のように気持ちを抑え込もうとしている自分に気がついた。

 不安やいらだちを、見ないふりをして押し込めて、我慢しつづけてきたから、アデルとはあんな大喧嘩になったのじゃないか。たとえ愉快な話じゃなくても、自分の気持ちは素直に打ち明けて――ああ、しかし、だめだ!

 おれが苦しくて辛いから、 アデルはパヴォットを愛していて、パヴォットはアデルを愛している。その事実は決して変えようがない。変える必要すら、どこにもないではないか。ふたりがそれで幸せなのだから!

 頭を抱えたまま、ベッドに座り込んでいたリュシアンは、ある悲壮な覚悟とともにゆっくり顔を上げた。

 笑っていよう。喜ばなくてはならない。この胸の痛みも、すとんと気が抜けてしまったような感じも、きっと何かの間違いで、気のせいなのだ。これ以上――おれの幸せだけ求めて、今さらすべてを台無しにするには、おれにはだいじなものが多すぎる。

 アデルほど頭のよくないリュシアンには、これ以上のよい方法など、とても考えつきそうになかった。

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