第19話

 リュシアンは週に二度、火曜と土曜の夜、家族の様子を見にブローニュの自宅へ戻る。よって服飾店ル・ブランの定休日は、翌日の水曜と日曜だった。

 寝静まったモントルイユの街、とある水曜日の午前零時。少し季節外れとなってしまった薄手のイギリス風コートを羽織り、帽子を目深に被ると、アデルはがらんどうとなった住居をそっと抜け出した。

 手紙にあった指定の場所は、リュシアン達の住居がある港町から大きく西にはずれた船着き場。防波堤代わりに生い茂っている鬱蒼とした森は、得体の知れぬ城主を匿うため誂えたようだった。膝丈ほどもある野草をステッキでかきわけながら進むと、よく目を凝らさなければ建物とわからないほどに薄汚れ、みすぼらしい小屋が見える。

 阿片窟、とよばれるところに、彼は生涯で初めて足を踏み入れた。


 入口に、恐る恐る手をかける。 重たい扉がわずかに開くなり、かすかに酸っぱい煙のにおいと、原因を想像したくない生理的な生臭さが鼻をつき、アデルは眉をひそめた。紫煙に霞んだ部屋の奥で、なにやらわけのわからぬことをわめきながら、手足をじたばたさせている女があるほかは、どろりと濁った目をした男女が五、六人、煙管を持ったまま死んだように臥しているばかりである。

 不意に足首を掴まれ、ぞわりと首筋が粟立つ。

「ワルテールの旦那あ……はやく、次をくれよお」

「さ、触るな! 汚らわしいっ……」

 弛緩した唇をだらりと下げた白髪だらけの男の腕を、アデルは思わずステッキで跳ね飛ばした。炙り網に掛けてあった煙管が落ち、すすのような黒い塊が数片、黄ばんだ床に散らばる。

「うちのに乱暴はよせよ、え? 貴族様」

 背後から、いやに気取った城主の猫なで声が滑り込んでくる。ワルテールは『上客』の懐から我が物顔で財布を抜き取ると、くたびれた上着のポケットから『次』をぞんざいに投げ渡した。

 襟元を正しながら、アデルは意図して目を細め、落ち着き払った、値踏むような視線で相手を見遣った。

「……ワルテール卿。この場所の管理が、貴殿の本業なので?」

「ここだけじゃあ無えさ。俺ァ他所にも幾らでも顔があるもんでね」

「腰を据えた話し合いに向いた場所とは、とても思えないな」

「ハ! 傑作だぜ、おい! 借金踏み倒してスタコラ逃げやがった腰抜けボウヤが、ノコノコ阿片窟まで来てこの俺と優雅に話し合いをしようって、ええ?」

 すこし目を伏せる。よく磨き込んだ革靴が映った。森を抜けてきたためか、泥や引っかき傷で、輝きがわずかに鈍っている。

「卿。僕は貴殿に対する、父の借金の件を無視するつもりはない。どの道屋敷は3000フランを用意する為に売りに出していたのだし、生活のための次の拠点が、偶然モントルイユへ移っただけのこと。ことについては、すまないと思っているけれど」

 顔色を伺う。疑るような表情である。しかし、それだけだった。アデルはさらに語調を強くして言い切った。

「僕は逃げも隠れもしない。金は返す、約束はきっと果たしてみせる」

「それで」

「リュシに――あの金髪の少年に構わないでほしい。僕たちの店へも、一切手は出さないで。僕は、彼の夢を守らなくてはならない。そのためならば」

 そのためならば、と一度言い淀み、唇をきつく噛む。ワルテールの目をまっすぐ見ようとしたが、どうしてもできなくて、部屋の片隅へ視線が逃げる。先ほどアデルの足首を掴んできた男が、汚れた座椅子に涎を垂らしながら、一心に自慰に耽っている。こらえきれずぎゅっと目を閉じ、金細工のステッキの柄を強く握りしめる。

 あの日に受けたはずかしめを思い出す。

 先日のリュシアンの言葉を思い出す。――震えがくるほどこわかったが、きみを守れたんなら、それがなによりだ――。

 今度は僕の番だ。どうして逃げられよう。あれほどの愛をくれた、いとしい人を守るためならば。

殿

 ワルテールは腰を折って笑い出した。

「いや、いよいよとんだ傑作だぜ、プティ! パーティーにでも行くみてえな社交服でグダグダと何をのたまうかと思やあ、なんだ、だったわけかい!」

「そうだ。僕ひとりの個人的な問題で、店の金に手はつけられない」

 鳶色のチェスターコート、ベロア地のリボン、蔦刺繍入りコルセット・ベスト。腐食しかけた木椅子の背もたれに丁寧に掛ける。

 低俗な交渉に身を落とすとも、せめて心は気高いままでありたくて、特に上等のものを選んで来た。脱いでしまえばこれらももう、アデルのことを守ってはくれないけれど。

「そんなら、はなからここに呼んで正解だったわけだ、ええ、可愛いアディちゃんよう。今いる上客様方は阿片に取り憑かれて、こんな夜更けまでしみったれた窟に入り浸ってる手遅れの連中だ。お道具のひとつやふたつ貸して、天国見せてやりゃあ、それだけでいくらでも金は絞れるだろうよ」

 不意に突き飛ばされ、よろめいた先では、来た時派手に騒いでいた女があられもない格好で失神していた。吸引が終わったらしい隣の男二人が、這うようにしてにじり寄ってくる。

「やれよ」

 無遠慮な手を、今度こそアデルは拒絶しなかった。


 仰向けに倒された彼の上で女が跳ねている。なにをすればいいのか、とアデルが悩む必要はなかった。ワルテールから直々に与えられたこの都合のよい玩具を、疑問や嘲笑や侮蔑の念さえ抱くこともなく、皆めいめい思ったように弄んだ。

 シャツやベルトと共に、僅かに残った矜持をも無慈悲に剥ぎ取る手、手、手! 恐怖で今にも叫び出しそうな己を戒めるように、血が滲むほどに強く、唇を噛む。彼らの虚ろな目は、そんなアデルの顔すらまともに捉えられていないようだった。

「痛けりゃあんたも吸えよ? コレを入れてヤるとそりゃあもう具合がいいんだ、それこそ天国が見えるぜ」

「断……る……!」

 誰にも立ち入らせたことのなかった柔い中へ踏み込まれ、荒らされる感覚にアデルは呻いた。肌の上を何匹も、巨大な芋虫が這っているようだ。脂汗が伝い落ちる感覚さえ気持ちが悪くて、泣き言を言うまいとかたく閉じていた口をついにわずかに開いてしまう。すかさず捻じ込まれたなにかに喉奥を突かれ、蛙のようなつぶれた醜い悲鳴とともに生理的な涙がこぼれた。奉仕をしろといっているのだ。

 解かれたリボンの翡翠色だけが場違いに美しい部屋だった。すべてはあのやさしい友のためなのだと、苦痛に耐えながら、アデルはただ一心に時の過ぎるのを待った。

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