アーカイブ 13『片岡三等海上保安監の記述』


まずはこの記述を読むに至った酔狂な探求者に、あるいは読まざるを得なくなった不運な公僕に詫びねばならないだろう。退官を明日に控えた私が、その立場を良いことにこの私的かつ極めて荒唐無稽な文書を公的記録に迷入させたことを心より謝罪する。


しかし私があの不可解な事件を思い返すたび、常に自責と疑念にさいなまれていたことを配慮してもらいたい。八年前の事故、すなわち21世紀のメアリー・セレスト号事件とも呼ばれたあの怪事件の終着の場にいた者として、この文書を書き残さないことは、それこそが償い難い大罪と思えてならないのだ。つまりあの年端もいかぬ少女の名誉に関して、私はある種の責務を負っていると感じるのである。


まずあの事件、正式名称『クイーン・クリスティー号消失事件』に我々の巡視船が関与したことは、全くの偶然によるものであった。もちろんかの豪華客船が1週間ほど前にその航路上から姿を消し、人工衛星を含めたあらゆる通信手段の埒外に至っていることは聞き及んでいた。しかし消失当時において、我ら海上保安官の間ですらある種の冷ややかな空気があったことは否定し難い事実である。すなわちかの偉大なミステリー作家の君谷光太郎氏が、またしても世間に大きな“ペテン”を仕掛けたのではないかと考えていたのだ。史上最大のミステリークルーズと銘打ったその豪華客船『クイーン・クリスティー』が、その処女航海中に音信不通に至ったことはあまりに予定調和めいた出来事と感じられたのだ。さらに太平洋横断中であったその豪華客船が、よもや日本領海内を主たる職域とした我々の前に姿を現わすとは夢にも考えていなかった。


その日の定期巡回は、極めて穏やかな気候であったのを覚えている。しかしその巡回の半ばにおいて、我々はその進路上に突如局地的な霧が発生するのを目撃した。その霧はものの数分で見通すことすら困難な濃霧となり、我々の行く手を阻んだ。警戒し速力を落とした我々の眼前に、そしてそれは霧の中から姿を現したのだ。それとはすなわち総トン数5万トンの大型クルーズ船の船影。けれどその有様は、我々が思い描くクイーン・クリスティとは似ても似つかぬ姿であった。錆びつき薄汚れ、海藻とフジツボの類に船底を蝕まれている。言い方を変えれば、そう、まるで幽霊船のようであった。

こちらからの無線通信、音響信号等に応答が得られなかったものの、不幸中の幸いにしてその船はいまだ浮力を十分に保っていた。しかし船内からの協力が得られないため当巡視船からは突入が困難であり、結果的にレスキューヘリからの救助隊員降下を待って我々は第二陣としての突入となった。

そして我々が目にしたのは壮麗であったであろう豪華客船とは思えぬ、荒れ果てた光景であった。窓ガラスはことごとく割れ、壁の塗装は百年の時が過ぎたかのように剥げ落ちている。だがその光景以上に我々をさいなんだのは、おそるべき悪臭であった。もちろん後にこの事故は、海底からのメタンハイドレートガス噴出による集団ガス中毒との見解が与えられることは周知であろう。

しかし私はこの場において明記する。

あの悪臭はメタンガスによるものではない。あれは我々海上保安官が良く知る、最も忌むべき悪臭。腐乱死体が放つ悪臭であった。

その悪臭からすでに乗客の末路を覚悟していた我々が見たのは、しかし予想を裏切る驚くべき光景であった。あるいは床に、あるいはテーブルに倒れ臥す無数の乗客と乗組員達。その全員に息があり、そして見る限り全くもって無傷であった。つまりまるでおとぎ話の眠り姫の城のように、彼らはその荒れ果てた船の中でただ眠っていたのだ。

そのあまりに不可解な光景を見るに至り、理解の及ばぬ、ただごとならぬ何かがこの船で起きたことを我々は悟った。

しかし私がこの事件を回顧するたびに思い出すのは、この象徴的な光景ではない。

傷一つなく救助された彼ら(のちに合計664人であったことが判明するが)ではなく、残りのたった二人。当時いまだ七歳であった少女と少年のことである。

少なくとも目につく範囲で乗客に息があることを確認すると、我々は彼らの救助をすでに到着していた後続に申し送り先へと進んだ。客室、機関部が同様に荒れ果てた内装と無傷の乗員という状況であるのを確認し、我々が最後に向かったのは貨物部であった。

甲板からの入り口を発見した我々は、錆びついたタラップを使って船底の貨物庫へと降りた。船底部のその巨大な空間には一層強い腐臭が立ち込めるとともに、積まれている荷物のうちいくつかは棚より崩れ落ちていた。見える範囲に人影はなかったものの、照明が付かず奥まで見通すことが出来なかったため、私と小山二等保安士の二人は手持ちのライトを頼りにさらに奥へと向かった。

そこは鋼鉄製の巨大な荷棚が並ぶ見通しの悪い空間だった。およそ20メートルは進み、そろそろ貨物庫の最奥に突き当たるかと思われたとき、それは起きた。我々の右前方にあった、しかし触れてもいない荷棚が崩れ、落ちてきた箱が小山保安士の肩を直撃したのだ。転倒した小山保安士を助け起こそうとしたそのとき、逆に彼が叫んだのだった。

「船長! うしろっ!!」

そのあまりの鬼気迫る様子に、私は背後を振り返りそれを見た。


斧を引きずって走り来る、血まみれの子供。


それは長い黒髪を振り乱し、まるで獣のような速さで私へと襲い掛かってきたのだ。

誓って言うが、その最初の一撃をかわせたのは私の武勇によるものではなく、己の身を差し置いて警告を発してくれた小山保安士の勇気と、幸運によるものであった。慌てふためいた私は、無様にも落ちていた荷物に足を取られ転倒したのだ。その直後、私の首があった位置を斧が風を切って通り過ぎた。その一撃の鋭さたるや、当たれば間違いなく私の首をちぎり飛ばしていたと確信させるものであった。しかしかの一撃は幸運にも私の額を皮一枚かすめるにとどまり、その恐るべき子供は勢い余って床へと転がった。けれど私が驚きのあまり悲鳴をあげることも出来ない一方で、その血まみれの子供は転がる勢いを生かしてすぐに飛び起き、今度こそ私の頭を割らんと大きく斧を振りかぶっていた。1メートルを僅かに上回る背丈の子供であったが、しかしその斧を振り下ろさんとする威容を見たとき、私は死を覚悟した。確かにそれは私の海上保安官人生で、最も死が迫った瞬間であった。乱れた黒髪の間から見えるその強烈な眼光は、私が命を奪われる側の存在であることを否応無く理解させた。

けれど、いつまで経ってもその斧は振り下ろされることはなかった。

その血まみれの子供は、別のものに目を奪われていたのだ。その少女は(私はこの時になって、ようやくその子供がかつて白かったであろうワンピースを着ていることに気付いたのだ)入り口を見ていた。正確に言えば、開けたままであった入り口から差し込む日光を。

「たい……よう……」

その子供はそう呟くと、だらりと両腕を下ろし斧を手放した。

「やっと……」

そして彼女は気だるげに私の方に目を向けると、こう言った。

「ごめんなさい、おじさま……もう、わたし、見分けがつかなくて……」

そう言う彼女の瞳からは、すでにあの強烈な殺意は抜け落ちていた。ただそこには果てしない疲労と絶望の色が残っていた。そして彼女がのろのろと取り出したのは、赤黒いまだらなシミのついたハンカチであった。彼女はそれを私の額の傷へとあてがった。

「だ、大丈夫かね……」

ようやく私が言えたのは、まるで見当はずれな言葉であった。その少女が少なくとも『大丈夫ではない』ことは、火を見るよりも明らかだった。けれど少女はこう答えた。

「わたしは、だいじょうぶ……でも……」

彼女は首にかけていた鎖を外すと、私に差し出す。鎖の先には小さな鍵がついていた。

「おくの、大きな、白い旅行かばんに……かる……くんが……」

私に鍵を渡すと、少女はそのまま前のめりに倒れた。慌てて助け起こすが、息は穏やかであった。緊張の糸が切れ、力尽きて眠りについたような様子であった。

小山保安士に彼女を任せ奥を探すと、少女が言っていたであろう旅行鞄はすぐに見つかった。白い、大型のキャリーケースであった。少女から渡された鍵でその鞄を開けると、私がその中に見つけたのは無数の紙片。そしてそれに包まれるようにして膝を抱える幼い少年であった。脱水と高熱で意識を失いかけたその少年を抱き上げると、私は急ぎ医療班を呼んだ。


これが私がクイーン・クリスティ号で体験した事件のあらましである

私が発見に至った、この幼いわずか七歳の少女と少年。666人の乗船者のうちただ彼女達二人だけが、『無傷ではない』犠牲者であった。


少しばかりの補足が必要だろう。事件捜査には直接関与しなかったものの、発見当時の責任者として私はのちに調査の最終報告を受けている。


乗船者は全員生存。病院にて無事に意識を取り戻したものの、奇妙なことに全員が事故前日からの記憶を失っており真相の究明には至らなかった。あるいは乗船者の中に何人か財政界の大物が混じっていたことが、さらに調査を困難にさせたと思われる。事故原因の最終的な公式見解としては、いくつか不合理な点があるものの『海底からの混合メタンガス類噴出による集団ガス中毒の可能性が最も高い』とのことであった。またガス中毒による昏睡の前に、一部の者達は幻覚状態に至ったことが予想され、器物損壊はそうした者達の手によるものではないかとの見解も付与された。加えてある種の有機ガスは高濃度では塗装の老朽化を早めるため、あのような船体の消耗につながったのではないかとのことであった。


あの少女と少年に関しては、特に私の方から調査報告を要求した。のちに捜査本部より私へとあてがわれた資料によれば、やはりと言うべきか、少女Kが少年Mを旅行鞄へ監禁したことは確かなようであった。しかし少女の服に付着していた血液は、彼女自身の血液のみであった。時系列を予測するならば、おそらくガス中毒で狂乱状態となった大人達を見て、恐れた子供達は貨物庫へと隠れた。しかしその後自身もまたガス中毒に至り恐怖の幻覚の中で身を守ろうとした結果、少年を恐れた少女は彼を鞄の中に監禁し、また護身目的で手に取った斧で怪我をしたものと報告書では予想されていた。

また彼女達二人は精神的外傷の治療のため精神病院へ入院中であるものの、無事に快復へと向かっているとのことであった。


まあ、この報告書を作った連中も、本気でこの仮説を信じているわけではあるまい。おそらくは何か、隠さねばならぬことを隠さねばならぬという圧力の下でこの報告を作成したに違いない。もし彼らが真実のさらに底にある真実を知った上で、この報告を作成したのなら仕方あるまい。


けれど。


私は不安を覚えてならないのだ。

彼らは本当に真実の底までたどり着いてくれたのか。


かの子供達には、精神病院よりも必要なものがあったのではないのか。


報告書を読んだのち、私が無理を承知で彼女達の精神病院を訪ねた際、かの少女達はすでに退院をした後であった。その後彼女達の行方を探ったものの、ついに突き止めるに至らず彼女達とは二度と会うことも叶わなかった。


深い後悔は残るものの、もはや退官を控えた私が出来るのはこの私的な文書を残すことだけである。真相の中の真相に至る者の一助となるべく、私は最後に私の疑問を列挙する。


彼女のこぼした言葉。

「もう、見分けがつかなくて」

彼女はいったい『何』と、私達を見間違えたというのか。

彼女が恐れていたのは、幻覚に囚われていた大人ではなかったのか。


彼女はなぜ日の光を見て、斧を振るうのをやめたのか。

彼女はまるで日光を見たことで、救助を確信した様子であった。


そしてかの少年が囚われていた鞄に詰め込まれていた、無数の紙片。

そこに書かれていた文字列を、私はその時に一文字も読んでいない。

しかしその独特の文字列の体裁を、どこかで見覚えがあると感じていた。

今ならば分かる。

あれはひょっとして聖書ではなかったか。

聖書の背表紙を切り落とし、バラとなったページを鞄に詰め込んだのではないのか。


まるであの少年を守るように。


最後に、これを書こう。

私が愚かにも借り受けたままの少女のハンカチについてだ。

私は秘密裏に、それを鑑識部の友人へと預けた。

解析の結果出たのは、二人の人間の血液であった。

つまりかの少女と、私の血液である。

それは問題無い。


問題は、人間以外。


オオカミと、カエルと、蝙蝠と、

さらにそれらどの動物ともつかない、意味不明な血液。


さて、誰でも構わない。

後続の誰かが真実にたどり着いてくれることを切望する。



あの幼き少女は、いったい何に対して斧をふるっていたのだ?


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