五冊目『ラヴィアンローズ』

運命はロマンスグレー(1)

 セレスティーヌは動転している。現在進行形で危機が迫っている。そういって差し支えなかった。

 セレスティーヌは弁明する。これは違う、不可抗力なのですと。普通の人間が考える、いわゆる命の危機というわけではない。しかし純情令嬢セレスティーヌ・リシュリューにとって、今この状況は危機と言わざるを得なかった。


「ねえ、どう? こんな感じ?」


 とぼけたようにお気楽な声が、今は張り倒したいほどに恨めしい。まったく気にする素振りもなく、サミュエルは依頼主に問いかけを投げる。銀色の綿毛に似た髪が一房、セレスティーヌの手の甲をなぞった。


「むうううう……」


 依頼主は絞り出すような唸り声をあげる。絵の具ですっかり汚れてしまったエプロンを握りしめ、ああでもないこうでもないと思案しているのだ。何かを掴みながら考え事をするのが、依頼主の癖のようだった。


「優美さが足りないんですよ。動きが固いというか。お嬢さん、もう少し自然に笑えません?」

「無茶を仰らないでください……!」


 セレスティーヌは真っ赤になって叫んだ。心の底からの悲鳴だった。

 今、彼女は地獄の淵に立たされている心地だ。「絵のモデルになってほしい」という彼の依頼に応えるまでは良かった。今回潜った本『ラヴィアンローズ』のキーマンである彼――宮廷絵師モーリスが、しかし誤算とも言える。


「騎士が姫に忠誠を誓うシーンが描きたい」と言いだし、サミュエルとセレスティーヌは言われるがままポーズをとらされる。その距離が彼女のキャパシティを超えていた。

 サミュエルがセレスティーヌの前にひざまづき、手の甲に唇を寄せる。一般的な忠誠の立て方であるが……殿方と手を繋ぐだけで恥じらうような彼女にそれがいかほどの刺激であったか、語るに及ばない。


「ひいいいいィッ!!」


 サミュエルが無遠慮に唇を押し付けたとき、セレスティーヌは悪寒のような羞恥のような、自分でもよくわからない感情に支配された。瞳を閉じるなんてムーディーな配慮を彼がするはずもなく、目の前のサンドイッチに口を運ぶように。薄い唇はそれでも血が通っていて、ほんのりとした熱がセレスティーヌの肌を焼く。

 耐えられるはずがなかった。

 セレスティーヌは奇怪な悲鳴と共に飛び退き、涙目になって宮廷絵師モーリスに訴える。


「無理、無理ですっ! 婚前の男女がいかにと言えど」

「あからさまに否定されるとさすがにぼくでも傷つくんだけど」


 サミュエルは複雑に眉を曲げて唇を尖らせる。それが先程までセレスティーヌの甲に当てられていたかと思うと、彼女はサミュエルをまともに見ることすらできなかった。


「別によくない? 口に舌つっこんだりしないし」

「ししししした!?」

「貞操が守られているのは結構ですが、これでは埒が飽きませんなあ。このお嬢さんはどんな大昔から来たんです?」


 宮廷絵師モーリスはトレードマークのベレー帽からはみ出した髪の毛をかきむしる。その表情は困っているというよりも呆れているという様子だ。


「挨拶代わりのキスは珍しくもないよ。認識はこの世界と大きく変わらないんじゃない?」

「純情な幻想に守られた処女ヴァージンというやつですか。貧民街に行ったら格好のエサですな」

「しっ……!」


 明け透けな会話が次々に繰り広げられる。セレスティーヌは顔を真っ赤にしているしかなかった。こんな下世話な話題、耳にすることはない世界に生きてきたのだから。

 いっそのこと眩暈を起こして気絶してしまいたい。セレスティーヌは割と本気で思った。


「ところで、サミュエル殿はセレスティーヌ殿とどこまで? この様子では手を繋ぐこともままなりますまい」

「ちょっと、あの、モーリスさん!」


 そして、この宮廷絵師が下世話なネタを好む品のない男であることも、セレスティーヌは短時間で理解していた。サミュエルとセレスティーヌの関係を誤解している節があり、モデルにと頼まれたのも「お似合いだから」だとか。サミュエルと会話が成立しているのが奇跡である。


「んー、手は繋ぐんだけどね。意外と怖がりだし、それ以上は近づかないけど、なかなか手を離してくれなくて」

「誤解を招くようなことを言わないでください!」

「幽霊屋敷に行ったときは怖くて震えてたじゃないか」

「そういう意味ではなく……!」

「お嬢さんは怖がりと来ましたか。これはあれですな、吊り橋効果とやらで押してしまえばイけますよ、サミュエル殿」


 万年常春頭下ネタ男とセレスティーヌがインプットした宮廷絵師モーリス。彼こそがこの世界の主人公である……という事実を、セレスティーヌは一瞬投げ出したくなった。

『ラヴィアンローズ』を救うには、彼の思いを受け止めなければならない。頭ではわかっていても、口を開けばセレスティーヌを辱しめるこの三十路男だ。果たして突破口はあるのかと、不安しか抱けなかった。

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