百万年のゆりかご(3)

 本の修復には、大きく分けて二種類ある。本のページが破けたり、傷んだりしているものを直す、いわゆる物理的な修復。セレスティーヌのようなアルバイトにもできる、図書館職員の主な仕事のひとつだ。しかし、本のなかには物理的な損傷だけではない……障気のようなものにあてられ、深く傷ついてしまったものが存在する。それを「治す」のが修復士だ。

 簡単に言ってしまえば、その本を巡る人々の感情によって本が汚れてしまうこと。本の伝えたいことが歪曲して伝えられる、いわれのない酷評の嵐、誰にも読まれなくなった墓場――そういった「本の負の感情」のお掃除をして、また読める本にしてやる。サミュエルの仕事は、そういった類のものだ。

 

「本にもね、心があるんだ」

 

 セレスティーヌがサミュエルと初めて会ったとき、彼は自身の仕事についてそう語っていた。人間と同じように、本にも心が宿る。その言葉にセレスティーヌは胸を打たれ、彼の仕事を通してそれを実感しつつあった。

 サミュエルが眼鏡をして、先程作った液体のりを本に垂らす。本の表紙は古ぼけて、背表紙は今にも剥がれそうだ。そんなところに情け容赦なく液体のりを注ぐ様は、けっして治療には見えないとは思う。しかしこれがサミュエルの「修復」だ。あとには何故かすっかり綺麗になっている。


「行くよ、セレス。ぼくの手を握って」

 

 ひんやりとした白亜の手に、セレスティーヌはそっと己の手を重ねる。セレスティーヌの女性らしいしなやかな指先とは違う。色素は薄いのに骨ばって節くれだった、男性の大きな手だ。ほぼ毎日やっていることなのに、社交ダンス以外で殿方の手に触れるということが、淑女としての教育を受けたセレスティーヌには気恥ずかしいことだった。

 そんなことを考えているうちに、ぼろぼろの本から淡い光が放たれる。そうしてサミュエルとセレスティーヌを包み込んでいく――

 

「……つきました、か?」

「うん、うまくいったよ。今日の本はどんな世界を秘めてるのかなー」

 

 目を開けていいよ、と言われセレスティーヌはゆっくりと目蓋を開く。蒼い両目に飛び込んできたのは、なんとも寂れた屋敷だった。

 紫のどんよりとした雲が頭上を覆い尽くしている。眼前にはび付いた門が軋みながら口をぱくぱくとさせる。鍵がかかって然るべきそれは、南京錠が足元に落っこちたままで役目を果たしていなかった。その先にある守りを忘れた屋敷は、幽霊屋敷と言うのが相応しい外見だ。蔦が這い、庭は荒れ、人の手が入っていないことは容易に推測できる。セレスティーヌが勤める図書館も古ぼけた外観だが、手入れがされているぶんずっとマシに見えてくるくらいだ。


「ここに、入るんですか」

 

 言外に「嫌です」と告げているようなものだったが、サミュエルには人の心を推し量る気配り能力が備わっていない。いつもみたいに溶けそうな笑顔を浮かべて頷くだけだ。

 

「そうだよ。ここに着いたってことは、ここに問題があるってことだから」

「……そもそも、今回の本はどんな話なんでしょうか」

「伝記だよ」

 

 ホラー方面の本ではなかったので、セレスティーヌは安堵の溜め息をつく。

 

「百年くらい前だったか……内戦を鎮めるために東奔西走した、行動力のある政治家。その人の生涯を綴った伝記、なんだけど」

「では、こちらはその方のお屋敷、ですか」

「そのはずだよね」

 

 外から屋敷を眺めながら、サミュエルは訝しげに呟く。

 

「にしてはなんというか、物悲しいたたずまいをしていますが……」

「それが、この本を汚してしまった原因なのかもね」

「原因?」


 負の感情に晒され、物理的ではない……いわば「精神的な」損傷を受けてしまった本には、そうなった原因がある。実際に本の世界に潜り、その原因を修復するのが修復士サミュエルだ。

 とりあえず入って中の様子を探るのが先決だ。サミュエルは迷うことなく錆びた門に手を伸ばす。ぎい、と悲しい音が鳴った。


「中も中で不穏です」


 セレスティーヌがぽつりと漏らす。外見に違わず内装も薄暗く、厚手のカーテンが外界を遮断するかのようだ。

 

「この屋敷が例の政治家の屋敷だって言うなら、その人に関わる部屋を探すべきかな。心情理解は読者のたしなみ、だし」

 

 迷いない足取りでサミュエルは螺旋階段を昇っていく。セレスティーヌは離れないように早歩きで追いかけた。

 サミュエルが開けた部屋は、二階の寝室だった。光のなかった屋敷のなかで、シングルベッドの隣に唯一の灯りが置かれている。蝋燭ロウソクがひとつ……オレンジ色の頼りない光がゆらりと揺れた。

 

「寝室?」

「ここが、一番歪みが強い」

「歪み……いつもの勘ですか」

「才覚と言って欲しいけどね」

 

 特に気を害した様子もなく、傲るもなくサミュエルはぼんやりと答える。セレスティーヌには何かも感じることはできないが、サミュエルにはこの部屋に「何か」があると踏んでいるらしい。

 

「確かに、蝋燭があるのは寝室だけのようですけど、私にわかる違いはそれくらいしか」

「その人ね、嘆いてるみたいなんだ」

 

 ベッドのシーツをなぞりながら、サミュエルが問いを投げる。

 

「セレスさ。オーギュスト・デューラーって知ってる?」

「オーギュスト……?」

 

 セレスティーヌに問いを投げるときは、本の書評や専門家たちの意見をサミュエルが知りたいときだ。彼は本に携わる者なのに、読書家というわけでもない。だから数だけで言うならセレスティーヌの方が詳しいのだ。

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