舞台裏:変われない僕達
0-A
彼女を好きになった切っ掛けは、本当に些細な出来事だった。
ある日の昼休み、弁当を食べ終えた僕は、クラスメート達がグループになって談笑する中、いつも通り一人で机に向かい、参考書にペンを走らせていた。
そこへ、一冊のノートが投げつけられてくる。
「おい、今日出された数学の宿題、俺の分もやっといてくれよ」
顔を上げれば、クラスメートの男子がヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべている。
こいつはいつもこうやって、嫌な事を僕に押しつけてくるのだ。
断れば、散々小突き回した後に「友達甲斐の無い奴だ」などと言いふらす。
――誰がお前みたいな馬鹿と友達なものかっ!
僕は心の中で唾を吐き捨てながらも、面倒になるのが嫌で黙ってノートを受け取ろうとする。
だが、僕の手よりも早く、白く細い手がノートを取り上げ、丸めて男子の頭を叩いていた。
「こらっ、宿題くらい自分でしなさい!」
親しくもない僕を庇い、生真面目な顔で怒ってくれた少女、それが彼女だった。
「痛っ! しょうがねえだろ、俺は頭悪いんだから」
「頭悪いならなおさら、自分でやらないと身に付かないでしょう!」
「はいはい、分かったよ……」
彼女の剣幕に押され、男子は渋々ノートを手に離れていった。
突然の成り行きに感謝の言葉も出ず、呆然と見上げていた僕に、彼女は微笑んでこう言った。
「休み時間はいつも勉強してるね。頭良いんだ」
そう素直に褒められ、僕は頬が熱くなるのを感じながらもそっぽを向く。
――本当に頭が良かったら、勉強なんかしないよ。
これは照れ隠しではなく、悲しく動かし難い事実。
自分が世に言う天才ではなく、勉強が出来るだけの秀才に過ぎない事は、僕自身が一番良く分かっている。
そう卑下する僕に、彼女は一瞬、驚いたように目を見開いたが、直ぐにもう一度笑ってこう言ったのだ。
「じゃあ、努力家なんだ。素敵だね」
嘘も煽てもない、純真な笑み。
それは一瞬で僕の劣等感を吹き飛ばし、替わりに狂おしいばかりの熱を生む。
やはり何も言えず、座り続ける僕に、彼女は背を向けて女友達の所へ行ってしまう。
僕はその姿を見送りながら、胸に生まれた感情の名を知る。
恋――生まれて初めて、心の底から人を好きになった。
経験のない感覚に、僕はくすぐったさと同時に、例えようのない幸福感を覚え、自然と笑みを浮かべてしまう。
だが、そうして生まれた僕の初恋は、始まる前からとっくに終わっていたのだ。
あれから数日が経ち、僕はどんどん高まる想いとは裏腹に、彼女に話しかける事さえ出来ないでいた。
けれど、授業中や休み時間にふと目が合った時、彼女はあの時と同じように微笑んでくれて、それだけで僕は胸が一杯になるのだった。
もしかしたら、彼女も僕の事を好きなのかもしれない――そんな淡い期待を抱き始めたその日、現実は唐突に残酷な事実を僕に運んできた。
体育の授業中、四百m走の計測で、散々な結果に終わった僕は、息を切らせて座り込み、彼女の姿を捜した。
二つに纏めた長い髪をなびかせ、美しいフォームで駆ける彼女の姿を見つけると、肺の痛みなんて吹き飛んでしまうほど幸せな気分になってくる。
とそこへ、隣に座っていた男子の話し声が、不意に聞こえてきた。
「え~、止めとけって」
「何でだよ? 明るくて真面目だし、何より可愛いじゃん」
恋愛話に花を咲かせる二人の視線の先に居たのは、間違いなく彼女だった。
僕は嫉妬と警戒心を湧き上がらせながら、注意深く耳を傾ける。
「だから、悪い事は言わないから止めとけって」
「まさか、お前も狙ってるのか?」
「そうじゃなくて、あいつ、他に好きな男がいるんだよ」
――一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。
頭の中が真っ白になり、思考停止する僕を余所に、二人の男子は喋り続ける。
「えっ、誰だよ!? ウチのクラス? それとも上級生か?」
「違う違う。町の外れにでかい洋館が建ってるだろ? あそこに病気で学校に来れない息子が居るんだけど、そいつと幼馴染みで、小さい頃からずっとそいつ一筋なんだとさ」
「マジで? あ~、それでカラオケとか誘っても来てくれなかったのか……」
「放課後は勿論、休みの日も毎日会いに行ってるくらいベタ惚れなんだと」
「うわぁ、超ショックだ……」
落ち込む男子にもう一人の男子が何かを言って慰めていたが、僕の耳には全く入ってこなかった。
――好きな男が、いる?
そんなの、聞いた事が無かった。言ってくる友達なんて、僕には居なかったから。
だから、僕は彼らの言葉を信じられず、信じたくなくて、その日の放課後、校門を出た彼女の後を付けて行ったのだ。
そして、聞いた通りの現実を突き付けられた。
学校のある町の中心から外れ、田舎である事を痛感させられる、人気の少ない山の麓まで歩いてきた彼女は、そこに建つ大きな門で囲まれた洋館の中に入って行く。
僕は躊躇いなく門に張り付き、隙間から中を窺った。
洋風の母屋から離れた所にある、日本風の小さな建物。
そこの縁側に、彼女と、そしてあの男が居た。
彼女は僕の視線になど気付く様子もなく、あの男に話しかける。
「……で、今日は……ね、……ちゃんが、……な……」
遠くから覗き見る僕には、話の内容までは聞こえない。
だが、その顔がどんな表情をしているのかは、嫌というほど見えてしまった。
学校ではクラスのまとめ役として引き締めている顔が、幼女のように甘くとろけ、真面目で凛々しい瞳に、悪戯っ子のような光を宿らせ、熱い上目遣いを送っている。
今まで一度も見せた事のない、見せてくれなかった、本当の素顔。
それを引き出したあの男を、彼女がどう思っているのかなんて、誰が見たって一つしかない。
信じたくなかった。いっそ、目を潰してこの光景を見なかった事にしたかった。
けれど、どれだけ否定しようとも、神様に祈ろうとも、現実は覆らない。
――そうさ、僕なんて、所詮こんな……。
気が付けば、乾いた声で笑っていた。
涙は流れなかった。流す価値さえあると思えなかった。
立ち尽くす僕の前で、彼女とあの男は親しげに話し続ける。
そこへ、あの男の妹らしい小さな少女がやって来て、彼女と口喧嘩を始める。
さらに、背の高い姉らしい女性がやって来て、妹と彼女をからかってますます騒ぎを大きくし、使用人らしい初老の女性が飼い犬と共にやって来て、困り顔でなだめに入る。
そこに広がる温かな家族の光景と、その中に彼女が居る事実に、もう僕は耐えきれなかった。
幽霊に怯える子供のように悲鳴を上げ、その場から逃げ出す。
どうせ、彼女はこの声にさえ気付いてくれないのだと、知っていながら。
暗澹とした気分で家に帰り着いた僕は、玄関を開けると、ただいまも言わすに自室に駆け込んだ。
力無く机に突っ伏し、泣いて傷心を癒そうとしたその時、ドンドンと荒々しい足音が階段を駆け上がって来る。
僕は舌打ちする――今日は父親が帰って来ていたのか。
その父親はドアを壊すような勢いで開けると、いきなり僕の胸ぐらを掴んできた。
「お前という奴は、帰ってきて親に挨拶も無しかっ!」
そう怒鳴って、僕の頭を殴りつけた。
この父親は何が気に入らないのか、僕が少しでも勘に触る事をすれば、怒鳴りつけて手を出してくる。
どうせ、ろくに高校も卒業していない馬鹿な父親には、僕の様な頭の良い子供が理解できず妬ましく、唯一優る暴力でしか自己を誇示出来ないのだろう。
そう思い、僕が倒れ込みながら睨み返すと「親を何て目で見やがるっ!」と叫んで、また頭を殴ってくる。
僕が黙ってそれに耐えていると、騒ぎを聞きつけて母親がやって来るが、暴れる父親を止める事もできず、ただウロウロするだけだった。
この病的なほど気の弱い母親は父親の言いなりで、息子を庇う事など出来やしない。
――そんなだから、浮気されても泣き寝入りするんだ。
僕は心の中でそう罵り、青い顔をした母親を睨み付ける。
父親は職場の女性社員と浮気をしていて、母親はそれに気付いていたが、父親を恐れて何も言えず、した事といえば毎日浮気相手に無言電話をかけるくらい。
僕はこの腕力以外に取り柄のない父親と、いつも怯えているだけの母親が、心の底から嫌いだった。
そして、もっと大嫌いな奴――弟が、部屋の中に入って来る。
弟は倒れた僕を庇うように立つと、勇ましく父親を諫め、優しく母親を慰めた。
運動が出来て顔も良く、なによりご立派な性格をした弟を、両親はとても気に入っている。
だからいくら頭に血が上っていようとも、弟が言うならばと父親も直ぐに振り上げていた拳を下ろした。
あまりにも違う態度に、歯噛みを禁じ得ない僕に、弟は心の底から心配そうな顔で手を差し伸べてくる。
これが全て演技なら、僕はこんなにも惨めな気持ちにならないのに、この憎たらしい弟はまるで聖者のように、心の底から僕を労っているのだ。
それがより僕を惨めにさせるとも知らず、弟は気色悪い優しい声を出し、倒れた僕を助け起こす。
父親はそんな僕と弟を見て「誰に似たんだかっ!」と吐き捨て、部屋を出て行った。
少なくとも、あんたに似なくて良かったよ――という言葉を、僕は口にしかけて止める。
何も出来なかった母親も去り、最後まで心配面をしていた弟も去った後、僕はベッドに倒れ込み、何度も何度も布団を殴りつけた。
悔しかった。こんなクズみたいな家族に養われ、何も反抗出来ない無力な自分が、惨めで情けなくて悔しかった。
そして憎かった。あんな大きな屋敷に住み、美人の妹や姉に囲まれ、学校にも行かず悠々自適に過ごしながら、彼女まで手に入れたあの男が。
――神様、どうしてあんたはこんなに不公平なんだっ!
僕は息が切れるまで布団を殴り、枕に顔を埋めて身を震わせる。
許せなかった。こんなに努力している僕が何も得られず、あんな何もしてない男が全てを手に入れる、そんな間違った事を認める世界そのものが、許せなかった。
体の奥底が真っ黒になっていくのを感じながら、僕は祈るように何度も何度も呟いた。
――彼女が手に入るなら、悪魔に魂を売ってもいいのに。
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