6-8
「戒ちゃん、あれ買って」
金魚すくいをしていた僕の浴衣の裾を、桜ちゃんがぐいぐい引っ張りました。
連れて行かれた先には、祭りの屋台の中では場違いな、アクセサリーの街頭売り。
「どれが欲しいの?」
桜ちゃんのわがままは今に始まった事じゃないので、安い物なら買って上げようと、僕は諦めまじりに聞きます。
「うん、あれがほしいのー」
桜ちゃんが指さしたのは「何で街頭で売ってるんだ!」という高そうな
恐る恐る、売り子のお姉さんに値段を聞いてみます。
するとお姉さんは困った顔で、五桁の数字を言いました。
……桜ちゃん、僕には無理です。
買えない事を桜ちゃんに告げると、おもいっきり顔をゆがめて叫び出します。
「やだ、やだー! 買って買って買ってぇー!」
大声で泣きわめく桜ちゃんのせいで、周りの皆さんが迷惑そうな顔をします。
僕は「安いやつなら買って上げるから」となだめますが、桜ちゃんは「絶対あれがいいのー!」と叫んで聞いてくれません。
僕は仕方なくお財布を開けますが、中には小銭が数枚と五千円札が一枚だけです。
これではまるで足りない上に、帰りに買うつもりだった本、『世界の幻想地図辞典』が手に入らなくなってしまいます。
でも、周りの冷たい視線と、自分も泣きそうなほど困っているお姉さんの様子に、僕は耐えきれませんでした。
震える手で五千円札を差し出します。
「それじゃなくていいですから、何かそれに似ていて、これで買える物を下さい」
そう言うと、お姉さんは少し迷ってからお札を掴んだ後、桜ちゃんが指さしたお金が足りないはずの銀の指輪を摘みました。
僕が口を開こうとすると「いいのよ」と笑って制し、桜ちゃんにその指輪を渡します。
とたんに桜ちゃんは泣きやみ、満面の笑みを浮かべました。
僕は優しい露天商のお姉さんに何度も頭を下げると、桜ちゃんの手を引いてその場を後にしました。
欲しかった本が買えなくなってしまった事は、本当に悲しかったのですが、桜ちゃんの泣き顔を見るのはもっと悲しいから、これで良かったのでしょう。
けれど、そう分かっていても落ち込んでしまう僕の横で、桜ちゃんはぶかぶかの指輪をはめては、何かを一人で言っていました。
式がどうとか、ウエディングドレスがどうとか、よく聞こえなかったのですが。
僕は気にせず歩いていたのですが、桜ちゃんは突然、左手の薬指にはめた指輪を目の前に掲げて叫んできたのです。
「戒ちゃん、ずっと、ず~と一緒に居ようね?」
頬を打ち上げ花火の光で染めながら、桜ちゃんはそんなプロポーズみたいな事を言いました。
正直に言えば、僕は結婚の事なんて分からなかったし、将来の事なんてもっと分かりませんでした。
けれど、ちょっとだけ想像してみたんです。
何十年かした後も、僕の隣に桜ちゃんが居て、今はまだ赤ん坊の鈴子も大きくなっていて、真子姉さんは相変わらず煙草を吸っていて、お手伝いの時恵さんが美味しい料理を作ってくれて、新しく犬を飼ったり、自分達のお家を建てたりして、そして、僕と桜ちゃんの間に子供が出来たりして――
僕は綿菓子を買って頬張り始めた桜ちゃんを見て言います。
「ずっと一緒に居よう」
それは多分、とても騒々しくて、とっても疲れる事だけど、とてもとても幸せだと思ったんです。
そう告げると、桜ちゃんはキョトンとして目を見開いた後、ちょっとだけ目を潤ませて、本当に本当に可愛らしく笑ったんです。
「うん、ず~と一緒に居ようねっ!」
捨てられた校舎の、雑草の蔓延る校庭で、柘榴は門番として置かれていた十数体の屍鬼を破壊し終えていた。
吸血鬼と違い、死しても灰になる事がない屍鬼の残骸を掻き分け、ガラスの破れた校舎の入り口に手を掛ける。
(この先に進めば、もう後戻りは出来ない)
そんな弱気を噛み殺す様に、柘榴は扉を壊して開け、その後にU・Dも黙って続く。
幽霊でも出そうな真夜中の廃校舎の中には、真実、幽鬼が潜んでいる。
赤銅の狩人は自分でも分からない直感で、教室を探索する事もなく、自然と屋上に向けて階段を上って行った。
二階、三階と上がり、後一つで屋上という所で、廊下に立っていた人影に気付く。
汚れた学生服を着て、長い髪を解いた少女、岡本桜が、恋した男を待っていた。
化け物を狩る狩人となった青年と、吸血鬼という化け物になった少女。
二人は向き合い、喜びと哀しみを混ぜた笑みを浮かべ合う。
「久しぶりだね、戒ちゃん」
「あぁ、七年ぶりだな、桜」
古い友と再会した様に、当たり前の様に名を呼び合う。
そして、柘榴は桜の姿を見て、記憶の中と何もかもが同じである事に、改めて顔を曇らせた。
「桜は、変わってないね」
「うん、シミやソバカスが出来ないのは嬉しいけど、背も胸を全然大きくならないんだよ」
桜は慎ましやかな自分の胸に手を当て、恥ずかしそうに頬を染めた。
そんな、当たり前の少女の仕草が、柘榴の胸を刺す。
「俺は、変わったよ」
「そうだね、背も大きくなったし、自分の事『俺』って呼ぶようになったんだ」
背伸びをする子供を見る様な目をして、桜は口に手を当てて笑う。
そんな姿の全てが、柘榴の知るものと何も変わっていなくて、それこそが、彼女が吸血鬼になってしまったのだという事を証明して、痛い。
人間は生きていれば、新しい事を覚え、古い事を忘れて、変わっていく。
それは悲しい事でもあるけれど、同時に、成長という飛躍の可能性でもある。
だから、もし永遠に変わらない者が居るとしたら、それは死人だけ。
死んで、成長も老いも忘れ、変わる事が出来なくなった、生きていないモノ。
鋼鉄にも近い鬼の外皮であっても、決して防げぬその痛みに、柘榴は胸を掻きむしり、そこへ桜が透き通った声で告げる。
「戒ちゃん。私ね、人を殺したよ」
聞きたくなかったその事実に、柘榴は折れるほど歯を噛みしめる。
「最初に殺したのは小さな女の子。涙を流して、顔をクシャクシャにして、『助けて、助けて』って何度も言ってたけど、私は喉が渇いて渇いて仕方なくて、その子の首に牙で噛み付いて、血を全部すすって殺したの」
そう告げる桜の顔には、柘榴が今までに見た事のない能面が浮かんでいた。
喜びも哀しみも、熱も冷たさも、何もない
まるで
「私は殺したくなんかなかった。でも、そうしないと私が死んで――いや、もう死んでるからこの言い方は正しくないね――私が、存在出来なくなっちゃうから、その為に辛くて怖かったけど、女の子の血を呑んで殺したの。ねぇ、これって悪い事なのかな?」
その重大な命題に、柘榴は伏せていた顔を上げた。
生きる為に、自分の存在を維持する為に、止むを得なく他の生命を殺す。
食事と言われるその行為、それ自体に罪は無いと言えた。
「悪くないよ、悪くはないけれど」
けれど、その食料が人間という同胞であるならば。
「許す訳にはいかない。俺は人間の味方だから、狩人だから」
そう答えて、柘榴は人に仇為す怪物を狩る、赤銅の仮面を被る。
かつての幼馴染みを、この手に掛ける事などしたくない。
だが、ここで彼女を見逃せば、柘榴は狩人として生きた七年間、その全てに背を向ける事になる。
人間の正義という名の下に、化け物を殺し続けてきた半生。
泣きわめくモノもいた、命乞いをするモノもいた、邪悪なモノもいた、悪と言い切れぬモノもいた、罪深いモノも、罪の無いモノもいた。
だが、どんな化け物も、必死に生きようとしていた点だけは一緒だった。
それを殺した、躊躇なく、慈悲なく、狩り滅ぼしてきた。
そして時に、ただ不幸な、化け物に巻き込まれた同じ人間さえ犠牲にしてきた。
正しいなんて言えない、太陽に胸を張る事なんて出来ない、ただ傷と業を重ねるだけの、辛い生き方だった。
だがそれでも、化け物なんかとは関係の無い、ただ平凡で幸福に生きようとする、かつての自分達と同じ人々を守る為に、それだけを支えに、鬼となって剣を振り続けてきた。
それだけが柘榴の正義だった、貫かなければならない信念だった。
(ここで
胸の内で叫びを上げ、柘榴は自らの迷いを振り払う為に、断首刀を目の前にかざす。
それを見た桜は顔を伏せ、前髪で目を隠して呟いた。
「……そっか、戒ちゃんは私を殺すんだね」
問いですらないその声に、柘榴も無言を以て答える。
耳が痛くなるほどの静寂が続き、長い数秒が過ぎた時、桜は顔を上げた。
弧月の様に引き上げられた口と、愉悦に濡れた光る瞳。
またしても、柘榴が一度も見た事のない表情で、その吸血鬼は告げた。
「ねぇ戒ちゃん、鈴子ちゃんの血は、どんな味がするんだろうね?」
七年前の事件で、ただ一つ残された大切な家族。
その妹さえ喰らうと告げる桜に、柘榴の感情が爆発した。
「さくらぁぁぁ―――っ!」
咆吼が満月に濡れた廊下に響き、幼馴染み達の殺し合いが幕を開けた。
突進する柘榴を迎え撃つ桜の両手には、大きな戦闘用ナイフが握られている。
右腕には五十㎝を越える攻撃用の物、左手には短めで
桜はその二つを使い分け、暴風の如き断首刀の斬撃を受け流した。
目標を逸れた鉄塊が校舎を粉砕し、瓦礫が舞い上がる中で、女吸血鬼の姿が柘榴の目の前から消える。
何処だ?――と目を動かすよりも早く、長年の戦いで鍛えられた第六感が、断首刀で頭を庇っていた。
そこへ、天井を踏み台に加速した、桜のナイフが振り下ろされる。
金属の火花が上がり、唇が触れ合うほど接近するのも一瞬、桜は柘榴の胸板を蹴って大きく後退する。
超重量の鬼には真似の出来ない、身軽な吸血鬼だからこそ可能な三次元闘法。
「映画の真似をしてみたんだけど、結構簡単だね」
軽口を叩く桜に、柘榴は舌打ちをして答える。
その音を皮切りに、剣風の嵐が再開された。
柘榴は一撃必殺の断首刀を振り回し、桜はそれを容易に避け続ける。
持久力の勝負となってくれば、小柄な分エネルギーの消費が少なく、疲れを感じない吸血鬼の方が断然有利。
そう見て桜の顔には余裕が浮かぶが、それは一瞬で覆される。
頭を潰しに来た薙ぎ払いを、僅かにしゃがんで回避した桜は、反撃に移ろうとした直前、その足を宙に浮かされていた。
断首刀の攻撃に目を慣らせていた柘榴が、下段蹴りで両足を払ったのだ。
宙に浮き、最大の武器である機動力を奪われた桜が、廊下に背から落ちる僅かの間に、柘榴はその心臓目掛けて鉄塊を振り下ろす。
秒にも満たない刹那、止まった時間の中で、青年と少女は瞳を交わす。その中で――
桜は、笑っていた。
校舎を揺るがす轟音が響き、断首刀が――桜の横の、廊下に突き刺さっていた。
仰向けに倒れた少女に、赤銅の鬼は馬乗りになって覆い被さりながら、その胸に顔を押し付けて吼えた。
「殺せる訳ない……僕に桜が殺せる訳ないだろっ!」
柘榴は――藤乃戒は、七年間の殻を投げ捨てて、子供の様にただ泣き叫んだ。
桜がただの殺人鬼に成り果てていれば、彼は狩人として迷い無く殺せたのだ。
けれど、彼女は岡本桜だった。
強引で、人の話なんて聞かなくて、でも優しくて、藤乃戒をずっと好きでいてくれた、幼馴染みの少女であり続けていた。
「正義なんて知らない、狩人なんて辞めてやる、他の人間がいくら死のうと知った事かよっ! ……桜が好きなんだ、大好きなんだ、ずっと一緒に居たいんだよっ!」
どれだけの人に罵られようと、自分の信念にさえ背を向けようとも、決して捨てられなかった想い。
七年越しに、ようやく戒の口から伝えられた告白に、桜は頬を染め、今までで一番幸福な笑みを浮かべながら、でも優しく首を横に振った。
「ごめんね戒ちゃん、私もう死んでるんだ。もう一緒に、生きる事は出来ないんだよ……」
そう告げる桜の顔も、戒と同じで涙に濡れていた。
彼の紅い手を取り、自分の胸に押し付けながら少女は言う。
「分かる? 吸血鬼も心臓は動いているんだよ。自分で考えて、自分で動けるのに、死んでいるから変わる事だけが出来ないなんて、酷いよね?」
問う声は、戒に向けられたのか、自分に向けられたのか、それとも吸血鬼なんてモノを産み出した呪わしい世界に向けられたのか。
桜は溢れる涙を拭いながら、自分もまた想いを告げる。
「私も戒ちゃんが好き、大好きだよ、ずっとずっと、永遠に大好きっ!」
その言葉に嘘は無い。かつて桜の両親は愛を忘れてしまったが、彼女は戒への愛を忘れる事がない。
死んでいるから、変われないから、本当に永遠に、その存在が消えるまで、岡本桜は藤乃戒を愛し続ける。
「けどね、死んでるから駄目なの。戒ちゃんと一緒に、お日様の下で散歩する事も出来ないの。また一緒にお祭りに行く事も出来ないの。戒ちゃんの、子供を産む事も出来ないんだよ……っ!」
自分の両親は失くしてしまった想いを、彼女は永遠に失くす事がなくなった。
けれどその代わりに、夢見た幸福な世界を、永遠に失くしてしまった。
「辛いよ! 苦しいよ! 痛いよ! 怖いよ! 殺しちゃった女の子がずっと呟くの、『血を返して』ってずっと呟くの、眠っても耳を塞いでも、ずっとずっと耳元で呟くのっ!」
七年間、人を殺してしまった罪に、ずっと苛まれ続けた桜。
七年間、人でなくなってしまった事に、ずっと怯え続けた桜。
七年間、人に殺されないかと、ずっと恐れ続けた桜。
七年間、人であった時から、ずっと戒を愛し続けた桜。
摩耗して忘れる事さえ出来ず、苦しみ続け、これからも苦しみ続ける未来を思い、少女は恋した少年に願う。
「戒ちゃん、私を殺して」
濡れた瞳を見開く戒に、桜は微笑んで別れを頼む。
「戒ちゃんに殺して欲しい、戒ちゃんじゃないと嫌だ。私がこれ以上誰も殺してしまわない内に、戒ちゃんの手で終わらせて欲しい」
残酷とも言えるその願いに、戒は苦渋を押し潰し、笑って頷いた。
全てを敵に回してでも、共に逃げる道もあったのだろう。
自分と同じ、怪物の体になっても、人間の心を守りきった彼女と、どこまでも。
けれど、それが彼女の選んだ答えだから。
変われない彼女の、変わらない願いだから。
彼女を救えなかった自分が、救えない自分が出来る事は、最後のワガママを叶えて上げる事だけだから。
「殺すよ、桜」
「殺して、戒ちゃん」
青年は告げ、少女は願い、最初で最後の口づけを交わす。
永遠に近い一瞬が過ぎ、二人の顔が名残惜しく離される。
そうして、赤銅の腕が持ち上げられ、その胸に振り降ろされた。
乳房を引き裂き、肋骨をへし折り、その下に隠されていた心臓を掴む。
脈打つ冷たいそれに、青年は一瞬躊躇するが、吐血する少女の顔を見て、残っていた迷いを捨てた。
果物を潰す様な小さな破裂音。それで、長い悪夢は終わった。
少女は足元から灰になって消えていくさなか、その左薬指に填められた物を掲げ、最後の言葉を告げた。
「約束、守れなくてごめんね」
謝罪と、微笑みだけを残して、少女は無へと消えた。
その跡に残ったのは、薄汚れた服と、叶えられなかった約束の証。
月光を浴びて輝く銀色の指輪を、青年はその胸に抱き締めた。
そして、狩人として生き、戦い続けた生涯において、たった一度の慟哭を上げる。
紅の鬼が、泣いた。
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