6-5

「ねぇ、ボール取ってくれる?」


 それが、少年が最初に聞いた少女の声だった。

 屋敷の縁側に座り、何をするでもなく呆けていた彼の足下に、塀を越えてサッカーボールが飛んで来て、それを追って彼女が現れたのである。

 少年は無機質な瞳で少女とボールを交互に見ると、丁寧に拾って手渡してやった。

 無言でぶっきらぼうな親切に、少女はタンポポの様に微笑んでその手を握る。


「ありがとう。ねぇ、あなたも一緒に遊ぼう!」


 そのまま強引に手を引かれ、少年は初めて屋敷の外に居る人と出会う。

 無口な彼を他の子供達は最初恐れていたが、それも強引で元気な少女の架け橋で直ぐに解消され、少年達は日が暮れるまで仲良く遊び続けた。

 夕焼けにカラスの声が響き始め、子供達が散り散りに解散し始めた時、少年は初めて寂しいと感じ、自分がこの時間をとても楽しんでいた事を知った。

 細めた目で、去り行く一日だけの友を見送る彼に、彼女が改めて尋ねる。


「ねぇ、あなたのお名前はなんて言うの?」


 そう聞かれて初めて、少年は自分が名乗っていない事を思い出し、同時に少女の名も聞いていない事を思い出した。

 名も知らぬ相手とこんなにも仲良く遊べた彼女に、彼は嫉妬に近い憧れを感じながら、自分の名前を告げる。


「戒だよ、藤乃戒」

「へぇ~、戒ちゃんって言うんだ。私は桜だよ!」


 少女――岡本桜も名前を告げ、少年――藤乃戒と握手を交わす。

 小さな温もりが触れたのも一瞬、桜は手を解くと背を向けて駆け出した。

 戒は置き去りにされた子犬の様な顔でそれを見送り、自らも帰路に着く。

 その背に、振り返った桜の大声が響いた。


「戒ちゃん、また明日ね~っ!」


 また明日。その意味が胸に染み込んで来ると同時に、戒もまた元気に声を返していた。


「桜ちゃん、また明日会おうねっ!」


 この楽しかった日が、今日だけじゃなくまた明日も、そのまた明日も続くのだと知り、戒は悲しくもないのに涙を流す。

 赤く染まる町並みで、少年と少女はいつまでも手を振り合い、始まった時を惜しんでいた。





「ごめんなさい……戒ちゃん、ごめんなさい……許して戒ちゃん……」


 暗闇に包まれた戒の耳に、許しを請う桜の泣き声が響く。

 屋敷の隅にある土蔵の中、まるで牢屋の様にはめられた木の檻を挟んで、二人の子供は向かい合っていた。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい……嫌わないで戒ちゃん……」

「気にしないで桜、いつかはこうなる事だったんだよ」


 いつまでも詫び続ける桜に、戒は幽閉された自らの身も顧みず、その涙を拭って慰める。

 切っ掛けは実に些細な事。いつもの様に公園で遊んでいた桜達が、誤って二人の高校生にボールをぶつけてしまったのだ。

 高校生達は別に不良でもなかったが、受験や部活やらのストレスが堪っており、そこに子供とはいえボールをぶつけられ、ついカッとなってしまったのだろう。

 謝る子供達を蹴り飛ばし、「返して」と叫ぶ声を無視してボールを取り上げ、憂さ晴らしに虐めて泣かせてしまう。

 彼らにしてみれば、ちょっとからかって遊んだだけの事なのだろうが、まだ小学校も半ばの子供達にしてみれば、高校生は怖い大人であり、抗えない恐怖の存在だった。

 本当に怖くて桜達が泣き出したその時、戒が遅れてやって来た。


「戒ちゃん……うわあああぁぁぁんっ!」


 自分に喜びを与えてくれた幼馴染みの少女が駆け寄り、胸に抱き付いて泣き叫ぶ。

 そして、それを小馬鹿にした目で見下す二人の青年を視界に入れた瞬間、戒の中で何かが切れた。


「貴様らぁぁぁ―――っ!」


 咆吼を上げて襲い掛かってきた少年を、二人の高校生は半笑いで迎える。

 自分達より頭二つは低い小学生がどんなに暴れようと、痛くも痒くもない。そう彼らは誤解してしまったのだ。

 当然であろう、目の前の少年が見た目に反し、自分達よりもずっと重く強い『鬼』である事など、知るはずもないのだから。

 戒が全力で繰り出した拳を、片方の青年が軽々と受け止めようとし、土砂を撒き散らして吹き飛ばされた。

 それを呆然と見送った残りの方も、胸に拳を叩き込まれ、肋骨から鈍い音を立てて地面に崩れ落ちる。

 騒ぎを聞いて大人達が駆け付けた時、二人の高校生は瀕死の重傷を負って戒の前で這い蹲っていた。


 病院に担ぎ込まれた彼らは何とか一命を取り留め、資産家である藤乃家が多額の慰謝料と口止め料を払った為、事は公にならずに済んだ。

 だが、当時の藤乃家当主、藤乃壱夜ふじのいちやは事態を重んじ、戒を屋敷の土蔵に監禁して、世間から隔離する事を決めてしまう。

 元から己の異常な体質を知っており、いつかこうなると覚悟していた戒は大人しく従ったが、事の一端となってしまった桜は違った。

 決して彼女のせいではないのに、自分のせいで戒が罰を受けてしまったのだと思い込み、彼の前で贖罪の涙を流し続けた。

 両親の制止も振り切り、毎日毎日泣いて謝りに来る桜の姿に、戒は自由を奪われた事よりも、もっと大きな痛みを感じて胸を掻きむしる。


「ねえ桜、どうか泣かないで。僕は本当に気にしていないんだ」


 どんな慰めを口にしても顔を上げない桜に、戒は本当の気持ちを打ち明ける。


「僕は桜に救われたんだ。桜に会うまでは楽しい事なんて無かった、桜に会って僕は笑える様になったんだ。だから、桜さえ居てくれれば、僕は何処でだって幸せなんだよ」


 偽りのないその告白に、ようやく桜は顔を上げて戒の瞳を見つめる。

 白の虹彩と青の瞳孔。不気味な色彩のそれは、何よりも温かく微笑んでいた。


「戒ちゃん……戒ちゃんっ!」


 桜は先程までとは違う涙を流し、木の檻越しに戒を抱き締める。


「ずっと一緒に居るから、私は戒ちゃんを一人になんかしないから! 約束だよ、絶対に絶対に戒ちゃんを幸せにしてあげるから……っ!」


 桜は自らも告白を返し、小指を差し出す。

 薬指には銀色の指輪が填められた桜の左手に、戒は自らの指を絡ませ、幼い約束を再び誓い合ったのだ。





 青白い月明かりの下で、死んだはずの幼馴染みと再会した柘榴の頭は、理性と感情の渦で焼き切れそうになっていた。

 理性は言う。村を襲った吸血鬼、七年前からまるで変わらぬ姿、自分の目の前で殺されるも、死体は発見されなかった彼女。なら、答えは一つだろう?

 感情は言う。嘘だ、何かの間違いなのだ、目の前に居るのは、良く似た別の何かだ。

 理性は嘲笑う。他人の空似なものか。捨てた自分の名を知る者が、家族の他に何人いると思っている?

 感情は願う。なら生きていたんだ。経緯は分からないけど、彼女は生きて――

 理性は蔑む。良く見ろよ。十五歳だった頃から七年も経っているのに、彼女は背も、髪も、体型も、何もかも、一㎜たりとも変わっていない。そんなモノは死者しか――

 感情は泣く。駄目だ、駄目だ、駄目だ。それを認めてしまったら、俺はこの手で彼女をころ――

 狩人としての赤銅柘榴が、幼馴染みとしての藤乃戒が、せめぎ合い、罵り合い、正と負の感情が入り乱れ、見えない炎が柘榴の体を焼き尽くす。

 指一本動かす事が出来ず、ただ見つめ続ける柘榴に、桜は、女吸血鬼ヴァンピールとなった岡本桜は、ただただその名を呼んだ。


「戒ちゃん……戒ちゃんだ、戒ちゃんだよっ!」


 長い時が過ぎ、変貌してしまった自分を見間違える事もなく、愛おしげに呼ぶその声に、柘榴は絶望の味を噛みしめていた。


(もう誤魔化しようがない、目の前に居るのは桜だ。自己中心的で、勝ち気で、でも親切で、可愛くて、両親の離婚に心を痛めていた、俺のたった一人の幼馴染みだった岡本桜。そして、彼女は生きた人間じゃないんだ……)


 苦い、苦いその味に、柘榴は歯を食いしばり、血が出るほど拳を握りしめる。

 だが動けない。彼女の名を呼び返す事も、抱き締める事も、その脳と心臓を破壊して灰に帰す事も、何も出来なかった。

 そんな柘榴に、桜が一歩踏み出そうとして――その後ろに、黒い影が降り立った。

 何をしたのか、力を失い倒れる桜を抱えたその影は、黒い学生服を着た少年。

 その姿を、たった一度しか見た事のないそいつを、柘榴は忘れる筈がなかった。

 死が充満した公園の中心で、彼女の命を奪い、自分達の平穏を壊した全ての元凶、虐殺嗜好の吸血鬼。

 かつてと同じ様に桜を抱えたそいつは、やはり同じ様にその喉を鳴らす。

 耳に蘇る甲高い嘲笑。それに、赤銅の体が爆発した。

 幼馴染みとの予期せぬ再会によって混濁していた意識が目覚め、理性も感情も満場一致で目の前の少年を抹殺せよと叫ぶ。


 ――殺せ、滅ぼせ、塵も残さず、灰になるまで、斬って潰してこの世から消し去れっ!


 憎悪と殺意に埋め尽くされた巨体が、三百㎏を超える重量とは思えない瞬発力で飛びかかり、断罪の鉄塊を振り下ろす。

 だが、怒りに任せた一撃は公園の土砂を派手に巻き上げただけで、吸血鬼の少年も、その手に囚われた幼馴染みの少女も、傷付ける事なく空振りした。

 桜を抱えたまま、柘榴の突進を跳躍して回避した少年は、そのまま背を向けて走り去ろうとする。


「逃すかっ!」


 柘榴は大気を揺るがす咆吼を上げ、追跡しようと足を踏み出す。

 だがその背後から、闇を照らす閃光と、耳を劈く爆発音が響いた。

 振り向いた柘榴の目に映ったのは、残してきた少女、U・Dが居た方向から火の手が上がっている光景。

 それは間違いなく、彼女の危険を知らせるものだった。

 柘榴はU・Dの待つ方向と、それと反対の桜が連れ去られた方向を見て逡巡する。

 しかしそれも一瞬、赤銅の狩人は助けを待つ相棒の方へと駆け出した。


「畜生、畜生、畜生、畜生、畜生っ!」


 二人の少女の笑顔と、嘲笑う少年の顔が脳に浮かび、柘榴は何度も何度も呪いの言葉を吐きながら、ひたすらその足を動かし続けた。

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