鬼還奇譚

七町藍路

第1話 春を乞う 一

 旧街道は難所が多い。

 連なる山を越え、崖を進み、森を抜けるその道は、海沿いの街道が整備されてからは通る者もおらず、草木が生い茂る荒れた道と化していた。無造作に伸びた雑草をかき分けて、辛うじて分かる道を歩けば、露に足は濡れ、顔には蜘蛛の巣がかかる。こんな道を通るのは、旧街道沿いの寂れた村に住む者達か、分岐を細いほうへ進んだ山奥にある里に住む者達か。あるいは特別な用事でもなければこの先へ進もうという気力さえ湧かない。これはそういう道なのだ。

 そして志麻もまた、特別な用事で訪れる者だった。

 志麻は峠に立ち、眼下に広がる集落を見た。この里は四方を山に囲まれ、そこにあると知らなければ見逃してしまいそうなほどに小さな集落だ。今まで任務で訪れた場所の中でもとりわけ辺境にある。いくつも山を越え、小川を渡り、森を抜けてきた志麻の軍服はすっかりと泥だらけになっていた。肩口の枯葉を払い落とせばひらひらと、枯草の中に見えなくなった。吐いた息が冷えた虚空に紛れた。

 山が死んでいる。

 長い冬の眠りから目覚めないままに、山が生命を失っていた。音もなく、色もなく、ひっそりと。森の木々は静まり返り、染み出す水が濁って流れ、足元の枯葉は厚く積もったまま踏まれた跡もない。獣も虫も、ここにはいない。訪れる者も出ていく者もいない。閉ざされた世界がそこに眠っていた。

 道中の山々には確かに春の気配があった。しかし、このあたりは気温が低く、いまだ春の訪れは感じられない。そうかと言って、真冬の寒さでもない。冬にしては暖かいが、春にしては寒い。季節が動かないまま置き去りになっている、志麻はそう感じた。

 静かな森を抜けると視界が開け、里に出た。

 田畑の中に家屋がぽつぽつと建ち、畑を耕す者達が道行く志麻を珍しそうに見ている。余所者であるから、皆が志麻を怪しむだろう。それに加えて、軍服の志麻は目立つ。帝都では洋装も珍しくはないが、このような田舎ではまだ殆ど広まっていない。しかし、人々の視線に強い敵意は含まれていない。むしろ、何かを期待しているような視線だ。

 流れる小川の先には大きな屋敷が見えた。里の者達の好奇の眼差しを無視し、志麻はその屋敷へと向かった。里には花が咲いていない。春が、その気配さえ失っている。僅かながら芽吹いている様子の草もあったが、それが春の花か、秋冬の名残なのか、果たして志麻には分かりかねる。この先、小さな芽が育つかどうか、今はまだ何とも言えない。だが、時が止まってしまった里をどうにかするというのが、志麻の今回の任務だ。

 苔むした屋根が屋敷をいくらか重厚に見せていた。屋敷の門をくぐると、使用人であろう老婆が志麻を待っていた。老婆は白髪交じりの頭を深々と下げて、その場で待つように言い残し、屋敷の奥へと去って行った。残された志麻はあたりを見回す。庭の手入れは行き届いている。だが、ここにも春の気配はない。とっくに開いているはずの梅の花も、蕾を固く閉ざしたままだ。空を見上げれば鈍色が広がり、暖かい日差しは届かない。この里の一帯だけが灰色の中にあるようだ。

「どこもかしこも、このような有様でして」

 梅の蕾をじっと見ていた志麻は背後から掛けられた声に振り返った。声の主は里の長で、老いた体を太い杖で支えていた。けれども声は良く通り、その眼差しにはまだ鋭い光が宿っている。

「遠くからようこそいらっしゃいました。遥々、これほどの山奥まで」

 会釈をした長につられ、志麻は軽く頭を下げた。

「オニカエシというものが、どのような方々なのか我々には分かりませんが、もう貴方しか頼れる人がいないのです」

 気丈に振る舞ってはいるものの、長の声には疲れが滲んでいた。

「どうか、この里に春を取り戻してください」

 志麻は頷いた。

「オニカエシとは。その名の通り、鬼を還す者だ」

「里の異変は鬼の仕業なのでしょうか?」

「それは調査しなければ分からないが、オニカエシが扱うのは何も鬼だけではない、人間の生活のそこかしこに妖の力が加わっている。その奇々怪々な者どもの力を抑え、人間との共生を図ることが我々の仕事だ。あるべき場所に還す、それがオニカエシの存在する意味だ」

 それにしても、と志麻は門の外に視線を投げた。

「峠の向こうの宿場町でもこの集落のことは噂ひとつ聞かなかったが」

「なにぶん、外の報せがなかなか入ってこないほど道も廃れた辺鄙な土地ですので……」

 長がそう言ったように、海沿いの新しい街道が出来てから人の流れが変化した。旧街道は寂れるばかりで、無人になった集落もあると聞く。帝都では西洋化が進んでも、このような土地は時代の流れに取り残され、ゆっくりと消えていく定めにあるのだろうか。

「ここへは、おひとりで?」

「いや、荷物を持った部下が一人、あとから来る手はずになっている。今晩か、明日の朝にでも着くだろう」

「滞在中はどうぞこの家をご自由にお使いください」

「ありがたい言葉だが、まあ、もう少し里を見てから決めさせてもらうよ。場合によっては山で見張ったほうが良いかもしれないからな」

 志麻は長に連れられて里をぐるりと一周した。志麻に向けられる珍しいものを見る目はそのままだったが、里の者達の視線はさらに期待が増していた。長と歩いていることで、この状況をどうにかするために招かれた客人であると判断されたのだろう。耕したところでどうすることも出来ないような畑の中で、泥にまみれながら精を出す者達は皆、春を待ちわびている。志麻が何者かは分かっていなくとも、変化を期待しているのだ。

「この状態はいつから?」

「異変に気が付いたのは、秋のことです。稲を刈り、冬を越す支度を始めた頃でした。最初に気が付いたのは、猟をしているミヤマです」

 長は皺だらけの指で里の奥にある小屋を指し示した。竹林がすぐそこまで迫る小屋の前では火が焚かれ、軒先には何かが吊るされている。獣か、それとも植物か。志麻は目を細めたが、ここからでは分からなかった。

「獣がいない、ミヤマがそう言い始めたので、里の者を集めて山に入ったのです。なるほどミヤマの言う通り、山は異様な気配に包まれていました。すべての生命を押し殺すかのような圧迫感が、山を覆っていたのです」

「こういったことは、以前にも?」

「いいえ、初めてのことです。確かに、作物が不足する年や、獣の少ない年は今までもありましたが、それでも花は咲き、鳥はさえずり、鹿や猪は山を駆けていました。まさか、春になってもこの調子とは、夢にも」

「……こう見えても訓練は真面目に受けてきたが、このような現象はさすがに見聞きしたことはないな」

 志麻は里を見渡した。頭の中にはいくつか思い当る案件があったが、そのどれとも異なっているという自信が志麻にはあった。それは直感的なものだったが、勘は経験から生まれたものだ。

 何にせよ、里の季節を再び巡らせなければ、次の任務に移ることなど出来ない。

「里の者達にも話を聞いてみよう。それから、山も調べる必要がある」

「山に入るなら、先生に案内をお願いしましょう」

「先生?」

 長の言葉に、志麻は遠くの山を見ていた視線を長に戻した。長はミヤマの小屋の方向を指差した。

「竹林が見えますでしょう? あの奥に、小屋がもう一軒あります。そこに先生が住んでいます」

「先生というのは?」

「薬の先生ですよ。薬草に詳しい方でして、先生の助言で畑に薬草を植えているのですよ。里の者達皆、先生を慕っています。ミヤマは猟師ですが、冬の間に痛めた足がまだ治っていません。先生は原料を探して山に入ることも多いのです。山の案内なら先生が良いでしょう」

 竹林は風に揺れることなく静止していた。志麻は長と別れて、竹林へと歩き始めた。足元の草は、ヨモギもホトケノザも、どれも弱々しい姿をしていた。小川の流れは緩やかで、けれどもそこに魚の姿はない。

 しばらく歩いていると、後方から駆ける足音が近付いてきた。軽やかな足音の主は志麻を追い越して止まった。志麻も立ち止まる。少年がひとり、物珍しそうな顔で志麻を見ている。背格好からして、十歳前後だろう。何にでも興味を持つ年頃だ。余所者ならなおのこと気になって仕方がないはずだ。

「オニカエシってのは、アンタのことだろ? オサが言っていたぞ、もうすぐ里に春が戻って来るって」

 少年は小さい体で精一杯の背伸びをして志麻に話し掛けた。

「確かに俺はオニカエシだが、春がやって来るかどうかはまだ分からない」

「なんでさ」

 志麻が歩き始めると、少年は志麻の隣を付いて来た。

「里には先程到着したばかりだ。まだ何も調べていないし、何も分かっちゃいない」

「そんじゃ、オレが教えてやるよ。秋にミヤマのじっちゃんが言ったんだ。山の様子がおかしいって。それから冬が来て、でも春は来なかった。山の獲物はいなくなって、木の実もキノコも採れなくなった。もちろん、山菜も」

 少年は足元に転がる小石を蹴り飛ばした。乾いた地面を何度か跳ねて小石は止まった。

「はじめのうちは、さ。そういう年もあるよって思っていたんだ。でも、いつもと違った。落ち葉がほとんどなくて、冬にしては暖かいんだ。それなのに花はちっとも咲かないんだよ。そのまま。春になっても、そのまま。日差しがなくて、春にしては寒い。薬草も育たないって、先生も困っている」

「その先生ってのは、どんな人だ?」

「オレの母ちゃんの病気を治してくれた。先生はどこか遠くから旅をしてこの里に来たんだ」

「余所者か」

「まあね。里のみんなでお願いして、ここに留まってもらっているんだよ。医者は山を二つも超えなきゃダメだからね。小屋はミヤマのじっちゃんが使っていた小屋だし。ミヤマのじっちゃんの、そのまたじっちゃんだったっけ」

「……ところで」

 志麻は横目で少年を見下ろした。

「お前、名前は?」

 少年はぽっかりと口を開けて志麻を見上げた。すっかり名乗るのを忘れていたと言わんばかりだ。

「オレはイスケ、アンタは?」

「志麻、そう呼ばれている」

「呼ばれているって?」

「本名を名乗ることは禁じられている。鬼に利用されてしまうからな」

「名前を利用されるって……どういうこと?」

「簡単に言えば、そうだな。名前というものは、そのものがそのものとして存在するために必要なものだ。それは人間も鬼も同じこと。名前は魂を縛るものだ」

「うーん、よく分からないや。オニカエシってのは、軍人さんなのか?」

「一応は陸軍として区分されているが、実態は別の組織と言ってもいい。オニカエシは少々特殊な連中でな、人間相手に戦う他の軍人たちと一緒だなんて、アイツらが可哀想さ」

「どうして?」

「人非ざるものたちと戦う者もまた、人非ざるものだからな」

「……志麻は人間だろ?」

「どう思う?」

 志麻は口元を歪めて笑った。イスケは一歩後ずさりして、すぐについて来た。

「怖ぇこと言うなよ」

「お前が勝手に怖がっただけだろう。それで他に、変わった出来事はなかったか?」

「そうだなぁ……」

 イスケは鈍色の空を見上げ、それから答えた。

「やっぱり桜が咲いたよ」

「桜? 花は咲かないと言っていたのに?」

「そう、あの桜は特別なんだよ。先生の小屋の前の桜、俺が生まれる前からあるんだけど、この里に何か良くないことがある時に咲くんだって。ミヤマのじっちゃんに聞いてみてよ」

 竹林の前の小屋に着くと戸が開いていた。軒先に吊るされていたのは薬草のようだった。イスケは大きな声でミヤマを呼んだ。しばらくすると家の裏から足を引き摺った初老の男が現れた。薪を抱えているところを見れば、裏で薪割りをしていたのだろう。

「ミヤマのじっちゃん。オニカエシの兄ちゃんが話を聞きたいって」

 イスケがそう言うと、ミヤマは抱えていた薪を地面に置いた。

「無駄だと思うがね」

 小屋の横に積まれた木箱を椅子代わりにして、ミヤマは話し始めた。

「見ての通りさ、春が来ない。秋からずっとこんな気候が続いている。気温は、そうだな、冬はさすがに少し下がったものの、あれが冬だったのかどうだか」

「狩猟の調子は?」

「獲物はいない。年が明けてからは一度も姿を見ていないな。烏の一羽も飛びはしない。渡りの鳥は、里の上を避けて飛んでいるようだ。たとえ春になったとしても獣たちは戻らないかもしれんな」

 ミヤマは肩をすくめた。生活が成り立たん、と溜息が混じる。自給自足で生きている里の者達にとっては、遠のく春はさぞかし苦しいだろう。

「何やら妙な桜が咲いたとイスケから聞いたのだが」

「ああ、咲いたね」

 顔だけを竹林のほうに向けてミヤマは続けた。

「あの桜は里の誰よりも長生きさ。立派な枝垂れでね、前に咲いたのは十年ほど昔のことになるか、あの時は夏真っ盛りだったな。日照りが続いて作物は全部ダメになったが、あの桜だけは咲いていた」

「季節に関係なく咲くのか?」

「ああ。だが決まっていつも、里に悪いことが起こる時だ。つまり、凶兆の桜ってわけさ」

「その時もオニカエシを呼んだのか?」

「いいや」

 ミヤマは志麻を見て首を振った。

「今までも桜は咲いたが、冷夏も豪雪も、この里に限ったことじゃなかった。周りの里だって同じように厳しい季節を乗り越えてきたんだ。だが、今回ばかりは違う。春が来ないのはこの里だけだ。旧街道を歩いてきたのなら分かるだろう? 峠を越えて里に入れば気温がグッと下がる。すべての生き物が息を潜める。この里だけなんだ」

 そう言われて、志麻は道程を思い返した。気配のない異様さは、峠から里を見下ろしたあたりから、まとわりつくように濃くなった。オニカエシには分かる感覚、鬼の気配があった。だがそれは薄雲のように里を覆うだけで、鬼そのものがどこにいるのかは掴めない。

「先生とやらに山を案内してもらうことにするよ。また何か思い出したことがあれば教えてくれ」

「しばらく里に滞在するつもりかい?」

「依頼を解決しなければ、俺も帰るに帰れない」

「無駄だと思うがね」

 どこか含みのある笑みのミヤマに見送られながら、志麻とイスケはミヤマの小屋を後にした。

 凪いだ竹林にひとたび入れば、音は消える。足音が青竹の隙間に吸い込まれていくようだ。薄暗い木漏れ日が地面におぼろげな影を広げていた。枯葉を掃いた後なのか、さっぱりとした小道が奥へと続く。

「イスケ、先生はいつからこの里に?」

「そうだなぁ。二年くらい前の冬かな。薬草を探して旅をしているんだって。妹の病気を治したいんだってさ」

「先生には妹がいるのか」

「うん。トウカはほとんど小屋から出られないんだよ」

 イスケによると、先生の妹の名前はトウカというらしい。聞いてもいないのにイスケは詳しく話し始めた。

「トウカはお日様に当たるとダメなんだ。肌が腫れて、熱が出るんだって。おかげで体中あちこち包帯で、女の子なのにかわいそうだねって母ちゃんは言うよ。母ちゃんたち、里の女の人たちは、トウカに縫物を教えてあげたんだ。部屋でも出来るから。今ではとても上手なんだよ」

「なるほど、難儀な病だ」

「早く治るといいのにね。だけど、トウカが元気になったら先生、帰っちゃうんだろうなぁ」

 竹林を抜ける頃、確かに桜の香りがした。

 風のない中ではっきりと分かるほどの濃い香り。甘すぎず、どこかすがしい、けれども深みのある老木の香りだった。

 満開の枝垂れ桜。季節を閉ざした里の外れに狂い咲くその木は、傍に建つ粗末な小屋を飲み込んでしまいそうなほどに堂々としている。志麻は思わず足を止めた。こんなに立派な桜の古木を見たことはない。

「こりゃまた」

 志麻は暖簾を分けるように枝をかき分け幹に触れた。ざらざらとした幹はずっしりとしている。妖木というわけではなさそうだ。強い生命力を感じるが、この桜からは悪しき気配が感じられない。凶兆の桜かもしれないが、厄災の花ではない。そうなると、元凶は別にある。

 よく見ると、幹に傷がある。志麻の腰ほどの高さに、真っ直ぐ三本。まだ新しい傷だ。切り傷のようにも見えるが、鋭い爪で引っ掻いた痕にも見える。その傷からは何か不穏な気配を感じた。

「イスケ」

 桜の向こう側から声が聞こえた。若い男の澄んだ声だ。先生だろう、志麻は花咲く枝の隙間から窺った。桜の香りが鼻をくすぐる。

「あ、先生こんにちは」

「はい、こんにちは。今日はどうしましたか?」

 イスケが小屋の中にいる人物と話をしている。

「オニカエシの兄ちゃんが、先生に話を聞きたいって」

「え、オニカエシ、ですか?」

 どこかいぶかしげな声に続いて、小屋の中から若い男が出てきた。おや、と志麻は前掛けで手を拭っているその男をじっと見た。着物の下に立襟のシャツを着て、袴を履いている。帝都では最近よく見かける、和と洋を混ぜた服装だ。確かに余所者だとは聞いていたが、まさか自分のほかに洋装の者がいるとは。志麻は興味深い眼差しで先生を見た。

「先生、オニカエシを知っているのか?」

「ええまあ、長く旅をしていますからね。噂くらいなら聞いたことがありますよ」

 優男という言葉が志麻の頭の中に浮かんだ。整った顔と丁寧な口調は、育ちの良さを感じさせた。良家の子息だと言われても疑いはしない上品さがある。帝都の出身だとすれば、その風貌も合点がいく。

「それで、オニカエシの方はどちらに? 長のところですか?」

「いいや、そこにいるよ」

 イスケは志麻を指差した。先生は驚いた顔をしたが、すぐに会釈をした。

「申し訳ありません、全く気が付きませんでした」

 先生は慌てて志麻に駆け寄った。志麻は桜の下から出た。

「はじめまして。私、ナギと申します」

「志麻だ、よろしく。アンタのことは長たち聞いている。頼りにされているようだな。長もアンタを頼るように言っていた」

「いいえ、私が里の皆さんを頼っているのです。私は薬を作ることしか能がありません。日々の生活は皆さんの助けなしでは、とても」

 ナギは首を振った。二十代、もしかするとまだ十代かもしれない。長く旅をしていると言った割に、ナギは若さの中に幼さを残していた。帝都で美青年ともてはやされても、おかしくはないだろう。狂い咲く桜の木のように、ナギはこの里の中で異質な存在だった。桜の香りの中に、薬の苦さが微かに混ざっていた。

「病に苦しむ妹がいると聞いたが」

「はい、妹はトウカと申します。今は小屋の奥で眠っております」

「その病と里の季節は関係がないと考えて良いのか?」

「トウカの病は生まれ持ったものです。ですから、里の異変とは関係がないでしょう」

「そうか、それなら良いんだ。まだこの異変の原因が皆目見当も付かないんだ。どんな小さな手掛かりも逃すわけにはいかないんでね、色々と不躾な質問をして不快にさせるかもしれないが、大目に見てくれると助かる」

「もちろんです。私たちも、協力は惜しみません。このまま春が来なければ、里がどうなってしまうのか、想像するだけでも恐ろしいことですから」

 そう言うとナギは桜の枝を一本掴んで持ち上げた。香りが広がる。

「旧街道をご覧になったでしょう? 酷い有様ですよ。海沿いに道が出来てからは、往来もめっきり減ってしまって、旧街道沿いは寂れる一方です。今はまだ、しのげます。しかし、春が訪れず悪い噂が立てば、すぐにでもこの里は廃れ果ててしまうでしょう。それはあまりにも忍びないことです」

 ナギはそう言って目を伏せた。容姿には確かに幼さがあるものの、纏う空気は旅の歳月を感じさせた。見た目とは不相応の雰囲気がある。妙な男だと志麻は思ったが、だからといって詮索するつもりはなかった。

「山を調べたい。案内してくれるか?」

「私でよければ喜んで」

 志麻の前をナギとイスケが歩く。ナギは小屋の近くから山に入った。それなりに歩き慣れた山道なのだろう。注意しなければ見逃しそうな獣道のように細い道でも、迷うことなくナギは進む。この道にも春の気配はなく、山菜も見当たらない。

 しばらくの間、斜面を登るように進んでいると、ナギが立ち止まった。

「長がオニカエシを呼んだのは、おそらく」

 そう言うとナギは自分の前方を見せるように体を逸らし、言葉を続けた。

「これのせいではないかと」

 志麻はナギの隣に立った。視界が開ける。そこは落石か地滑りによって出来たであろう窪地だった。そこに水が溜まっている。その水が、赤い。まるで血だまりのようだ。辺りを見回してみても水源はない。赤土の地層でもなさそうだ。水溜りの大きさは畳一枚ほどあるだろう。周りに生える下草の茎も仄かに赤く染まっている。

「湧き出ているのか? 底が見えないな」

 志麻は近くに落ちていた手ごろな石を掴んで赤い水溜りの中に投げ入れた。石はズプンと粘り気のある音を立ててすぐに見えなくなった。木の枝で深さを測ってみるが、どうにも底の感触がない。底なし沼のようだ。

「この赤い水が、他にも見つかっています。すべて、異変が起こった後に見つかりました。自然に出来たものなのか、そうではないのか、私たちには区別することが出来ません」

「大雨が降ったというようなことはなかったか?」

「いいえ、まとまった雨は長らく降っておりませんし、この山で狩りをしていたミヤマさんも今まで見たことはないそうです」

「なるほど」

 志麻は上着の胸元の衣嚢から小瓶を取り出し、赤い水を汲む。その瓶を日光に透かして見たが、弱い太陽の光では期待したほども観察は出来なかった。濁った赤は血のような色をしていた。イスケが隣で小瓶を覗く。

「毒だったらどうしよう」

「ただの毒なら、それでいいさ、中和出来るかもしれない。だがこれが毒だとして、獣がいなくなる理由にはなっても、春が来ない理由にはならないな」

「そっかぁ」

 小瓶を仕舞うと、志麻はナギに向き直った。

「ところで、先生。この山には他にも何かあるんじゃないか?」

 ナギは首を傾げた。

「たとえば、そうだな。この辺りには棲息していないはずの獣の爪痕、とか」

 一瞬ナギの表情が強張ったのを志麻は見逃さなかった。

「心当たりがあるのかい? それなら話は早い。いや、なに、責めるわけじゃない。赤い水が湧き出たところでオニカエシを呼んだりはしない。俺たちはこれでも軍人だ。オニカエシってのは、もっと手の付けられない事態になってから呼ばれるものさ」

 志麻は一方的にそう告げた。ナギは目を逸らして少し考えてから、観念したように志麻を見た。

「これはまだ、長とミヤマさんと、私しか知らないことです」

 ナギは少し屈んでイスケと目線を合わせた。

「いいですか、イスケ。ここまで来た以上、あなたに隠し立てするつもりはありません。ですが、本来ならば里の者には長から伝えるべきということをどうか心に留めて置いてほしいのです」

「みんなには黙っておけばいいんだろ?」

「ええ、そうです。混乱を招くことになりますからね」

 イスケは聞き分けの良い子供だ。志麻は半ば感心していた。

 ナギの案内で更に山奥へと分け入る。道はすでに失われ、先を進むナギだけが頼りだった。途中、いくつか水溜りを見かけたが、そのどれもが同じように不気味な赤い水を湛えていた。 

 どれくらい歩いただろうか。木々の間、薄雲の向こう側にあった太陽は、桜の前の小屋を出た時には真上にあったはずだが、今では随分と傾いている。さすがの志麻も息が上がり始めた。イスケも疲れを隠せず、時折、志麻が背負って歩いてきたが、そろそろ限界のようだ。しかし、ナギは顔色ひとつ変えずに慣れた様子で進んでいた。

「先生、まだか?」

 落ち葉に足を取られたイスケを後ろから支えながら志麻は尋ねた。その声に振り返ったナギはようやく立ち止まった。

「オレもう疲れたよー」

「すみません、いつもの調子で歩いてしまいました。もう少しです」

 そう言うとナギはふたりを手招きした。もうしばらく歩くと、ナギは止まった。上を指差す。

「この上です」

 志麻は古い枯葉で覆われた斜面を見上げた。斜面にぽっかりと穴が開いている。見た目は獣の巣穴だが、ただの巣穴ではない理由があるのだろう。

「あの穴で、何十もの獣の骸が見つかったのです。喉元を無残に噛み切られていましたが、恐ろしいことに、血液が一滴残らず無くなっていたのです。まるで抜き取られたように」

「獣の種類は?」

「様々です。野兎や、鹿、猪、鳥類も」

「この一帯の山に大型の肉食獣は?」

「いません。血を抜き取る獣など、聞いたこともありません。ミヤマさんが狩りの途中で見つけ、長に話をしました。それからミヤマさんと、山に出入りしている私がここへ来たのです。ミヤマさんは穴を調べていた時に転び、足を痛めました。冬のことです」

「なるほどねぇ」

 志麻は斜面を登り、穴に近付いた。中は暗く、獣臭さが漂っていた。微かに人間とは異なる気配が残っている。何かがいたことは間違いない。足跡はない。しかし、穴から伸びる木の根に、見覚えのある痕があった。真っ直ぐな三本の線。桜の幹にあったものと似ている。

 この男は。

 志麻は肩越しにナギを振り返った。

 この男は一体、何を隠している?

 ナギは志麻の視線に気が付く様子もなく、イスケと話をしていた。


 山から下りる頃にはすでに日が沈んでいた。虫の声も聞こえない。晴れることのない薄雲の向こうに朧月が浮かんでいた。

「すっかり日が暮れてしまいましたね」

 小屋に近付くと、夜に紛れて桜の香りが漂ってきた。桜の周りがぼんやりと明るい。

「あ、トウカだ」

 疲れ果てて足を引き摺るように歩いていたイスケだったが、灯りを見た途端に、どこから湧いてきたのか、元気よく駆け出した。

「トウカ! おはよう!」

 イスケが駆け寄ると、桜の陰から一人の少女が顔を覗かせた。桜が明るく見えたのは、その少女が灯りを持っていたからだった。歳はイスケと同じくらい、十かそこら辺りだろう。トウカと呼ばれた少女は、ナギの妹だ。だがその容姿は似ても似つかない。

 揺れる灯りに照らされたトウカの顔には、幾重にも包帯が巻かれていた。辛うじて左目と鼻と口が覗くだけで、あとは首まできっちりと包帯で閉ざされている。よく見れば、灯りを持つ手も包帯で巻かれ、まるで全身が包帯で出来ているかのように思えた。その奥から鈍く光る左目がしっかりと志麻の姿を捉えていた。

「だぁれ?」

 か細く掠れた声は闇に溶けるようで、風も虫も音を潜めた里だからこそ聞き取れるほどだった。

「志麻という」

「わたしはトウカ。トモシビと書いて、トウカ。あなたは?」

 桜の陰から出てきたトウカは、イスケの陰に隠れるようにして志麻に問いかけた。

「志麻か、志に、植物の麻で、志麻だ」

「そう。わたしは志麻の隣に立っている人の妹よ。志麻に兄弟は?」

 イスケを押すようにしてトウカはじりじりと近付いてくる。人見知りなのか、好奇心旺盛なのか、はっきりしない娘だ。

「俺に兄弟はいない」

「そうなの。わたしはみんなの服のほころびをつくろうの。志麻は?」

「俺はオニカエシだ。鬼をあるべき場所へ還す」

 オニカエシ、とトウカは口の中で小さく繰り返した。

「それならこの里にももうすぐ春が巡るのね。少しだけさびしいわ」

「おや、寂しいのかい?」

「曇り空は少しだけ気分が良いの。カゲリだから。けれどもみんなが困っているから、わがままは言えない」

 そう言うとトウカはイスケの手を引いて桜の周りを走り始めた。ふたりはコロコロと笑い合って走る。唐突な遊びの始まりに、志麻は隣に立つナギを見やった。

「どうしたんだ、流行りの遊びか?」

「そうですね。夜になるとこうして、ふたりで桜の周りをぐるぐると駆けるのです。風を起こし、桜の香りを山に届けて、春を呼び込むのだそうです」

「なるほど、悪くはないな」

「子供の遊びですよ?」

「日照りが続けば雨乞いをするのと同じだ。子供なりに春を待っているのだろう」

 イスケとトウカが前を駆け抜けるたびに華やぐ桜の香りが溢れた。

「ご飯だ、ゆうげにしようよ、イスケ」

 始まりと同じく唐突にトウカは立ち止まった。止まり切れなかったイスケが垂れ下がった枝にぶつかり、花が舞い散った。

「行きましょうよ、兄さん。それから志麻も。イスケの家の食事はいつもおいしいから」

 灯りを持ったトウカが駆け出す。イスケがトウカを追いかける。志麻とナギは灯りを失わない程度の速さで、ふたりの後に続いた。

 イスケの家は里の他の家々と同じように田畑の中にあった。気立ての良さそうな母親が出迎えた。イスケの母はフジと名乗った。イスケによると、父親と兄は町へ出稼ぎに行っているらしい。里では出稼ぎに行く家が少なくはないようだ。新しい街道が出来てからは、と何度も同じような話を聞いたが、人の流れが変わり、里だけで暮らしていくには難しくなったのだとフジは言った。

「だけど先生が来てくれてから、ずいぶんと暮らしも良くなったのよぉ。先生がね、薬草の育て方を教えてくれて、わざわざ山を越えて医者にかかる必要もなくなったし、何よりも薬草は野菜よりも高く売れるのよ」

「そうよ、だから早く春が戻らなければ、イスケもそう遠からず出稼ぎに行ってしまうかもしれない。そうしたら、わたしずっとさびしくなる」

 食事を用意するフジを手伝いながら、トウカは口を尖らせた。部屋の灯りの下で見るトウカは、なるほど、女の子なのに可哀想だと言ったフジの言葉がよく分かる。包帯の隙間から覗くその肌は赤黒く爛れている。何度も繰り返し傷が出来たらしい。カサブタやミミズ腫れの痕が痛々しく、隠し切れない無数の傷痕が病に苦しんできた月日の長さを感じさせた。帝都では化け物と揶揄されるだろうその姿を、イスケもフジも蔑んだりはしない。いや、この親子だけではないだろう。

「だから、お願いね、志麻。できるだけ早く、春を呼び戻してね」

 トウカはじっと志麻を見詰めた。その瞳に迷いなどない。志麻が頷くと、トウカは満足そうに口元を緩ませた。

「そういえば志麻はどこに寝泊まりするの?」

「うちは泊まってくれて構わないよ、狭いけれどね。ちょうど男手が欲しかったところ」

「男手なら先生のほうが若いと思うが」

「先生は駄目よ、こんなに細いもの。朝から畑を手伝ってくれても昼にはもう、へたばってしまうから」

 そんなはずはない。志麻はその言葉を飲み込んで、別の言葉を選んだ。

「腕節は、からっきしと見た」

「お恥ずかしい限りです」

 答えたナギの表情は笑っていたが、瞳は笑っていなかった。この男は幾つもの隠し事をしているだろう。だが、それを追及するべきは、今ではない。

 異変を解決し、春を取り戻すことは最優先だ。だが、そのためならば何をしても許されるかと言えば、そうではないと志麻は考えている。たとえば、ナギの秘密を問い質し、この里から追い出すような事態になれば、里の者達は混乱するだろう。そして何よりも、トウカのことが心配だ。人々の暮らしを脅かすような言動は避けたい。

 フジの提案に甘え、その夜の宿はイスケの家に泊まった。ナギとトウカは食事を終えると帰った。イスケとフジは遠い帝都のことを聞きたがった。それから家族が出稼ぎに行った町のことも尋ねた。布団を並べて敷くと、イスケはとても楽しそうに笑っていた。

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