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 翌日、明智は範子が昇降口に入っていくのを見送ると、昨日とは違う場所に車を駐車した。


 毎日同じ場所に長時間駐車し、事情を知らない女学校関係者や近隣住民に怪しまれることを避けるためでもあったが、その場所が特別教室棟にある理科準備室の窓から目につきやすいというのが一番の理由であった。


 運転席から降り、塀の向こうに聳える校舎の3階を見上げる。


 理科準備室の窓からは、薄汚れた人体模型が、健康なのだか不健康なのだが良く分からない下ぶくれの顔で往来を見下ろしていた。

 景色を眺めるように置かれた臓物ぞうもつ剥き出しの人形が、在室のサインだ。


 明智はジャケットのポケットから、昨日も使った手鏡付きの懐中時計を取り出し、鏡の部分に日光を反射させ、何度か角度を調整しつつ、気味の悪い人形の頬を照らした。


 そして、足早に車内に戻り、何食わぬ顔で範子のいる教室の盗聴を始める。


 受信機の設置位置が盗聴器から離れているせいで、晴天なのに雑音が多く混じったが、聞き取れない程ではない。



 朝から眠気を誘う源氏物語の授業を聴きながら、桐原家から持ち出した朝刊を読んでいると、一人の青年がゆったりとした歩調でこちらに近づいて来るのが、バックミラーに映った。



 朝刊に目を落としたまま、鏡越しに青年の姿形を観察する。



 明智程ではないが、そこそこの長身で、薄っぺらい体に白衣を羽織っている。

 焦げ茶色の色素が薄い髪は、朝日を浴びてカラメルのような光沢を発していた。


 彼は明智のいる車には目もくれず、明後日の方向を見ていたが、運転席側の窓横まで来ると、よそ見をしたまま、左手で窓を数回、独特のリズムでにノックした。


 こちらも新聞を読むふりを続けつつ、内側から決められた通りの調子で窓を叩いた。


 すると、青年はくるりと方向転換し、こちらに背を向け、サイドミラーのつけ根近く、ボンネットに軽く腰掛けるような姿勢で立ち止まり、快晴とまでは言えない微妙な青空をぼんやり眺め始めた。

 明智は窓を開け、声を低め、ほとんど唇を動かさずに早口で最終確認の合言葉を口にする。



「どちらにお住まいですか?」



 青年は明智と同じ発声法で、振り返らずに答えた。



「数のないところです」



 合格。異常なし。交渉開始だ。


 別にここまでしなくても、お互い正体は分かっているが、周囲に敵が潜んでいないとは限らない。

 基本的な安全確認は怠るな、少しの油断が命取りに繋がると、諜報員たちは所長に叩き込まれていた。



「これを現像しておいて欲しい。あと、原本との照合も」



 窓の隙間から、昨日ベルト型カメラで撮影したフィルムを差し出すと、青年は後ろ手で受け取り、白衣のポケットにしまった。



「僕も一応仕事中なんだけど」



「知っている。でも、俺は他のことで手が離せないし、貴様に任せた方が確実なんだ」



「僕だって、やらなきゃいけないことは多いんだよ。まあ、助け合いの精神が大事だからね。いずれ埋め合わせはして貰うから」



「悪いが、早めに頼む。それから教室のあれ、もう少し改善できないか? 雑音が多い」



 焦げ茶色の眉が、僅かに動いた。気分を害したように見えなくもなかったが、青年の目尻が下がった焦げ茶色の瞳は無感情に、ひたすら空を泳ぐ雲を追いかけていた。



「今のが限界。全く貴様は注文が多いな。貴様が当たり前のように使っている道具を、誰が作ったのか、忘れないでいてくれよな」



「感謝している」



 どうだか、と嘲笑うが如く吐き捨てると、青年は絹糸のような髪を風に遊ばせながら、ぶらぶらと歩き去って行った。


 その後ろ姿に向け、密かに舌打ちする。


 何が「誰が作ったのか、忘れないでくれよな」だ。

 無番地では貴重な、理系出身者だからって、大きな顔をしやがって。

 確かに貴様は代替性の効かない人材だが、諜報員としての能力は、俺の方がずっと優れている。



 つまらないことにカリカリするのは損であり、まししてや、諜報員なら、それを表に出してはいけないとは重々承知だった。

 しかし明智は、諜報員となり、一応感情を隠すことはできるようになっても、生来の短気な性格は一向に改善せず、こうして腹が立つことに直面する度に苛つき、やり場のない怒りを飲み込むしかなかった。



 今しがた現れた白衣の青年、広瀬ひろせは無番地の同期だ。

 物腰も柔らかく、顔立ちも優しげな男だが、一方で自身の果たす役割に絶大なプライドを持っており、そのためならどこまでも非情になれそうな不気味さを併せ持った男である。


 彼は別件で、4月から、この女学校に理科教師として潜入している。

 時任とかいう偽名を使い、本来の任務の傍、ふざけた計画を着々と準備していると聞く。


 もっとも、広瀬は高学年の授業しか担当していないため、広瀬と範子に接点はない。


 ただ、彼には教師という立場を利用し、早朝の誰もいない教室に出入りし、盗聴器を設置するなどの協力をして貰っている。

 さらに、写真の解析作業まで依頼する手前、義理堅い性格上、明智は反論しづらいのだ。

 それを広瀬も理解しているからこそ、遠慮会釈なく嫌味を垂れる。


 実に腹立たしい。




 胡散臭いが腕の良い技術者開発の受信機からは、たどたどしい女学生の音読が流れてきている。


 源氏物語第九帖葵の一節だった。

 一人でも厄介なのに、好んで数多の女と関わり、ろくでもない事態を引き起こす源氏は、大層学習能力に欠けた馬鹿者だったのだな、と思った。

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