白い百合の花のかおり

 鍋を食べ終わったあと、勇魚は緊張したおももちでウタを部屋のなかに招き入れた。

 あまり散らかっていないはずだが、ウタの部屋よりは乱雑としている。


 部屋のなかには、ソファがある。

 以前リビングで使っていたもののお古だ。


「まあ、すわれよ」

「うん」


 ベージュのソファにウタがすわる。ぎし、ときしむ音を意識してしまうほど、胸中は穏やかではなかった。

 なにを言われるのか不安だった。

 抱きしめても、キスをしても嫌がらなかったウタ。

 それでも、こどばは違う。

 ことばは、時に呪いにでもなるのだから。


「話ってなに」

「きみが、僕を好きだって言ってくれたこと」


 おもわず、勇魚は自分のひざを見下ろした。

 後悔はない。

 けれど、恐怖はあった。

 自分の身勝手な告白で、ここに居づらくなってしまったら、それは勇魚の責任だ。


「僕は友達もいないし、親友もいない。絵だけ描いていられればいいって思ってた。でも、きみが僕の世界を広げてくれた。この世界は、きれいだね。すごく、きれい」

「世界はきれいなだけじゃねぇよ」


 つぶやいた言葉にウタは、うん、と頷いた。

 そうだ。

 ウタは、世界の汚いところを勇魚よりも見てきたはずだ。

 そのウタが、世界はきれいだという。うつくしいという。


「でもね、勇魚。きみが教えてくれたんだよ。だから、ありがとう」

「礼なんて言うなよ。俺はただ……」

「僕もきみが好き。勇魚が、好き」


 まだ幼さがのこる笑みに息をのむ。

 最初から、出会わなければよかった。

 でも、後悔はしない。後悔など、できない。もう、過ぎてしまったことだからだ。


「すき、だよ」

「……本気にしていいのか」

「信じられない?」


 ウタの前髪がゆれる。

 そっと、その前髪を勇魚の手がふれた。


 そのまま、くちびるにキスをする。


「ん……」


 舌でウタのくちびるを撫でてやる。湿った音が聞こえて、すこし手がふるえた。


「にかいめ、だね」


 額をあわせる。ウタの額は、とてもつめたかった。

 それがすこしだけ、かなしい。


「なにも怖くない。きみとなら」

「そんなこと言っていいのか?」

「うん」

「怖いもの知らずだな、おまえは」


 額をはなして、勇魚は苦笑した。ほんとうに、ウタは怖いもの知らずだ。

 「好き」という意味を、本当に知っているのだろうか。

 きれいな、うつくしいものだけではない。

 欲望や、醜い感情も恋なのだ、ということを。


 手の甲がふれあう。

 ウタの手はやはり冷たく、かじかんでいるようだった。

 それを握りしめる。


「勇魚の手、とてもあたたかいね」

「だから、おまえが冷たすぎるんだって」

「すごく、安心する。もっと、触れあっていたい」


 鼓動が聞こえるのではないかというほど、そのことばに反応してしまう。

 触れあうということ。

 それはとても心地がいい。

 けれど、それだけでは物足りなくなる。

 いつか。いや、近いうちに。


 すべてを貪りつくしたい。


 凶悪な感情。


 このうつくしく孤独な目をした男は、この感情を持っているのだろうか?

 きれいなままでいたいと思っているのだろうか。


 手をつなぐ。

 ウタのつめたい手がようやく体温がうつって、ぬるくなった。


「……部屋に戻るね」


 そっと、名残惜しそうに手が離れてゆく。


「わかった。また明日、だな」

「うん」


 ウタはちいさな子どものように手をふって、部屋から出ていった。


 両想い。


 今まで、2度ほどあった。

 けれど、だめだった。

 何がだめだったのかと言えば、やさしくなかったのだ。ふたりとも。

 そして、後悔した。

 

 でも今はちがう。

 

 やさしくしよう、と思う。

 離れてほしくない、とも思う。

 一緒にいたい。そばにいたい。触れたい。


 臆病になる。

 ふれるごとに。ことばをかわすごとに。





 部屋にもどり、イーゼルにかけてあった描きかけの絵を見下ろす。

 ヴェネツィアの風景。

 いつか、行ってみたいと思う。

 ほんものの、きらめきを見てみたい。


 そっと息をつく。

 

 勇魚。

 彼に告げたことは、こころのなかでくすぶっていたものだ。

 嘘偽りのない、真実だ。

 自分だけで決めたものだ。

 だから後悔はしない。

 勇魚は、受け入れてくれた。うれしかったのも、本当のこころだ。

 それと同時に、もう家族とは思えない。いや――最初からだった、のかもしれない。

 分からない。

 すこし、こころが疲弊している。

 そこなわれたわけではない。

 いや、損なわれるはずがない。

 勇魚はウタを傷つけない。ウタも、勇魚を傷つけたくないとおもう。


 絵筆をとる。

 絵具がついていない筆だ。それを、そっとカンバスにのせる。

 もちろん、色はつかない。

 

 「おまじない」だった。


 とくになにも望む気はない。

 うまく描けるように、という願いもない。

 ただ、おまじない、というものをするだけだ。

 これは、小さな時からのくせのようなものであって、望みも願いもそこにはなかった。


 けれど、今日はちがった。


 ねがう。

 のぞむ。


 勇魚のそばにいたい。

 勇魚の体温を感じたい。もっと、もっと。

 ウタは、自分の腕で自身の身体をだきしめた。

 つめたい。

 部屋が寒いわけではない。

 この家は、どの部屋もあたたかいからだ。

 お前は体温が低いから熱がでても分からなかった、とよく和希に言われた。


 こんな体温じゃない。

 もっと、あたたかい。

 もっと、ここちがいい。


 絵筆をおとす。


 どこで。

 どこで、恋におちたのだろう。

 わからない。

 好きだといわれたから、好きになったわけではないことは知っている。

 

 恋をしたことがないからだろうか。

 

 美大にも、きれいなひとはたくさんいる。

 けれど、絵ばかりに執着していて、友人も親友もいなかった。

 いえば、孤立していたのかもしれない。

 それでも寂しくなかった。悲しくもなかった。

 

 勇魚に出会うまでは。


 勇魚からこころを授けられたように、寂しさも苦しみも、悲しみもすべて、胸をさした。

 痛かった。

 それでもよかった。



 これで僕は人間になれたんだ、とおもった。

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