5.少女、享受する。

 何か失礼な事を言われている気がする。抗議しようとした言葉ごと、いつの間にか飲み込まれていた。


「んう!?」


 一瞬置いて、ようやくキスされているのだと気付く。反射的に離れようともがくのだが、右手を後頭部に固定されているため逃れられない。少しずつふわふわとした感覚がせり上がってきて頭がグラグラする。


「っふ、ぁ」


 唇の端からどちらのとも言えない唾液がこぼれ落ちる。口の中にたまる液が息苦しくてしょうがなかった。なのに男は許してくれない。追い求めるように逃げる舌を絡めとられる。


 ゴクン


 耐えきれずに呑み込むと、ようやく男はニチカを解放した。口元を袖で拭いながら淡々と忠告する。


「戻すなよ、死にたくなければな」

「なっ、なななな……!」


 即座に男から距離を取るためズザザザとニチカは後ずさりする。かなりみっともない動きだったがそんなことに構っている余裕はなかった。


「うわぁぁあああー!!」


 慌てて口もとを手で覆い隠す。その頬は目に見えるほど赤くなっていた。


「いっ、いま、キキキキス……っ!?」


 初めては大事な人にと決めていたのに、それをこんな見ず知らずの男に奪われるとは。この数分の記憶を切り取ってくれとニチカは本気で願った。ぺたんと座り込んだ体勢のまま、前のめりに手を地面に着き落ち込む。


「ありえない。こんなの悪夢よ」

「フン、ならあのまま死んだ方が良かったか?」

「え?」


 言われてようやく自分の状況を確認する。腕を覆っていた薔薇の枝がシュルシュルと縮んでいくところだった。わずかに血は滲んでいたが針で突いたように小さな物だ、じき止まるだろう。


「うそぉ……」


 痛みも収まった。しかし先ほどから起こる現象にまるで頭が追いつかない。


「ど、どういうこと!?」


 訳知り顔の男は、地面に置いていたランタンを持ち立ち上がると、枯れた薔薇の元へと寄った。地面に落ちていた花弁を拾い上げるとそれをまじまじと観察するように裏返す。


「この薔薇は『偽りの恋人 フェイクラヴァー』と呼ばれる珍種だ、近くを通りかかる生き物に寄生する習性がある」

「寄生って」


 そこまで言った男は、ひねくれた性格ゆえか軽口を叩きたくなった。こんな夜中に叩き起こされ不機嫌だったのも少なからず影響していただろう。


「ハッ、このご時世にあんなショボい暗示に引っかかるような人間が居るとは思わなかった。大抵はそこらへんのケダモノに寄生するんだ、人で引っかかるのはお前のような洗礼を受けていない低俗な――」


 どうせまた噛みついてくるだろうと予想しながら振り返った男はギョッとした。ニチカが夜の湖面のような瞳を濡らしてポロポロと泣いていたから。


「おっ、おい、何を泣いている。俺はただ事実を」


 しかし少女は肩を震わせながら俯いてしまった。変な世界に飛ばされて次々にワケのわからない事態に陥っていく。もはや限界だった。


「帰りたい……帰してよ」

「……」


 わずかな風が辺りの木々をざわめかせる。


 ぐすぐすとしばらく泣き続けていたニチカは、ふと頭に重みを感じた。涙を拭いながら顔を上げると、男が戸惑ったような顔つきでこちらを見下ろしていた。


 その口がわずかに開かれ、それでも言葉にならずに一文字に引き絞られる。ぎこちなく撫でる手がこれまでの口調とは裏腹に優しい。


 もしかして、慰めようとしているのだろうか? 驚きで涙はいつの間にか止まっていた。こちらから声を掛けようとした次の瞬間――男は突然飛び込んできた茶色の塊に突き飛ばされ、目の前から消え失せた。


「ご主人ーっ!!」

「どわぁ!?」

「ニチカは? ニチカは大丈夫? 水を汲んできたよ、あぁ、助けてあげてご主人様」


 頭から水をかぶった男は、目の前でパニックになるオオカミをすさまじい形相で睨みつけた。怒気をはらんだ低い声が地を這うように響く。


「っ……その汲んできた水っていうのは、俺に頭から浴びせたコレか?」

「あぁぁっ、水が!」

「水より俺に謝るのが先だろうがっ!!」


 その様子をあっけに取られたニチカは見つめていた。少女のことなど忘れ、主従の説教タイムが始まる。


「だいたいなんだ、普段そんなに機敏に動かないくせに。つまりこれまで手を抜いて仕事をしていたということか?」

「ちっ、違うよぅ、今は必死だっただけで、いつもはちょっとお昼寝したりとか、綺麗なちょうちょが飛んでたから追いかけたとか、スグリをつまみ食いするため遠回りするだとかそんなことは」

「てっめぇ!」

「キャウンッ」


「……ぷはっ」


「あ?」

「あぁぁっ!」


 クスクスと笑う少女を確認したウルフィは、飛びかからん勢いで彼女の側に行った。


「わああニチカだ! ニチカだ! ねぇ大丈夫? どこも痛くない?? ねぇねぇ」

「ありがとうウルフィ、私なら大丈夫」


 涙をなめとるウルフィの頭を撫で、少女は男へ真剣な顔をして問いかけた。


「どうして薔薇が消えたの?」


 渋い顔をしていた男は、水のしたたるローブの裾を搾りながら答えてくれた。


「消えたわけじゃない。フェイクラヴァーズはまだお前の腹ン中にしっかり居座ってる」

「うっ」


 そう言われて腹部にとっさに手を当てる。さきほどのようにいつ突き破って生えてくるか気が気ではなかった。


「じゃあどうしてさっきは治まったの? さっきの……その、アレのおかげ?」


 先ほどのことを思い出して顔を赤らめる。状況的に言えばどう考えてもあのキスが薔薇の成長を抑制したとしか考えられなかった。


 こちらをしばらく見ていた男は、少しだけ息を吐いて視線を逸らしながらそっけなく答えた。


「……この種は苗床を養分に発芽するが『あるもの』を与えておけば成長を抑制できることが分かっている」

「?」

「異性の体液だ」


 体液。


 つまり涙、唾液、血液、もしくは――


「えっ、ええええ!!?」


 ニチカは真っ赤になりながら後ずさる。そんな様子にも我関せず男は淡々と続けた。


「この薔薇は絶滅したと聞いてたから俺も実際に目にしたのは初めてだ、昔はコイツを惚れ薬として使ってたらしいが」

「治す方法は!? ねぇっ!」


 すがりつくニチカを男は冷たく一蹴した。


「知らん」

「そんなぁ!?」

「だから俺は医者じゃないんだ。応急処置を知ってただけでもありがたいと思え」


 呆れたように腕を組む男の前でガックリとうなだれる。悪夢なら覚めてくれという気分だった。


「とにかく俺は寝るぞ、今度俺の安眠を邪魔してみろ」


 壮絶な不機嫌顔をした男は親指をビッと地面に向けた。


「潰すぞ」

「……はい」

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