続・明日自慢出来る(かも知れない)話

烏田かあ

いい湯だな① 銭湯中in江戸

亡霊葬稿ゴーストライターシュネヴィ』には昔ながらの銭湯が登場しました。作中でも描写した通り、広い浴槽やペンキ絵はタニア・ミューラーの熱い支持を受けています。


 タクラマカン砂漠から遠く離れた日本でも、銭湯は多くの人に愛されています。一時いっときより大分数は減りましたが、今でも都内には600軒以上の銭湯があります。

 風呂上がりにフルーツ牛乳を飲み干すことは、日本人の通過儀礼と言っても過言ではありません。最近では特殊な設備を揃えたスーパー銭湯が、老若男女の人気を集めています。


 東京に始めて銭湯が出来たのは、天正てんしょう19年(1591年)の夏です。徳川とくがわ家康いえやすが江戸城に入った翌年のことで、開業したのは伊勢いせ与一よいちと言う人物だと伝えられています。当時、現在の千代田ちよだ大手町おおてまちには銭瓶橋ぜにかめばしと言う橋があり、江戸初の銭湯はそのたもとに存在したそうです。


 この頃、江戸では街の建設が進められており、城下には作業に従事する男たちが溢れていました。現在の100円程度で一日の汗や埃を洗い流せる銭湯は、またたく間に人々の心を掴んでいったそうです。


 与一よいちが開業してから四半世紀もった頃には、町に一軒は銭湯があるようになっていたと言います。実際、文化ぶんか(1804年~1818年)の頃の江戸には、600軒もの銭湯が存在していたと伝えられています。


 江戸時代、湯を沸かすための薪は高価で、水自体も不足気味でした。また木造建築が密集した江戸の街では、火を使う風呂をなるべく造らないようにしていたと言います。そのため、一般庶民はおろか武士の屋敷や裕福な商家でも、風呂を備えていることはまれでした。


 朝六時から夜八時まで営業していた銭湯には、大店おおだなの主人から武士まで様々な人々が集まったと言います。老若男女、幅広い身分の人々がつどうそこは世間の縮図であり、公衆のマナーを学ぶ場所としても機能していました。また格好の宣伝場でもあり、洗い場や脱衣場には多様な公告が貼られていたそうです。


 与力よりき同心どうしんと言った犯罪を取り締まる人々は、銭湯を情報収集に利用していました。立場の違う客が自発的に集まり、噂話にいそしむ銭湯は、まさしく情報の宝庫でした。服を脱いだついでに心のガードも緩み、重要な話を盛らしてしまうことも少なくなかったでしょう。


 今でこそ銭湯と言えば「ゆ」の暖簾のれんですが、当時は弓と矢が看板代わりでした。何でも洒落しゃれ好きの江戸っ子たちは、「湯にる」ことと「る」ことを掛けたのだそうです。


 与一よいちの開いた銭湯は今で言う「サウナ」で、お湯を張った浴槽はありませんでした。現在のようにお湯へ浸かるスタイルが誕生したのは、慶長けいちょう(1596年~1615年)の末頃だと考えられています。とは言え、今のように澄んだお湯が張られているわけではなく、繰り返し使われるそれは非常に汚かったそうです。


 不足気味の水を高い薪で沸かさなければいけなかった時代、清潔なお湯は非常に貴重でした。中には入浴後に浴びるお湯に係を付け、柄杓ひしゃくで差し出していた銭湯もあったと言います。清潔な水を無尽蔵に沸かすことを許された現代人は、もっと金町浄水場かなまちじょうすいじょうと東京ガスに感謝しなければいけないのかも知れません。


 また当時の浴槽は、洗い場から独立した小部屋に置かれていました。お湯に浸かるためには、「石榴口ざくろぐち」と言う出入り口を使う必要がありました。石榴口ざくろぐちは極めて低く、誰もがかがんで潜り抜けたと言います。


 一見すると不便に思えるこの構造には、蒸気や熱が洗い場に逃げるのを防ぐ目的がありました。

 先に述べた通り、湯を沸かすための薪は高価で、無制限に使える代物ではありませんでした。銭湯の主人たちは経費を最小限に抑えるため、廃材や建築現場で拾って来た木片を薪の代わりにしていたと言います。浴槽の温度を出来るだけ保つような構造もまた、涙ぐましい経営努力だったのかも知れません。


 経営陣の奮闘が功を奏したのかは判りませんが、江戸時代の200年間、銭湯の料金はほとんど変わりませんでした。嘉永かえい(1624年~1644年)の頃の入浴料は、大人150円、子供100円程度だったと言います。また3700円ほど払えば、一ヶ月間何度でも銭湯に入ることが出来ました。


 周囲を壁に囲われた上、湯気の立ちこめる石榴口ざくろぐちの内部は、非常に薄暗かったと言います。お湯の汚さが目に入らないのは勿論もちろん、「浴槽に死体が浮いていても気付かない」とまで言われていたそうです。


 石榴口ざくろぐちが取り払われたのは、明治時代になってからのことです。同時に洗い場が大幅に拡張され、天井には湯気を逃がすための窓が作られました。


 改良風呂かいりょうぶろと呼ばれた開放的な空間は、たちまち大衆の支持を集めました。大正時代には板張りだった洗い場や木で出来た浴槽が、タイル貼りに変更されていきます。昭和の初めには洗い場や浴槽に水道が通され、我々のよく知る風景がひとまず完成したそうです。


 参考資料:週刊江戸№2 №95 (株)デアゴスティーニ・ジャパン刊

      東京銭湯/東京都浴場組合公式ホームページ

                         http://www.1010.or.jp/

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