第29話 Blind self window

 師桐は醜い獏の姿になり、もぞもぞと這い回る芒雁を憐れみの目でみつめていた。

「獣としての本性に、人間であった理性が負けようとしているな。やがては二足で立つことも叶わなくなり、人としての思考もできなくなっていくだろう」

「が、あ……うあ」

「そしてそれはこの世界に永遠に幽閉されることを意味している。当然だ。夢とは人の複雑な思考が造り出すものだからな。獣となったお前は自分で発現させた『フロイト』を止めることも出来ず、新たな夢の世界を紡ぐこともできない。心は夢の檻に囚われたままだ。そのまま、現実世界の余生を植物人間として過ごすがいい」

「があ……、あ」

「だが、それはあまりにも可哀想だ。一度は仲間として誘ったよしみだ。せめてここで僕が引導を渡すくらいの慈悲をくれてやろうか」

 何かに抗うようにうごめいていた獏だったが、師桐の言葉を聞くと何かを悟ったのか、やがて静かに目をつむった。

「そうか。お前もそれを望むか」

 そういうと師桐は右手に一振りのナイフを具現化させた。ナイフは銀製で、鈍い光をたたえていた。銀には破魔の力が宿るという。醜い化け物を葬るにはおあつらえ向きの代物だ。師桐はそのままゆっくりと獏の近くに歩み寄る。

「さよならだ。芒雁葉」

 獏は自分の醜い姿をこれ以上見ていたくなかった。もう誰にもこの姿を晒しているのは耐えられなかった。一刻も早く消えてなくなりたい。それだけが獏の頭を占めていた。

師桐はナイフを構えると、獏の心臓目掛けて振り下ろそうとした。

 ガシャーーン!

 突如、師桐と獏の頭上からガラスが割れる音が響く。すぐにバラバラとガラスの破片が二人の間に降り注いだ。

師桐は落ちてくるガラスを浴びないよう、瞬時に飛び避ける。ガラスは床に落ちると多くの粉塵を舞い上げた。

何事かと師桐が上を見上げようとした時に、ソレは師桐と獏の間に割ってはいるように落下してきた。落下した衝撃でもう一度粉塵が舞い上がった。

「……ケホケホ」

 師桐の視界は粉塵で遮られていたが、すぐに見えるようになった。そして今落下してきた物を見て、師桐は驚いた声を上げる。

「……三桜弥生!」

「イタタタ……」

 天井から落下してきた物体ーー三桜弥生は尻をさすりながらよろよろと立ち上がった。

「助けにきたよ。芒雁君!」

 弥生は誰もいない、あさっての方向に向かって豪語した。それに目でも回しているのだろうか。頭をフラフラと回している。

さしもの師桐も、弥生の突然の登場にどうリアクションして良いか分からず、一瞬気まずい雰囲気が流れた。

「まさか家の中に入ってくるとは。そもそもなぜ天井から……?」

「うお、師桐先生!?」

 あまりにも師桐との距離が近かったので、弥生はビックリして飛び跳ねるように二、三歩後退する。この世界のマスターである芒雁が師桐を認識したことで、その姿は弥生にも見えるようになっていた。

「芒雁君が追いかけてた男って師桐君のことだったのか。ってアレ? 芒雁君は?」

 弥生はキョロキョロと辺りを見回す。そしてすぐに獏を発見する。

「え、なに。この怪物は」

 獏は弥生に向かって手を伸ばそうとしていた。弥生は距離をとるように後じさる。

 獏と師桐、そして今落ちてきたばかりの弥生以外、そこには誰にもいなかった。芒雁の姿がどこにもない。

「芒雁君? どこ、どこにいるの?」

 弥生は芒雁の名を叫ぶ。しかし芒雁の返事はない。その代わり獏が手を引っ込め、頭を抱える仕草をしていたが、弥生は気がつかなかった。

「う、あ……み・さ・く・ら……」

 獏はしゃがれた声を響かせながら、身体を縮こまらせた。

「え、こいつ、今私の名前を呼んだの?」

 ずっとうつろな目をしていた獏だったが、獏をじっと見つめる弥生と目が合う。その瞬間、獏の目の焦点が合い、正気を取り戻したかのように弥生は感じた。

「うがあああああああ!」

 獏が雄叫びをあげる。そして背中の翼を大きく広げた。その翼は黒く、禍々しく。サイズこそ巨大だがコウモリの羽にそっくりであった。

 ドンッ!

 翼を広げきると同時に獏の身体から衝撃波のようなものが発せられた。弥生はバランスがとれずに尻もちをつき、師桐は吹き飛ばされないように姿勢を低くした。

「……アレが芒雁葉だ」

 師桐が獏を示す。

「え? なに、どういうこと? このバケモノが芒雁君だってこと?」

 弥生は強風のような衝撃波に吹き飛ばされないように、姿勢を低くしながら師桐の方を向く。

「三桜弥生にバケモノと呼ばれるのは彼にとっては辛いだろう。まだ辛うじて人間の思考と理性を残しているはずから。そう、たしかにそいつは芒雁葉だった。だが今は獏だ」

「あんた……! 芒雁君に何をしたの?」

 弥生は師桐をキッとにらむ。師桐は涼しげな顔で首を横に振った。

「何も。ただ本来の姿を思い出せてやっただけさ。人間としての理性、道徳や倫理といったものを取り去り、後に残るもの。それを芒雁に見せてやった。ただそれだけだ。芒雁は本来の自分の姿に還っただけなのだよ」

師桐はこれが芒雁の本来の姿だと言う。しかし弥生には到底信じられない話だった。

「そんな訳ないじゃない。本来の姿に還っただけなら、あんなに苦しそうに叫ぶわけない」

「今、叫んで衝撃波を叩きつけて。そうして私らを排除しようとしているのは、三桜弥生。君のせいじゃないかね?」

「何を言っているの? なんでこれが、私のせいだって?」

「君がくるまで、彼はそれはもう大人しいものだったよ。それが君が来た途端にこれだ。よほど君に自分の本性を見られたくないんだろうねえ」

「そんな……!」

 獏から発せられる衝撃波が一段と強くなる。弥生は勢いに耐えきれず、コロコロと後ろに転がっていく。

「う、わわ。止まらない……!」

 近くに椅子の足があったので、弥生はとっさにつかむ。先ほどまで師桐が座っていた椅子だった。椅子の脚はまるで接着剤でくっつけたようにピッタリと床に貼り付いていたので、弥生はこれ以上転がらずに済んだ。

師桐は獏の状態を見極めるために、じっと観察をしていた。やがて諦めたようにため息をつく。

「引導を渡してやるつもりだったが、時間がなくなってしまった。獏の自我が完全になくなれば、この世界は完全に閉じられてしまう。その前に僕はお暇させてもらうよ」

「え? ちょっと待って! どこに行くつもりなの?」

「このまま芒雁葉の夢からログアウトさせてもらうだけさ。元々ここには僕の方からお邪魔させてもらっていただけだ。脱出は簡単さ。それにこの夢の主人も今は私のことを追い出したいみたいだ」

 師桐は獏の方をしゃくって合図してみせた。

「今抜け出るのは容易いだろう」

「芒雁君は……! 芒雁君はどうなるの?」

「さあ? このまますべてを排除して自分だけの世界に引きこもるか。それとも何も考えない獏に逆戻りして無をさまようか。どちらにせよ現実世界では再起不能だろうね」

「そんな……」

「あぁ、三桜弥生さん。君も早くこの世界から逃げた方がいい。今ならキミでも芒雁の力なしで現実世界に戻ることができるだろう。さもなくば、この醜い獏と運命を共にすることになる」

 しゃがんだまま、ぴたっと地面に張り付いていた師桐だったが、スッと立ち上がると。衝撃波に身をまかせるように後方へジャンプした。

「それでは三桜さん。アディオス」

 帽子を取って頭を下げるジェスチャーをしながら、師桐は後方の闇へと消えて行った。

 弥生は師桐がいなくなった跡を少しの間見つめていたが、獏の方へ向き直った。

「これが……これが芒雁君の本性だっていうの?」

 部屋には弥生と獏の姿になった芒雁だけが残された。そして獏は未だに翼を広げたまま、衝撃波を出し続けている。

「このまま、すべてを拒絶しきったら。自分だけの世界に引きこもるですって?」

 これが夢の世界の話なのだから。この世界に引きこもることは永遠に眠りから覚めないことを意味している。弥生は首を振った。

「だったら。このまま、吹き飛ばされるわけには絶対行かない」

 この衝撃波は芒雁の拒絶の心そのものだ。本当の自分を見られないように。自分が傷つかないように。

「イメージ、イメージ……」

 この世界はイメージがすべてだ。信じることができれば何だって可能になる。でもいきなり常識から外れることをイメージするのは難しい。まずは簡単な所からだ。弥生はまず自分の靴底が冬靴のようにピック状になっているところを想像した。

 ズズズ……。と弥生の靴が徐々に姿を変えていく。やがて弥生の靴は登山用の立派なトレッキングブーツへと変化した。

「よし。これなら……」

 弥生は芒雁の方へ一歩踏み出そうとする。しかし弥生が片足を上げた瞬間、一段と強い衝撃波が弥生を襲った。同時に頭の中に直接言葉が叩きつけられる。

(来るな!)

 まるで衝撃波そのものがメッセージのようだった。バランスの悪い体勢だったので、弥生はよろけてさらに後方へと、師桐が姿を消した暗闇の方へ押しやられてしまう。

「芒雁君、やっぱり意識が……!」

 醜い獣へと姿を変え、言葉を発することもできなくなっていた芒雁。でも心は。心はまだ人間のままで。そして拒絶の言葉だけれども。こうして弥生とまだ心を交わすことができている。まだ望みはあるのだ。弥生は今一度気を引き締めた。

「芒雁君……! 絶対そこまで辿り着いてみせるから……!」

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