和尚さんと運動会

 天高く馬肥ゆる秋。音雨山おとうさん華麗宗かれいしゅう仁王寺におうじの覚詠和尚さんは今日も境内に遊びに来ている子供たちを優しい眼差しで見守っています。

「おや?」

 和尚さんが顔をしかめます。いつもは元気な結衣ちゃんが下を向いて境内の砂利を蹴っています。その顔に生気がありません。

「具合でも悪いのかな?」

 和尚さんは立ち上がり、結衣ちゃんの元へと向かいました。

「結衣よ、どうした? 体の調子でも悪いのか? 熱でも出たかのう」

 和尚さんは結衣ちゃんのおでこに手を当てました。

「和尚さんの手、あったかい」

 結衣ちゃんは言いました。

「熱はないようじゃの」

 和尚さんは結衣ちゃんの前にかがみこみました。そして、

「なにか、辛いことがあったら言うが良い」

 と結衣ちゃんに声をかけました。

「あのね、和尚さん。来週の日曜日に運動会があるの……」

「そうか。楽しみじゃの」

「ううん、楽しみじゃないの」

「はて、どうしてじゃ?」

「お父さんも、お母さんも日曜日お仕事で運動会に来られないの……」

「そうか、そういうことか」

 和尚さんはかがんだまま考え込みました。そして、東屋にいる家具屋ことかぐやを呼びました。

「なあ結衣よ。このかぐやを運動会の間だけ、お母さんの代わりにしないか?」

「ええっ、かぐやのお姉ちゃんがお母さんなの」

 元気のなかった結衣ちゃんの瞳に輝きが戻りました。

「なあ、それでええじゃろうに」

 和尚さんは我ながら名案だとでも言うように、立ち上がり、胸を張りました。すると結衣ちゃんが、

「お父さんは誰?」

 と聞いて来ました。

「なんと、お父さんも必要かあ」

 結衣ちゃんの当然するだろう質問に和尚さんはとまどいました。

「そ、そうじゃな。日曜日までに調達するから待たれよ」

「和尚さんがお父さんでもいいよ」

「わ、わしか? わしはお父さんじゃなくておじいちゃんだろうに」

 和尚さんが慌てます。

「いいよ、この際」

 急に、ませた顔で結衣ちゃんは言うと、他の子供たちに混ざって遊び始めました。

「わしがお父さんだと。ということはかぐやと夫婦ということになる。釣り合わんのう」

 和尚さんはかぐやに言いました。

「愛があれば年の差なんて」

 かぐやが笑いながら言いました。ある種、ブラックジョークですね。和尚さん。私がそう言っても、和尚さんは乗ってこずに母屋へ引き返しました。そして総本山の二王寺の人事課に電話をかけて、

「今度の日曜日、若くて足の速い修行僧一人、頼むわ」

 と談判しましたが、やんわり断られました。残念でした。

「こりゃあ、老体に鞭を打つかのう」

 和尚さんがつぶやきます。もちろん変な趣味のことではありません。念のため。


 その夜。

「お父さんの代わりは見つからなかったのう」

 和尚さんは万策尽き果てたという表情で独り言をしました。

「わしがやらんといかんか」

 そう言うと和尚さんは作務衣に着替えました。

「少し、走ってみるか」

 和尚さんは重い腰をあげました。

 裏庭に出ます。八頭の鹿たちがなんだろうという顔をします。裏庭には竹林が広がり、その奥は山があります。音雨山です。和尚さんは竹林を案外軽快にジョギングします。鹿たちが一緒になって走り出します。和尚さんが、

「なんじゃお前たち。わしに付き合わんと早く寝なされ」

 と鹿たちに話しかけます。すると、鹿たちが、

「僕たちもそろそろトレーニングを始めなきゃいけないと思っていたんです」

 と返します。鹿たちになんでトレーニングが必要なのでしょう?

「そうか、わしは山に入るぞ。ついてこられるかな」

 和尚さんは鹿たちを軽く挑発しました。

「獣をなめちゃいけません」

 鹿たちは、和尚さんを追い抜いて行きます。

「うぬ、負けられぬわ」

 和尚さんもトップギアにあげます。和尚さんと鹿たちは夜の帳の向こうへ消えて行きました。


 次の日。

 和尚さんは朝日の上がらぬうちから本堂の掃除、読経、境内の掃除と、いつも通りのお勤めをしています。さて、昨夜は眠らなかったのでしょうか?

「いや、一時間は寝たよ」

 和尚さんがやっと私に話しかけてくれました。一時間で大丈夫なんでしょうか? 私が聞きますと、

「なに、数日のことじゃ。『孤之辺耶苦歳妖このへやくさいよう』の荒行をしていた時は三年間、一時間睡眠だったからな。若き日を想って、血が滾るわい」 

 和尚さんは平然と答えました。考えてみれば、和尚さんは尋常でない荒行を積んだ、スーパーマンだったのです。本山で阿闍梨になっていてもおかしくない実力者なのです。しかし、性格が偏屈で、自らが作った仁王寺から動くことなく、今に至っているのです。

「わしはのう、総本山の勢力争いが大っ嫌いなんじゃ。そういうことを超越するために僧籍についたのに、下界と同じ愚かなことをあそこでも繰り返している。それならば、一人でいる方が良いわい」

 和尚さんが珍しく真っ当なことを言いました。そういえば、一晩ロードワークしただけで、あのでっぷりしたお腹が少しへこんでいます。

「わしを誰だと思っておる。華麗宗の覚詠といえば、泣く子も黙る、荒法師ぞ。今は年を取ったとはいえ、心はまだ燃え尽きておらぬわ」

 はははと高笑いする、和尚さん。ちょっとランナーズハイになっているようです。

 午後の読経を終えると、遊びに来た子供たちの見守りをしながら和尚さんはうつらうつらと舟をこぎ出しました。やっぱり疲れていたんですね。ちょっと見栄を張りすぎ。

 ですが夜になると、和尚さんはまた走ります。なぜか鹿たちも走ります。次の日も、また次の日も、和尚さんは過酷なトレーニングを自らに課します。あのでっぷりしたお腹がシックスパックに割れてしまいました。和尚さんの体は強靭な筋肉の上に脂肪が覆いかぶさっていたのです。

「うぬ、運動会が楽しみになって来たわい」

 和尚さんは張り切ってきました。

「決戦は日曜日〜♪」

 陽気に鼻歌をしながら境内の掃除をする和尚さんなのでした。


 運動会の前日である、土曜日。朝から雨が降っています。天気予報のヒライさんによると明日も天気は雨みたいです。

「なんじゃ、運動会は中止かのう」

 和尚さんは少し残念そうに言いました。そして、

「せめて、晴天の加持祈祷でもするかのう」

 と言って、本堂に渡り、ご本尊の不動明王に向かいました。

「のうまく さんまんだあ〜」

 と和尚さんは真言を唱えます。それから、てるてる坊主を作って軒先に吊るしました。

「願わくば、ヒライさんの予報が外れますように」

 和尚さんは人気気象予報士のイメージを貶めることを願いました。


 その夜です。風にひらひらと舞っていた、てるてる坊主が軒先から離れ、天空に飛び上がりました。そして雨の神様である、淤加美神おかみのかみに直談判をはじめました。

「淤加美神様、地上の覚詠が明日の晴天を望んでいます」

「覚詠とは仏法の覚詠か?」

「左様でございます」

「あのものは怒らせると厄介だからのう。太平洋高気圧に言って、明日は晴天としよう」

「ありがとう存じます」

「なに、明日は何と言っても晴れの特異日」

「十月十日でございます」

「そうじゃな。ホホホホホ」

 淤加美神は笑って、てるてる坊主の願いを聞き入れました。


 運動会当日。ヒライさんの予報は見事に外れ、雲ひとつない晴天になりました。和尚さんはてるてる坊主をねぎらい、その頭を撫でました。まさかてるてる坊主が有能なネゴシエーターだったとは和尚さんは考えもしませんでした。ましてや自分の名前がお門違いの日本神道の皆様にまで知れ渡っているとは予想だにしない和尚さんなのでした。


 午前八時に、結衣ちゃんが和尚さんとかぐやを迎えに寺にやってきます。和尚さんは厨でお弁当のおにぎりを作っていました。中身は梅干しと昆布の佃煮です。子供に人気のツナマヨネーズやたらこなどは和尚さんが食べられませんので作りません。果たして結衣ちゃんの口に合うでしょうか?

「和尚さん、かぐやのお姉ちゃん。おはようございます」

 結衣ちゃんは元気いっぱいです。

「やあ、結衣よ。おはようさん」

 そう言った和尚さんはなんとウニクロで買ったジャージーをきています。運動会に行くと決まってから、和尚さんはウニクロに行って、先日お問い合わせをした店員さんにまたもや声をかけて、このジャージーを買い求めたのでした。色はブラックです。かぐやにはピンクのジャージーを買ってきました。かぐやもそれを着て張り切っています。

 三人はおててつないで小学校へ行きました。結衣ちゃんはとっても嬉しそうです。


 午前九時に運動会は始まります。子供たちのほとんどは両親とともに学校へ行きます。けれど中には一人の子供がいます。両親が共働きで日曜出勤の子や、片親しかいなくて、やっぱり日曜出勤で運動会に来られない親をもつ、ちょっと寂しい子供たちです。

「これ、結衣。あの寂しそうな子供達を呼んで来なされ。我らはその子らのお父さん、お母さんにもなる」

 和尚さんが言いました。

「うん、そうだね」

 結衣ちゃんはちょっと残念そうな顔をしましたが、思い直したようで、にっこり笑ってうなずきました。賢い子供です。

 両親の来られない子供は十人ほどいました。みんなで手をつないで学校へ行きました。笑顔が増えました。


 和尚さんたちは学校に到着しました。和尚さんの顔を見て、皆会釈をします。次の瞬間、お父さんたちの目が大きく見開かれます。そう、かぐやを見てしまったのです。あまりの美しさにお父さんたちはメロメロです。それに気づいたお母さんたちがお父さんのほっぺたをつねります。そこかしこで大の男たちの悲鳴が聞こえました。

 さて、運動会の始まりです。和尚さんはプログラムを開いて、お父さんが参加する競技を調べます。そして、

「なんと」

 とため息を漏らしました。お父さんの参加する競技は“パン食い競争”だったのです。

「これだったら、あんなにストイックにトレーニングすることはなかったのう」

 和尚さんはぼやきました。横文字連発に和尚さんの落胆が見て取れます。

「わたしはこれですね」

 かぐやがプログラムを指差します。お母さんが参加するのは“騎馬戦”です。思わず和尚さんは、

「競技が逆じゃろう」

 と文句を言いました。それもこれも、校長先生の趣味なのでした。


 小学一年生の大玉ころがしで運動会はスタートしました。赤勝て、白勝てと大声援です。そのうち三年生の徒競走が始まりました。結衣ちゃんも参加します。燃える赤組です。

「おう、結衣は赤か。迦楼羅炎のように仏敵を滅ぼすのじゃ」

 和尚さんが見当違いのことを言って、結衣ちゃんを声援します。よーい、どん。結衣ちゃんは見事なスタートダッシュをみせ、快勝します。

「うん、よしよし。見事じゃ。けれど敗者にも気遣いを忘れんように」

 難しいことを言う和尚さん。けれどもその顔には微笑みが浮かんでいます。

「いよいよ、わしの出番じゃな」

 そうです。保護者男子対抗、パン食い競争の始まりです。和尚さんは第四組の第四レーンでの出場です。

「なんか、演技が悪いのう」

 和尚さんはぼやきます。あとの出場者は翔斗くんのお父さん。大地くんのお父さん。美月ちゃんのお父さん。京子ちゃんのお父さんです。皆、三十代の若いお父さんです。和尚さんだけが年齢としを食っていて逆に目立ちます。

「位置についてぇ」

 と六年生の担任、長島先生がピストルを準備します。すると和尚さん一人、クラウチングスタートの構えを見せ、会場から失笑が漏れます。

「スタート!」

 ピストルが放たれます。すると和尚さんはチーターのようにああ、動物の方ですよ。水前寺清子じゃありませんよって年齢がバレますなあ。とにかく、サバンナを駆け抜ける野獣のように飛び出した和尚さんは、今度はロケットのようにあんぱんに向かってジャンプし、一口であんぱんを飲み込んでしまいます。

「うん、美味い」

 と余裕をかました和尚さんは他の人のあんぱんも食べてしまい、完全に敵の出鼻をくじくと、ゆうゆうとゴールにたどり着きました。結衣ちゃんはじめ子供たちは、

「和尚さん、すごい」

 と大声援を送りました。

「ははは、こわっぱども見たか!」

 和尚さんは調子に乗って他のお父さんを挑発します。しかしすぐに、

「いかん、いかん。敗者にもプライドがある」

 と思い直して、お父さん方と熱い抱擁を交わしました。お父さん方はあっけにとられて、なすがままにされていました。

 これで午前の部は終了。お弁当の時間になりました。和尚さんは、風呂敷からおにぎりを取り出しました。その数百個! 

「和尚さん、こんなに食べられないよ」

 子供達が言いました。

「育ち盛りがなにを言う。じゃが、残ったらわしがいただこう」

 と和尚さんは平然と言いました。結局七十七個、和尚さんが食べつくしました。おかげで、せっかくへこんだ和尚さんのお腹が再び、ポッコリと出てきてしまいました。

「ごちそうさまでした」

 みんな行儀よく挨拶しました。


 さて、午後の部です。午後のメインイベントといえば、紅白のリレーですが、お父さん方や校長先生は保護者女子対抗の騎馬戦を楽しみにしていました。ただ一人、和尚さんだけが、

「悪趣味じゃのう」

 と皮肉を垂れています。正論です。けれど、紅組の大将にかぐやが選ばれ、騎馬に乗ると、

「凛々しいのう」

 と身を乗り出しました。うーん、残念。

 馬上のかぐやはまるで『民衆を導く自由の女神』のようでした。

「それ、突っ込め!」

 と美しい声で紅組のお母さんたちを引っ張ると、的確に白組の騎馬を崩していき、見事に敵の大将の帽子をはぎ取りました。

「かぐや、見事」

 和尚さんはスタンディングオベーションしました。他のお父さんたちも拍手喝采です。もちろん、白組のお父さんたちはお母さんにほっぺたをつねられたことは言うまでもありません。


 さて、運動会も生徒会長の挨拶でつつがなく終了しました。夕暮れ近い通学路を和尚さんとかぐやは結衣ちゃんと手をつないで帰りました。そこへ、

「結衣」

 と声をかける人がいます。結衣ちゃんのお母さんでした。結衣ちゃんはお母さんの胸に飛び込みます。それを見てかぐやは、

「本物にはかないませんね」

 と言いました。

「至極、もっともじゃ」

 和尚さんはうなずきました。二人の陰がどんどん長くなっていきます。

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