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 煙草を二本吸った後、カフェを後にした。この後また別の会社の説明会の予定があったが、キャンセルの連絡もせず中央線高尾方面行きに乗った。とにかく早くビルがうっそうと立ち並ぶこの場所から逃げ出したかった。


 一時間ほど快速電車に揺られてK市に戻ってきた。文京地区指定のおかげで高層の建物がないのどかな雰囲気のこの街は、荒ぶった就活生の気持ちを少し和らげる。線路と垂直の方角に伸びる大学通りの両脇に植えられた桜が咲き始めていた。この道を少し歩くと大学に着く。大学の正門から入り、そのまま構内を突っ切って正門と対極に位置する裏門から出るのがアパートへの近道だった。


 大学の門をくぐると各サークルの新入生募集の文字がでかでかと書かれた立て看板が目に並んでいた。二次試験に合格したばかりの元受験生たちが着慣れない私服でキャンパス内をうろうろしており、上級生たちはハイエナのように彼らをサークルの新歓で引っ張りだこにしていた。もう春だ。サークルや学生同士のつながりが薄くても、毎年この時期は寒さからの解放感で普段より気持ちが上向く。だが、どうも今年はそうなれそうにない。ふらふらとキャンパスを歩く新入生を横目に俺は裏門に向かう。そんなに誰からも求められるのは今のうちだぞ。三年前はここで黄昏れている就活生すら売り手市場だったのだから。






 入学したばかりの頃から、石沢の家はすでに浪人仲間のたまり場になっていた。理由は単純。石沢が入学早々に近所のゲオで中古のゲーム機を買ったからだ。気が利くことに、コントローラーを四つ揃えて。それからは毎日のように石沢の家に集まった。別に大した用事があるわけではない。吉野が予備校時代からの持ちネタ――数学の先生がヅラを直す時に目をキョロキョロさせる仕草を、彼は真似るのが上手かった――を何度も披露してその度に爆笑したり、生協の飯は何が上手いとか何がまずいとかしょうもないネタを繰り返すだけで、何日も同じような日々を過ごしていた。


 そんな中で、一日だけ印象に残っている日がある。あの日は吉野と佐々木は夕飯の買い出しに出ていて、石沢と二人でゲームをしながらサークルの話題になっていた。


「クロはサークルどこにすんの? 高校ん時は陸上やってたんだろ」


「んー、まだ決めてないや。あんまり大学生になってまで真剣に運動やりたくもないしな」


「だよなぁ。俺はどうしよっかなー。大学生の代名詞といえばテニサーだけど、正々堂々女子とくっつける社交ダンスサークルも捨て難い。でもきっと反対されるだろうなあ」


「反対される、って?」


 尋ねると石沢は困り顔で小指を立てた。ああ、と納得する。予備校時代から彼の携帯にはしょっちゅう女から連絡がかかってくる。


「まあせっかくこの時期は先輩たちがおごってくれるんだから、興味ないサークルにも行ってみる価値はあるかもね。俺、おととい応援部の新歓コンパ行ってみたけどすごかったぜ、女も男もみんな声でけーしムキムキでさ、動きもロボットダンス級に超キビキビしてんの。焼肉は旨かったけど笑い堪えるのに必死だったわ」


 石沢は思い出し笑いをする。こちらとしてはその場で笑いを堪えている場違いな細身の石沢の姿を想像するだけで笑えてきそうだ。


「俺はこないだ駅伝部の新歓に行ったよ。新入生には酒を強要しない文化みたいでそれはいいんだけどさ、先輩たちが酔って騒いでんのをシラフで眺めることになってかえって冷めた」


「ああ、それわかる。サークルって、溶け込めてない第三者から見たらひとつの小さな宗教みたいなもんだよな。その小さなコミュニティの中だけに存在する価値基準があって、文脈を知らない人間にとってはそいつらが何で笑ったり怒ったりすんのか理解できないんだよ。自分はよそ者だって思い知らされる感じ。それでも自分はどこかに属したい、健気に染まっていこう、っていうやつが大半だろうけどさ。そういう奴らもどこかで無理してて、本当は心の底でその気持ち悪さをちゃんと感じてんじゃないかなって思うんだよな」


 中学高校の間海外に住んでいたイギリス人ハーフのこの男は、時に普通の日本人なら口をつぐむようなこともさらりと言ってのける。石沢は言い切った後ではっとして、「今の話、佐々木にはするなよ」と念を押した。佐々木は仲間内で最もサークルに関心があって、あらゆる新歓コンパに顔を出しているという話だった。俺にとっては結局、この時の石沢の言葉がずっと頭の中に残って離れず、サークルに入らないという選択を後押ししたのだった。


「ごめんごめん、遅くなっちゃった」


 吉野と佐々木がインターホンも鳴らさずに玄関を開けた。夕飯の買い出しの割には、ビニール袋をいくつも持っている。吉野は今よりはまだ痩せていたが、それでも1Kの狭い玄関に並ぶと、後から入ってきた小柄な佐々木の姿は吉野の影にすっぽり隠れていた。吉野が部屋の中に入ろうとした時、彼が急にしゃがむ。すると同時にパン、と爆発音が鳴って火薬の匂いが鼻をかすめた。


「クロ、誕生日おめでとう! まだ大学に入ったばかりで友達のいないお前のために特別に誕生日会してやるよ」


 クラッカーの音で耳の感覚がぼんやりしている。狭い部屋に舞い散る小さな紙ふぶきの動きについ目がいってぼうっとしていると、佐々木が丁寧に包装された小さな箱をこちらに投げてよこした。開けてみろよ、と隣に座る石沢が勧める。石沢とも事前に打ち合わせていたようだ。箱の中には煙草と新品のライターが入っていた。「どうやって買ったんだよ」と尋ねると、佐々木は「新歓で仲良くなった先輩に頼んだ」と自慢げに答えた。


 そうか、誕生日だとは認識していたけれど、今日で二十歳なのか。まだまだ先だと思っているうちに、なんの覚悟もないままに成人を迎えてしまった。身長と日常には何の役にも立たない知識ばかり増えて、自分の根っこの部分は昔から何も変わっていないような気がしてならない。世の中の大人たちもみんなこうなのだろうか。疑問のままに吸い込んだ煙は喉と目に染みて、壁の薄い部屋であることも忘れて思いきりむせた。


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