かつての英雄の矛先に

※暴力表現、傷害表現あり


 煙が世界樹の傘に吸い込まれる中、草原の真ん中でピシャリと打つ短い音が鳴る。

 緩やかな傾斜のてっぺんにある、太い木の下。人間の子供一人と大人二人。一家が遠足にでも来ているかのような微笑ましい光景は、そこにはない。

 まだ若いだろう女と白髪ばかりの男。夫婦というには年の離れすぎている二人のうち、男の方が子供の頬をはたいたのだ。満足な食事も取れなかったのだろう、しかし上等な衣服を身に着ける細い子供は、目を丸くして彼を見上げた。

「どうか、お止め下さい、クリス様。リジールもまだ、あなたの名前をお呼びするのに、慣れていないだけなんです!」

 二人を間を遮るようにして、やせこけた顔を紅潮させた女が割って入る。眉間に深いしわを寄せつつ鋭い視線を送る男は、攻撃という役目を終えた右手の人差し指を立て、女につきつけた。

「愛しのおまえの子供だというから連れてくるのを許したものを! 突然のこととはいえそいつはわしのことを……礼儀もなっていないではないか!」

 唾をまき散らしながら顔を赤くしていく男は背筋を伸ばしつつも、女の後ろにいる子供に向けて、繰り返し罵声を浴びせる。一方、お止め下さい、お許しください、と何度も口にしつつ女は子をかばい続けた。

 打たれた左頬に軽く触れながら、子供はじっと、細くもきれいな服に包まれた背中を見上げて、ふっと視線をそらした。市場に立ち上る煙が、火が、揺らめいている。よくよく見渡してみれば、樹海の方角にある貧困区の付近から被害は出ていないように見える。

 大人二人のやりとりをよそに、山飛竜らしい影が地上と世界樹の間を旋回している。

「タラスク、元気やろか」

 不意に出た、誰にも届かない言葉。

 そこで続いている惨劇など蚊帳の外の出来事のようで、草の匂いがざわりと吹く風が彼女を包み込んだ。次に、市場とは反対側を望む。

 多くの人々が通って来たのであろう土の見える道。点々と存在する木。地平線を遮る山に、どこまでも続いていそうな草原があって、世界樹すらもちっぽけに見えてしまいそうなほど眩しく広がっていた。

 そのとき、女が短い悲鳴を上げた。いまだに腹の虫が治まらないらしい男が、どけ、と低く威嚇しつつ頑なな相手の体を脇に押しやったのだ。細い体は踏ん張ることもできず草の上に倒れて、いよいよ男は子供に近づいた。

「まずは、しつけが必要だ。ペルトの名を汚すわけにはいかん」

 細身だというのに大股で進む男は威圧するように歩いた。ところが先ほどと比べ、穏やかに見えた男は目線の高さを合わせると、笑みをたたえる。

「リジール? ワシはお前の、なんだね? もう一度、言ってみなさい」

 強引に、娘の面を自身に向けさせた老紳士の笑顔はいたって、凪にも近い穏やかなものだった。子供は垂れ下がった瞼からわずかにのぞく瞳を見つめ返す。

「クリス、おじさま。おら……わた、くしと、母、を助けてくれはった、おじ、さま」

 深い青色は威圧するかのように冷たいものだった。うむそうだ、と大きく頷いた男は指を滑らせ、耳を塞ぐようにした。そして、

「人前であのように呼ぶな! 今後一切! その田舎臭い口も捨てろ! おまえはワシの築いてきた品位を貶めるつもりか!」

 皺をさらに深くしつつ目を見開き、まだまだ細く小さな体を潰さんという力を込める。とっさに華奢な指が男の手に伸びるものの、剥がすことなど叶わない。痛い、やめてと子供は訴えるものの、だめだ、と男は唾をまき散らす。

「いいか、リジール。ワシはこれから、学のないおまえたちに商人に必要な礼儀を教えてやろうというのだ! いいか、ワシの言葉を繰り返せ!」

 おやめください、と背中にすがりつく女をよそに、男は意味もなさない言葉を繰り返し始める。

 挨拶、お世辞、丁寧語、敬称、礼儀、敬語、謙譲語、作法、マナー。

 どうにか抵抗を試みても、独りよがりで、身勝手な支配が緩む気配はない。草原の真ん中であるというのに無価値な支配が男を操っている。

「クリス様! リジールが、リジールが苦しんでおります! 死んでしまいます!」

 下を向いて、指に力を込めて、目を閉じて、喉が枯れんばかりの叫びが女から発せられる。すると、ザッザッと遠くから音がしたかと思えば、応えるようにして、男は無言になった。

 女が恐る恐る目を開けると、リジールはクリスの手から解放されていた。ぐらりと脱力する彼に何が起こったのかときょとんとしていたが、顔を上げれば、先ほどまでいなかった者が一人、男の体を仰向けに横たえようとしていた。

 屋敷、地下通路と追いかけてきた土竜だ。

 はっとした女は男とは反対の方を向いて、寝転ぶ娘の名を呼んだ。すかさず駆け寄って、ゆすり始める。

「おい、あまり動かしてやるな。安静にしてればじきに目を覚ますだろうが……一応、医者に診てもらえ」

 地下での言動とは打って変わって静かな言葉に、女はゆっくりと立ち上がった竜の方に顔を向ける。

「いいか、市場の医者といえば、あのぼったくり鳥の巣頭だ。だが、あいつ以外にも診てくれるやつはいる。知らないなら、紹介してやる」

 うつむく鋭い視線の先には、伸びているクリス。ぴくりとも動かない姿に、女は最悪の想定を口にする。

「殺しちゃいねぇ。ちょっと寝てもらっただけだ。リジールを殺そうとしているみたいだったからな」

 大きな安堵。

 力が抜けた女はへなへなと座り込み、ぼんやりと景色を眺めた。横になっている愛娘が視界の隅にいて、反対側には市場があって、草原が広がっている。

「ありがとう、ございました。クリス様が、こんなことをする人やったとは、知らんで」

 穏やかな風がひゅうと駆け抜け、薄くなった煙の臭いが微かに届く。

「で、おまえら親子は、こいつに飼われ続けるのか? 金は困らないだろうな。今みたいなことがなければ、ずっと平穏に暮らせるだろうさ」

 動く気配のないペルトに、市場を望み始む竜。

「日雇いの仕事を、市場のあちこちでやっとった。ある時、掃除の仕事をしとったら、たまたま現れたクリス様に言い寄られたんや。そのまま、あれやこれやとしとる間に連れていかれて、この子を置いてきてもうた」

 草原で横になっている二人を交互に見つめる女。

「それで、住んでた場所にこの子を探しても見つからんで、しばらくして手配されてるって分かって、どうにか助けようと思うて、掛け合ったんや。やっと、ひもじい思いさせんと、幸せに暮らせる、思うたのに」

 それやのに、とうつむき続けようとする女に、黙れ、と竜は眉間の皺を深くしてぴしゃりと言い放つ。

「リジールは、貧困区でほかのガキたちと身を寄せていた。しかも、自分が稼ぐと言ってな。いくら後悔したとして、おまえ自身の意思に沿っていなかったとしても、おまえがそいつを捨てたのは事実だ」

 深くうつむいて、ごめんなさい、と繰り返される。一方で、尻尾がしなり、大地をわずかにえぐる。

「そいつはあんたの娘なんだろう? ……好きにすればいい」

 世界樹へと視線を向ける竜が、じっと目を細めた。

「おまえのことは気に入らん。これまで会ってきた中でも最低クラス……だが、そいつがおまえを慕うなら、俺の出る幕じゃあ、ないからな」

 すすり泣き始めた女を置いて、土竜は早足に市場へ向けて歩き出した。止まることなく遠ざかっていく巨躯の足音に何をするでもなく、ただじっとしているのだった。

 いくらかの時間が経ち、クリス様、と遠くから聞こえた声に彼女が顔を上げれば、見覚えのある獣の姿が目に入る。隠し通路のあった樹海の端から歩いてくる彼は、迷うことなく三人のもとへと駆け寄る。

 ふと、女はクリスの隣に、光るものがあることに気が付く。

 一本の短剣を重しに、紙が置かれているのだ。


 ギルは草原への出入り口から市場へと進入すると、あたりを見渡して戦いの名残を視界に入れる。玄関口でこと切れてしまったのであろう犠牲者から抜き身の長剣を拝借し、人通りが多かっただろう太い道へと歩を進めた。

 何度も瞬きを繰り返し、その度に目だけを動かしながら、争いの痕跡をたどっていく。途中、目を覆いたくなるような光景にも眉一つ動かさず、得物候補を一瞬で捉えるばかりだ。時折、使えそうなものなどがあれば、警戒しつつも自らのものとしていった。

 やがて、開けた場所へと出た。まだ未開発の空き地だ。いつもは遊びに来た子供や散歩の老人、若いカップルが暇つぶしに訪れるような場所だが、今は市民たちの避難所となっているようだ。

 広い広い空間の真ん中に、団子状態になっている市民。その周囲には二十程度の騎士が全方位を監視しており、気を緩める気配はない。

 塊の向こう側には、男の青竜が一人、うろうろとあたりを見渡している。

 ギルは彼らに、右手を上げて近づく。すると一番近くにいた騎士が誰だ、と槌を構えたが、隣にいた槍の騎士が腕でさえぎり制止する。ギルさん、とまだまだ若い彼は明るく声を上げた。聞きなれた声と顔に目元をほころばせた土竜は尾を揺らす。

「おう、インスか。状況を教えてくれ」

 はい、と口を開こうとする彼に、槌の騎士が制止する。大丈夫だよ、と張りつめた空気に似つかわしくない笑みを浮かべたインスは彼にすべて話した。

 この場に市民を避難させ、現時点でここへの奇襲はないこと。騎士団や市場全体への被害は把握できていないこと。王の誰とも連絡がとれていないこと。他、負傷者の人数や医療従事者の人数など。

 少し沈黙した後に分かった、とギルが答える。すると、知らねぇーぞ、という横槍を無視して続けた。

「あの、シェーシャさんのもとにいなくて、大丈夫なんですか?」

 ああ、と表情を変えずに即答した彼は続ける。

「デイルのやつを向かわせた。砂漠の奴らがきても大丈夫だろ」

 目を丸くしたインス。ああ、とギルは戦闘が始まった現場にいたことを伝える。そして、襲撃者の正体は砂漠の国の刺客であり、目的は不明であることを伝える。

「……分かりました。報告しますね。それと、ギルさんも隊列に加わってくださる、ということでよろしいですか?」

 悩むそぶりも見せず頷いたギルは、微笑んだ後にちゃきちゃきと歩き出すインスの背中を見送り、そういえば、と先ほどの拾得物を取り出す。体格の大きい彼には少し小さい、握る部分らしいものに筒のついた遺産のようなもの。

 すると槌を持っていた騎士の目が輝いた。


 爆発音が途絶え、しばらく。一人の立脚類の獣が空き地に現れた。体格の大きい毛深い獣だ。

 べったりと赤く汚れた衣服を隠す様子もない。よくよく見れば市場ではあまり見ることのない装備を身に着けており、土竜のやってきた方向から、負傷の様子もなくすたすたを歩いてきた。

 まず武器を構えるのはインスと、仲間に向けて敵のいる方角を叫ぶ槌の騎士。

「なんか、えらいぎょうさんおるなぁ」

 二人の騎士の気配の変化と同時に、後頭部を掻きながら緊張感の欠片もない獣に気づいたギルは、注意しろ、と声を張り上げる。すると敵もまた、声のした方へと首を曲げて、傭兵の姿を視界に入れる。

「おお、英雄さんもおるやん。改めてお相手願いたいもんやな」

 土竜の一喝による緊張などどこ吹く風といわんばかりの台詞。にやにやとしている砂漠の国の者に応じたギルは前に出た。騎士と市民が緊張の面持ちで見守る中、二人は広い空間にて向き合う形となった。

「奴らには手を出すな。希望通り、相手をしてやるんだからな」

 首筋を伸ばしながら剣を構えるギルの言葉に、ええよ、と快諾する獣。視線を険しくした竜は何が目的だ、と唸る。問いに言葉ではなく、不規則に並ぶ牙を覗かせながら眩しく笑う獣に、いいだろう、と傭兵は答えを諦めた。

「そういや、自己紹介がまだやったな」

 空いている手の親指で自らを示す獣は、なつっこそうな笑みを浮かべた。

「ガンダー。砂漠の国の、傭兵や」

 言い終わるが早いか遅いか、この騒動の扇動者が先に駆けた。十歩はあっただろう距離を一呼吸で詰めつつ振るわれた大きな軌跡を、ギルはすかさず、剣を盾代わりにして受け止める。

 だが力比べをする気はないらしく、素早く剣を引いたガンダーは身をひねり、勢いをつけて敵の側面方向を斬りつける。ギルは体をくの字に曲げて脇腹の鱗に切っ先を掠めさせる。

 大きく空振りしたことによって獣は隙をさらしてしまう。

 竜は空いている左手を握りしめ、腕を懐から外側へ向けてふりはらう。最小限の動きで行われた攻撃に反応できず、ガンダーの左側頭部に前腕が命中する。

短い唸りと共にバランスを崩した敵へ、続けて腹に蹴りを叩き込む。しかし倒れるまで至らなかった獣は腹を抑えつつ、一回、二回、後ろへ地面を蹴って距離をとる。

「なんで、俺とやり合おうするとする」

 立ってこそいるものの、咳き込みうつむくガンダーの胸元に、徒歩で接近したギルの剣がつきつけられた。

「おまえらの望む結果がどんなものかは知らねぇが、俺たちは、俺たちの生活を守る。壊されてたまるか」

 あと一突き、詰めよれば獣を貫くことだろう。肩で息をしつつ目を白黒させているガンダーはじっとギルを見上げながら、ぎゅっと両手を握る。

「……ドラゴンの国を相手取ったあんたたちとの戦いで、みんな、みんな死んでもうたんや」

 はぁー、と大きな、長い長いため息。

 じっと体勢を変えずに様子を見守るギルの手から、武器が零れ落ちた。

 竜の瞳が驚きに歪むよりも早く、地面を両足で蹴った獣はタックルをかます。短い悲鳴と共に倒れたギルが次に目にしたのは、世界樹を背に、生来備わる武器が残像を描く景色だった。

 ぎらぎらと光る、殺意に満ちた目。てらてらと銀色に輝く、獲物を求める鋭い牙。

 まっすぐ振り下ろされる爪が、竜の喉元に触れた。ぐぐと押し込まれた凶器は鱗をたやすく貫き、胸の方向へと引かれ、べりべりと小さな音を立てて鱗と肉が剥がれる。鎖帷子など、この状態では無意味だ。

 敵の喉から漏れる声など関係なく、続けざま、もう片方の鋭く銀色に輝く手が掲げられた。

「おまえがいなけりゃよかったんや!」

 空き地に響き渡る叫びが終わるが早いか遅いか、パン、と頬を打つよりも、鋭い音が鳴った。ほぼ同時にガンダーの動きがピタリと止まる。ゆっくりと自らの身体に視線をやった彼の視界に細い白い筋と、腹部に押し付けられている、敵の握る遺産が映る。

 それの向けられていた場所から、熱が逃げていく。己から流れ出るものが、下にいる敵の体を濡らしていた。脱力していく獣の傭兵は覆いかぶさるように倒れる。

 遅れて、獣の手から刃物が零れ落ちた。

 毛むくじゃらに圧迫されながら、自身の名を呼ぶ声がギルに近づく。数人がかりで獣をどかした騎士たちは、ギルの顔を覗き込む。遅れて、市民の一人が現れる。

 両手を組んで祈るようにして市民の魔法による治療が始まったことを確認した彼は、視線をガンダーの方にやる。すでに動かなくなってしまった敵の横顔を眺め、舌打ちをしたのだった。

「てめぇに殺されてやる義理は、ねぇよ」

 濡れる体を起こそうとした竜は、若い騎士に制止させられた。

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