(承前)集いの泉の珍客と

※前話「湧き出る場所に集う者」の続きになります

※軽度の性的表現(♂×♂)あり











 相変わらずの曇天の下で、お昼が近くなってきた。食堂へと向かい始める団体がちらほらと見えてきたところであるが、赤色と青色の竜は少し前に遅い朝食を食べたばかりだ。なので泉のほとりで向かい合って座っていた。

 二人の間の草には歪な形をした置物が並べられていた。涼し気な顔をしているラクリは取り出す魔結晶を自在に変化させながら、リエードの要望通りのものを形作っては。転がしていく。

 ミニチュウサイズの槍に、剣、棒に、箱。もとの結晶と体積自体が変わらないものの、彼の興味を惹くには十分だった。

「ねぇ、さっきのはどうして壊れたの? ちっちゃいのから?」

 わからない、と返されて、そっかーと緩いやり取りをしていた。

 ふと彼の興味は結晶から、彼女の背後へと移された。ラクリは彼女のリクエストが途絶えたことに気づき、顔を上げる。自身の方を向いているが、見てはいない。彼よりもだいぶ遅れて、後方へ視線をやる。

 二人の視線の先は、草原が広がっている。ちょっとした丘陵になっているそこには、青い頭が姿を現し始めたいた。のっしのしと歩いてくるそれに続き、一頭、また一頭と増えていき、全部で二十程度が泉へとゆっくりと歩いてきていた。

 その途中、先頭に立っていた青竜が立ち止まり、首をぐいと後ろに曲げ、空を震わせる。

 この泉を休憩地点とし、二日後に再び出発する。

 びりびりと震える空気に、泉にいた者たちの視線がそちらへと向けられる。だが悠然と姿勢を正し歩き始める先頭の青竜。群れはわずかに遅れてばらけ始めた。

「あら、あんた以外の青竜……初めて見たわね」

 青たちの方へ横目で視線を送っていたラクリの呟きに、リエードは答えることはない。ただじっと先頭にいた一頭を見つめている。珍客の来訪は、泉にいる者たちの視線を絶えず引き付けていた。

 群れの青竜? 珍しい。なぜこんなところへ? 水を求めてきたのか?

 青竜はあちこちを群れで生活していることは有名でこそあるが、者たちが集まるような場所にやってくることは滅多にない。

 小言はそう長く続かず、泉に来ていた者たちが再び自分のことに集中し始める。一方、先陣を切っていた青竜はきょろきょろとしていたが、紅竜たちを視界に入れると、のしのしと早足に歩き始める。

 途中にいる者など気に留めることなく、ラクリたちに近づく。

「そいつは誰だ? リ……リエード」

 生に満ち溢れたぎらぎらとした目がまず、ラクリを射貫き、次にリエードに向けられた。妙に低い、威圧するかのような声だ。

 その青竜は、リエードと比べる必要がないほど、大きく、逞しかった。くすんだ青色の鱗に覆われているのは、筋骨隆々という言葉が似あう、四つの脚と胴体。そして丸太のような太い首と尻尾。そして、彼にはない太く曲がった立派な黒い角を、後頭部付近にいただいている。

 だがその背後、遠くに見える青竜はリエードと同等くらいの体格のものもいれば、目の前の青竜ほどでこそないが立派な体格の者もいる。群れで現れたということを知らなければ、この二人を別の生物だと言っても納得してしまうだろう。

「友達、です。父上」

 憤怒をたたえる視線が、再びラクリへと注がれる。リエードは答えると同時に立ち上がり、二人の間に割って入る。ラクリを放置して親子は見つめあう。先に動いたのはリエードで、父親の胸板を肩で撫でるようにして通り開ける。行きましょう、と彼の短い誘いに、父親はもう一度、ギロリと紅竜の方を見た。彼女は睨み返すものの、顎を引いている。

「我が子に近づかないでもらおうか、悪魔め」

 父上、と苛立つ、少し遠ざかったリエード。

「ああ、そうしよう。まずはベルデのとこに行って、荷物を軽くしてきなさい」

 息子についていくために父親が踵を返した。ようやく解放された紅竜は、しばらくの間、大きな青い背中を見つめていた。両の手を力いっぱい握りしめながら、見送る。十分な時間が経ったのちに、はあぁ、と長く息が泉のほとりで吐き出された。汗もかかない額の鱗を右腕でぬぐい、軽く頭を振る。

「何よ、あいつ……まぁ、見る限り長、なのかしら」

 身震い一つをして、再び結晶で遊び始めた。割れてしまった結晶は、泉へと投げ捨てられる。

 魔結晶は一度形が変わると、魔力の操り勝手が変化してしまう。元の針のようなものは一般に販売されているので、惜しげもなく次々に変形させる。

 しかし、どんなものができるのだろうか。それが彼女の魔法への好奇心をほのめかしている。五つ目の結晶を投げ捨てた彼女がふと空を見上げてみれば、先ほどよりも雲がさらに近くに見えた。


 リエードの父を長とする青竜は群れを成し、移動する生活を送る。狩りなどもするにはするが、終わりのない旅路にはそれ以外の荷物が必要になることは多少なりとある。例えば、貴重な品だとか、薬だ。

 それらを持ち運ぶ役割を担っているのが、ベルデである。青竜の中ても若い男である彼は泉の食堂の横で、多くの荷物を背負いながら食事を楽しんでいた。リエードよりも年下であるにも関わらず、大きくがっしりとした体格で塔のような荷物を背負い、支えていた。

 絶妙なバランスを取りながら大きな肉にかぶりつき、休息を味わっていた青年が近づいてくる同族に気が付いた。離れたところに、長の姿もある。

「よう、リエード。前に寄った村から手紙飛ばしてもらったけど、なんかいいもんある?」

 荷物を下ろそうともせずにっと笑う彼の背中には、箱や袋が背負われていて、ロープで縛りあげられている。体が揺れるたびに大きく揺れるが、彼はそんなこと気にしていない。

 リエードが遺産の入った風呂敷を地面におろし、広げた。ガラガラと音を立てながら遺産が泉へと転がるが、尻尾で受け止められた。

「手紙に書いてあったのと、適当なの、持ってきたよ」

 そこにあるのは、市場では需要のない、動く遺産ばかりだ。

 例えば、一つだけでも光るもの。これは市場にありふれていて、街灯や道しるべに使われている。市場ではよく手に入るが、外では滅多に手に入らない、遺産どうしを接続する棒。

 それらを、市場以外の場所でやり取りするのが、ベルデの目的である。青い群れが必要としているものは、市場では手に入らないが、よそで遺産を欲しがっている客は五万といるのである。この遺産と、必需品を交換するのだ。

「いいじゃんいいじゃん。おまえの欲しいもんは? いつもと物は変わんないけど」

 おっと、と口の中の肉を嚥下して、にんまりと笑うベルデ。

「魔結晶ってある? 欠片でもいいんだけど」

 あるぜ、との返事と共に、荷物のうちの一つの袋を爪で示す。全部もってけよ、と一言添えたベルデの言葉に甘え、リエードは魔結晶入りの革袋を手に入れる。ありがとう、とリエードが言いながら紐を緩めてみると、太い針状のものがいくつも入っていた。

「遺産は選別しとくから、後で残りを取りに来いよ。親父さんとも積もる話もあるだろ」

 うん、と答えた小さな彼は袋を持参のカバンに入れ、サンバイザを脱ぐ。それはいらねぇよ、と目を丸くするベルデに、いらないのはこれに入れといて、と続ける。

 なるほどな、と再び食事を始めるベルデに、行ってくるよ、と答え、背後でじっと見つめてきていた父親のもとへと戻る。その途中、ちらりとベルデに視線をやるが、彼はまたおいしそうに肉に食らいついていた。

 一歩、また一歩と、リエードは昼の喧騒から遠ざかり、父親に近づいていく。体格を除けば、そこはかとなく似ている顔つきの二人だ。先ほどと同様、二人は視線を交わす。

 草原ばかりで、二人の近くには誰もいない。泉よりも少し離れた位置。他の青竜は泉周辺で思い思いにくつろぎ、それを遠巻きに眺めているのはゴマ粒大に見える魔法研究者たちだ。

「リクラ。行こう」

 はい、と小さく答える子に気をよくしたのか、巨体が近づく。右腕を持ち上げ、抱き寄せるかのように腕をまわす。愛おしそうに胸、喉と撫でながら、自らの胸に子の口先を触れさせる。

 曇天の下、お互いの息遣いだけを聞きながら、動きが止まる。

「エルディ、あちらの森なら……人目にも、つき、ません」

 リエードが、小さな声で父親の名を呼ぶ。そうしよう、とエルディは解放した子とともに森へと進路を向けた。リエードは一瞬足を止め、ちらりと泉を振り返る。

 誰も二人のことなど見てはいない。

 黙々と進む、父親のあとをついていく。


 生憎の天気だな、と軽装な立脚類の茶色い竜が市場の端っこでつぶやいた。

「雨降る前に、先、飛んで行ってもいいんだぞ? シェーシャ」

 そこは樹海の入り口。門のようなものはなく、少しばかり人が少ない。樹海付近に住んでいる者たちは、市場の中心や広い道で商いをするものだ。こんな貧困区の一角で商いするならば、それなりの珍品で腕に自信がなければ生計を立てられないだろう。

 土竜の彼、ギルの後ろでは、二頭の山飛竜が威嚇するかのように姿勢を低くし睨み合っていた。彼の言葉に首を傾げた一人が砂をのしのしと踏みしめ近づいてくる。

「えー、やだよ。下りにくいしー」

 ギルの隣に立つ、少し大柄な山飛竜のシェーシャ。右脚についている革製のポーチが特徴的だ。

「じゃ、ボクは先に行こうかな。歩くの嫌だし」

 もう一方は、小柄でこそあるもののしっかりとした体つきの、山飛竜のトレムである。大き目の革製のカバンを背負っている。

 三人は昨日、樹海に住む二人のもとへと遊びに行こう、と計画した。郵便配達を生業としているトレムも非番だったため、連れてきたのである。

「おう、そうしろ。先にエストん家で飯の用意でもさせてくれ」

 そうするよ。トレムは短く助走をつけて飛び上がった。巻き起こる旋風に塵埃も舞い上がる。目を細めた二人は、小さくなっていく彼を見送るのもほどほどに、樹海へと足を踏み入れる。

 鬱蒼と茂る樹海の、道なき道。草を踏みしめ、枝をのけ、茂みをかき分ける。履物をしない彼らであるが、特別分厚くなっている足の鱗のおかげで枝を踏みつけようが気にしない。パキッと音が鳴ったとしても視界の端で確認するくらいで、ためらうことなく二人は進む。

 飛竜であるシェーシャは、片翼だけでも広げればその体躯の二、三倍近くにはなる翼がある。それを精一杯折りたたんで、たまにギルとは異なる道を通り、距離が空けば待ってと声をかけ、先行する彼についていく。

 土竜であるギルは、ラクリよりも体格が人間に近く、すらりとした体をしている。木々の間をすり抜けたりするには困難はないものの、背の高さ故に、枝をかき分けながら進まざるを得ない。

「ねー、ギルー、リエードたちがここに住んでる理由って、知ってる? 市場ならもっと生活も楽だと思うんだけど」

 目の前に現れた茂みをためらうことなく踏みつぶしていくシェーシャ。その数歩先でギルが見つけた果実に手を伸ばしていた。

「さあな? 少なくとも、世界樹に興味があってきたんだろ。それ以外のことは知らん」

 残り少ない桃色に熟れた果実を二つもぎとり、一つを口に、もう一つを差し出す。

「だよねぇ。着いたら聞いてみよっと」

 すると、飛竜の巨体が密度の低い木々を小走りで通りぬける。パキパキと枝を折り、彼の手から果実を奪い取ると果汁を派手に垂らしながら種ごとかみ砕き、飲み込んでしまう。ぺろりと血色のいい舌が唇と鱗を滑った。彼女の姿ににこりともしない土竜は、道なき道を歩きながら果実をかじり続ける。

 樹海に唯一の小屋に向けて出発してそれなりの時間が経過した。もう間もなく、小屋に到着するだろうとギルが、目の前に生い茂る背の高い雑草をかきわけようとしたが、ふと立ち止まって振り返った。

 彼の背後で聞こえていた足音が消えたのだ。樹海の真ん中で彼女は首を伸ばして天を見上げている。尻尾を下げて、胴体と首を上方向へと伸ばして、黙してあらぬ方向を見つめている。数回の瞬き。ギルは踏み込んでいた足を戻して、ずっと背の高くなった彼女に近づく。

 あっちへ、こっちへと首を回していたシェーシャが、一方向を見つめて口を開く。

「何か、聞こえる。なんだろ」

 小屋への道とは全く異なる方角を見通そうと首を揺らす飛竜だが、脚は動かそうとはせずに暗い樹海を眺めている。

「あの二人以外にも、変人がいるのか」

 ギルが左手をうなじにあてて、首を軽く傾ける。

「変人って……聞こえるのは、声と水……?」

 そいつは助けるべきか、とギルが牙を見せつけながら息をつく。わかんない、とシェーシャは姿勢を低く戻す。

「こんな樹海に潜んでるもの好きがいるなら、騎士の連中によこさなきゃな。問題が出る前に片付けた方がいい」

 もう一度ため息。腰に着けていた短い刃物を抜いて、右手に握る。

「お前は先にエストん家行っとけ。できれば連れてきてくれ。場所は分かるな?」

 うん、と答えると、二人は別れた。

 騎士団は市の治安を維持することが仕事だが、未然に防ぐことも多い。だがこの広大な天然の迷路を知り尽くしている者はそうそういない。樹海の住民でさえすべてを知り尽くしているというわけでもない。

 すなわち、ここに迷いこむこともあれば、潜伏先として選ばれる可能性もあるのだ。

 それらに干渉すべく騎士団が侵入し帰ってこないというならば意味がない。ならば、多少なりと地理に明るい者が動くべきなのだ。ギルとシェーシャの二人は、騎士団と比較すれば明るい方だろう。

 間もなくして、二頭目の飛竜が樹海の小屋に到着した。

 軽く走っていたシェーシャは小屋の前の空間で丸くなっているトレムを見つけたが、そんなことはお構いなしに暖簾に首を突っ込んだ。

 逞しい脚が土を抉りながらブレーキをかける。器用に長い首だけを小屋に入れて、その巨体は小屋にぶつかることなく静止する。だがくりくりと動いた彼女の目は瞬時に、台所にいる赤と紫の後ろ姿を捉えた。

 彼女の名を思い切り呼ぶと、静かに手を止めて振り向いた。体躯のわりに小さな赤い目が客人へと向いた。

「あら、早かったわね。何かあったの?」

 その手には包丁が握られており、その刃には食材に食い込んでいる。

「久しぶり。ちょっといい?」

 ええ、と紅竜は答えると包丁から手を放して表に歩いてくる。首を引っ込めるシェーシャにどうしたの、とトレム。どうやら眠っていたわけではないらしいが、その目にはまだ眠気が見え隠れしている。

 外へ出て、ギルがいないわね、と呟くラクリに、シェーシャがそうなの、と答える。

「樹海の中で、変な音が聞こえたの。ギルに伝えたら騎士団に引き渡すかって言って、行っちゃったの」

 へぇ、と来訪者から視線を逸らす小屋の住人に、トレムがどんな音か、と尋ねる。

「水と、誰かの声、だと思う。はっきりとは、聞こえなかったんだけど」

 なんだろうね。目だけをシェーシャに向けるトレムは丸くなったままだ。

「それで、ラクリを呼んできてって言われたの。ここのこと、詳しいからって」

 そう、と静かな答え。彼女を見つめる飛竜はそこから少し黙る。すでに真昼が過ぎ、もうじき夕方になるだろう時間帯だが、いまだに空は晴れていない。灰色の雲が静かに流れている。

 分かった、とラクリがようやく口を開き、小屋へと戻る。トレムはここで待ってる、と呟いてから再び目を閉じてしまう。

 荷物を持った紅竜が戻ってきて、飛竜は耳を澄ましながら樹海へと戻った。

 地面に落ちる枝を折り、茂みを踏みつぶし、目の前の枝をかきわける。まだ音はするらしく、シェーシャは時折耳を澄ませるくらいで、迷うことなくラクリを導いていく。


 草原から樹海へと入った親子は、適度な広い空間を訪れると、草原から見えないことを確認して腰を落ち着けた。まずはリエードが座り、それに寄り添うように、囲むようにエルディが座り込む。

 わずかな仕草の起こす音が、やけに大きく響く。空も見えないほど茂っている樹は彼らを静かに見つめ、重苦しい空気を作り出していた。そして葉も揺れなければ、虫の一匹もいない、息の詰まる空間の中、エルディが子の頭に喉を乗せる。子の耳元に親の口先が近づき、囁く。

「元気だったか? あの悪魔にかどわかされてはいないか?」

 いいえ、と答えるリエードに、エルディは続ける。

「そのわりには、楽しそうに話しているように見えたな? 悪魔に心をよこしてはいかんぞリクラ」

 暗い赤色の舌が子の眉間を撫でる。リエードは目を軽く閉じるだけだ。

「エルディ、その……」

 リエードの言葉に、舌をぴたりと止めて彼は待つ。だが彼女は軽く頭を振ってなんでもありません、と続けた。

 市場からも泉からも遠いここには誰も来ない。今頃、他の青竜たちも泉でくつろいでいることだろう。ここに二人がいることなど気づかないまま時間を過ごしている。たまにエルディが体勢を変えるが、それでもなおリエードを傍に置き、彼女の体に時折、恍惚気味な視線を注いでいた。

 巨体をもつ男の青竜が、目の前にいる同族と目線を合わせた。男は大きな黄色い目が、二回りは小さい揺れる瞳を覗き込む。数秒後、男の方が動き始める。

 体格の勝る男は首を伸ばし、鼻先で彼女の頬に触れる。わずかな逡巡ののちに、彼女は軽く顎を引き、軽く天を仰ぐ。自然に開いた彼女の長い口を男がふさいだ。その巨体にそなわる口で、包み込むように。

 エルディが嬉しそうに目を歪めて、されるがままのリエードの口内をむさぼる。息継ぎの度に、粘り気のある唾液の音がこの狭い空間に鳴る。太い脚で相手を軽く押さえつけながら、接吻の角度を変えたり、背中を撫でたり、エルディは我が子を支配し続ける。

 何度も、しつこく、エルディはリエードを求めた。彼は抵抗をしようともしない彼女を、執拗に味わう。少しずつエスカレートしていく行為は、終いにはリエードを押し倒し、組み敷き、尻尾を絡みつかせていた。

「愛してる。リクラ、誰にもおまえは渡さない。おまえは、俺だけのものだ」

 リエードの目の前で涎と熱い吐息を放つエルディは、再び彼女に口づけを求めた。子は親の歪んだ願望を受け入れながらも、力なく視線を向けている。圧倒的な体格差の前に、彼は歯向かうことなどしなかった。返事も言葉も出さずに。

 リエードが目の前に迫る、獲物を食らおうとするかのような青竜の口腔。尻尾を強く締め付けられながら、彼は目を閉じて、ふっと全身の力を抜いた。

 その時、ヒュッと空を切るような音が鳴った。少し遅れて、ぴたりと動きを止めたエルディが首を曲げた。男の青竜の、丸い脇腹あたりに刃物が刺さっていた。

 舌打ちをしたエルディは後ろ足の爪でそれを器用に抜き取り地面に捨てる。それが飛んできたであろう方向を見つめ、リエードの上からどいて背後にかくまう。ゆるゆると目を開いたリエードは父が目の前にいないことを知ると、弱々しく立ち上がる。

 いくらかの沈黙の後、ようやく敵が現れた。彼らのいる空間の、二つほど外側にある茂みからぬっと立ち上がり、と歩いてきた。それは茶色い鱗を持つ立脚類の竜。

 最後の茂みを超えたあたりで口を開いた。

「あー、その、お楽しみ中、申し訳ないんだがな。誰だ、オマエ」

 地面に落ちたものと同じ刃物を握りながら、ぎっとエルディの方を睨みつけるギル。土竜からはリエードの姿は見えないが、エルディもまた睨み返していた。

「悪魔か。俺を殺し、長の座でも奪いたいのか? リクラを奪いに来たのか?」

 父は子に、下がっていろ、と命令した。それに従いおずおずと茂みに隠れた。

「……リクラ? そいつはリエードだ。テメェが耄碌してんだろうがクソヤロウ」

 明らかな不愉快を顔に出したギルは再び刃物を投げた。わずかに遅れて、エルディは刃物のことなど歯牙にもかけない様子で牙をむきながらドガドガと走り出す。刃は真っすぐ飛んでいき、エルディの、急所を外した喉に。一切ひるまない巨体に、目を剝いたギルが両腕を広げると、迫りくる巨体を受け止める。

「ふざけやがって……こりゃ、騎士のやつらに引き渡せねぇとな」

 男の青竜特有の大きな体を、土竜の中でも標準体型なギルが迎え撃つ。両手で相手の角を掴んで受け止めれば、二人は力を競い合い始める。

「黙れ小童が! リクラは貴様になぞ渡さん!」

 逞しい竜の前足の爪が地面を抉った。同時に受け止めていたギルの二の腕もぐっと膨らむ。お互いの険しい、威圧の形相を見つめている。

「何言ってんだこの耄碌じじぃが! リクラだかなんか知らねぇがどっか行けってんだ!」

 ギルも負けじと叫ぶ。だがエルディは吼えた。叫びとも言葉とも取れない、土竜以上の音を発しながら、さらに踏み込んだ青は土の懐にもぐりこみ、思い切り頭を振り上げた。するとギルの足が地面から離れて、掴んでいた角も放してしまい宙へと飛んだ。やけにゆっくりと飛んだ彼は、エルディの後方へとドシャ、と音を立てて落ちた。背中を激しく打ち付け、せき込んだ彼に、勝ち誇った笑みを浮かべるエルディが振り返り、見下ろす。

 だがすぐに、視線を上げた。我が子を匿う茂みの向こう側で、わずかな音が鳴っていた。葉と何かがこすれ、揺れる音だ。

「まだ、隠れていてくれ、リクラ。悪魔は、殺さねば」

 二歩、ギルに近づくエルディ。片前脚を彼の胸に置き、顔を近づける。

「悔いろ、悪魔。俺に歯向かうな。リクラを奪うな」

 それでも敵意を向けるギルに、いびつな笑顔を浮かべるエルディ。それからギルの細い首に向けて牙を近づけようとする。くそが、と吐き捨てるギルは腕を動かして押しのけようとするも、徒労に終わる。

 牙がギルの喉笛に食い込まんとしたとき、エルディの動きが止まった。目を見開き、ぱちくりと何度か瞬きをする。垂れる涎をそのままに、ぷるぷると腕を動かすものの、それ以上は動かなくなる。

「どぉした、耄碌じじい。俺にでも惚れたのかよ」

 挑発気味の睨みを効かせるギルに、馬鹿言ってんじゃない、と反論が届く。その後、エルディはゆっくりと横に倒れた。ギルの隣に、添い寝するような形となる。

「何やってんのよ、ギル。元傭兵のくせに」

 その場にはいなかった女の声だ。おせぇよ、とギルが視線をやった方向には紫の衣をまとう紅竜がいた。その後ろではシェーシャがひょっこりと頭を出している。

「負けるときゃ、負けるもんだ。ただ、今回は装備もなけりゃ、相手が悪かった」

 はあ、とため息をつくギル。なおも動揺している様子が見て取れるエルディの下からはい出し、リエードのいる茂みへと、肩をさすりながら歩き出す。軽く背を曲げながら。

「赤いの、貴様、何をした。殺してやる……殺してやるぞっ」

 寝ながらも明らかな殺意が彼女たちに向けられる。ラクリはわずかに、シェーシャは大いに驚いて茂みに身を隠すが彼は動かない。

「さぁてね。私は何にもしてないわよ。ここにきて、隠れてただけだもの」

 敵意を持った視線が、青の父と赤の間で交わされる。一方、リエードを見つけ出したギルは彼に声をかける。

「だいじょぶか? コノヤロウに脅されでもしてたのか」

 被り物もつけていない子供は、いつしか小さく丸まっていた。獣のように小さくなり、目を見開いて震えている。事が済んだというのに、ギルに気づいていない様子だ。ギルが焦点の合っていない目にぐっと顔を近づけ、おい、と低く声をかけた。

 すると、激しく揺れ動いていた瞳が静かに彼を認め始める。

「あ、ギル……父上は……?」

 警戒しているような、怯えているような様子に、帰るぞ、とギルは声をかけ、友の背中を叩く。そして青竜の長をおいて、小屋へと四人は帰宅した。


 僕の父上は、長だった。名をエルディ。そして母上はリクラ・イトス。下につく名は、役職を持つ男からは剥奪されるのが習わしなんだ。だから、役職に就く前にここに来た僕はイトスを名乗り続けている。

 役職っていうのは大人になった男に与えられる役割。群れを守る守護だったり、獲物をしとめる狩人だったり、そういうのを束ねるのが、長の、父上の、エルディなんだ。一方で、女の方は、子育てに専念したりする。子供がいなければ、役職に従事したりするけれど。

 で、一人の男が複数の女と子供を作ることも珍しくなかった。父上もそうだった。けれど、父上が熱心に惚れ込んだのは母上で、その結果生まれたのが、僕。

 ある意味では、僕が生まれたせいなんだ。まぁ、事を追って説明しなきゃ、ね。

 僕は男だ。周囲の友達と遊んで、怪我して、親の真似をしたりした。けれど、いくら歳をとっても、身体はまるで女の体格さ。見ただろ、父上や、群れの男たち……。ある種の憧れさえも抱いていた時期も、あったけれど、今はもうどうでもいい。

 それで、あるとき、母上が死んだ。ある晩、ハンターに狙われたのさ。深夜に、一撃でばっさりとね。僕は群れの真ん中にいたから気づかなかったし、どうして狙われたかは知らない。覚えているのは、初めて目の当たりにする同族の死と、父上の怒りだった。

 長としての職務を放棄して、エルディはあっという間にかたき討ちを果たした。ラクリたちを悪魔って呼んでいたのは、そのときの影響さ。立脚類たちが首謀だったのさ。だからそれ以来、そんなふうに呼んで、毛嫌いしているんだ。


 樹海の小屋の前で、ラクリ以外の四人が焚火を囲んでリエードの言葉に耳を傾けていた。飛竜の二人と土竜は、時折頷いたり返事をするだけだった。

「母上を、大好きな人を失うと、ああなるんだって、思った。関係のない誰かも巻き込んで、さ」

 そうだな、とギルが湯気立ち上るカップを口にする。


 それから間もなくのこと。父上は僕を僕と認識する以上に、僕を母上と認識するようになってきてしまった。似ていたから。僕は。群れの中を見回っていたら、急に飛びついてきて、リクラって、呼ぶ。でもはっとして、リエードって呼んでくれていた。

 何度も繰り返しているうちに、嫌になった僕は群れから離れた。前から気になっていた世界樹にやってきた。もしかしたら、これが引き金になったのかもしれない。

 それ以降も、父上は長として卒なく群れを率いていたみたい。これでよかったんだって思った。僕もエルディも傷つかない最善の方法だって。

 けど、定期的に手紙が来た。近くを通るから、顔を見せにこいって。今回で、六回目くらいになるかも。

 元気にしているみたいだから、ふっきれたんだと思って行ったら、全く違った。母上に対する執着が強くなっていた。それはほかでもない、僕に向けられていた。抵抗するだけの力もなければ、拒絶するだけの勇気も出なかった僕は、我慢するしか、できなかった。


 巻き込んでごめんなさい、と青竜が頭を垂れる。お互いに首をかしげて見せる飛竜はどうしたものかと押し黙る。一方のギルは何も被っていないリエードの頭部に手を伸ばし、ぐわしと掴んだ。続けて撫でるのか、拷問をしているのかよくわからない状態になる。

「まったくだ。ああいうのは面倒後になる前に、片付けるのが道理だ。面倒ごとを増やしやがって」

 しかし互いに軽く笑っていた。リエードはされるがまま、痛い痛いと口にする。

 しばらくして、ラクリが小屋の中から現れた。手には食べ物の乗った皿がある。内外を行き来しながら全員に皿を渡し終えれば、焚火を起こして夕食が始まった。生肉しか食べない青、飛竜はあっという間に平らげておしゃべりに興じる、その他も口にする赤と茶は黙々と、その話を聞いていた。

 その際、リエードがエルディの身に何が起こったのか、と尋ねた。シェーシャが軽くふんぞり返り、説明する。いわく、彼女の手製の、魔法性の痺れ薬らしい。ギルが武器にそれを塗り付け、シェーシャが魔法で増幅させることで効果が出てくるらしい。

 今度教えてよ、とラクリが聞けば、シェーシャは嫌だ、と断った。


 皆が寝静まり、リエードだけが起きていた。ラクリは自室へ戻り、他は外で雑魚寝だ。彼も屋内に寝床があるのだが、眠れずに、外で友達の姿を眺めていた。寄り添うように丸まっている飛竜に、横になっている土竜。寝息と虫の鳴き声だけが聞こえる。

「リエ、いるか?」

 ふと、足音と共に、聞きなれた声が聞こえた。エルディの声だ。どこからかは分からないが、近くであることは確かだ。うん、と答えた彼に、声だけのエルディはそのまま聞け、と返す。

「リクラは、夢中になるほどに惚れてしまったやつだった。どうして、おまえがそこまでそっくりなのか。運命のいたずらか、リクラが未来に残した置き土産だったのか……」

 数時間前とは違う、思い出語りのような物言い。

「俺は長だ。先代から役職を託された長だ。群れを率いて、あちこちに行く。もしかしたら、この立場に酔っていたのかもしれん。本当は、リクラは、長に見染められたからこそ、素直だった、のかもしれんな」

 地面を爪でこする音。

「愛していた。これは事実。そして、おまえが彼女の生き写しであることも事実だ。だが、先の件で、分かった。おまえはもう、俺のもとにはいない。おまえは、リエ……リエードだ。リクラのために、俺も、努力は、しよう」

 父の言葉に、リエードは一歩踏み出す。

「リクラはもういない。そしておまえには、おまえを案ずる者がいる。自立するべきは、俺、だな」

 少しずつ、嗚咽に近づいていく言葉。もう一度、言葉を紡ごうと冷たい空気を吸い込もうとする。ところが、それは妨げられた。目の前の茂みをかき分け現れた息子によって。

「母上のフリは、これで終わらせましょう、父上。僕も、次はおまえをぶん殴りますので、お覚悟を」

 楽しそうに口にする彼に、持ってきたのであろうサンバイザーを被せてやる。ベルデに預けていた荷物が、数を減らして渡される。ありがとう、とそれを持って小屋へと戻る後ろ姿を見送って、エルディも樹海の中へと姿を消した。

 ようやく静けさを取り戻した月と樹海は、ただ静かに竜たちを見守っていた。

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